柏餅
ネプ ヒステリカ
柏餅
家の近くに和菓子屋があった。
結婚してこの街に引っ越してきたときには、すでにそこにあった。
比較的新しい住宅街の中にポツンと、その和菓子屋がある。
看板に、創業慶応2年と書いてあったのでずいぶん古い。
老舗だと思っていたら、
「あの和菓子屋さん、昭和の頃に、ここで開業したそうよ」
と、情報通の妻がいった。
この街が開発された当初から住んでいる近所の夫人が、前の店主に「創業が慶応なんて、老舗ですね」と、きいたら、「だれも気付いてくれませんが、はったりですよ」と、笑ったらしい。
「はったりかあ」
店主の明るい人柄がうかがえた。
面白いなと、オレは思った。
子供が小さかった頃は、オレもあんこが好きなので仕事帰りに、ときどき買って帰った。
あの頃、ショーケースに入っているお盆に、ぎっちりと菓子が並んでいた。
あるとき、あんなにたくさん売れるのだろうかと、いったら、情報通の妻が、
「旧市街に有名な茶道家がいらして、そこに持って行のだ」
と、いった。
子供が小学校のとき、その和菓子屋の店先に若い夫婦が立つようになった。
愛想の良い店主は、いつもニコニコしていて、それでいて職人らしい雰囲気があった。
奥さんは、愛らしい人で、和菓子を買ったとき、やさしく微笑んでくれる。
店主より、奥さんに接客してもらった方が気分が良い。
なんて、つまらないことをいった。
「そんなの、顔に出したら、変態だと思われるわよ」
と、妻にたしなめられた。
子供が大きくなって、中学に入る前、ふと、気付くと和菓子屋のショーケースに隙間ができるようになった。
それでも和菓子屋の夫婦は、仲がよさそうだった。
店の前を通っとき、中を見ると、二人で隅で楽しそうにしていのが見えたた。
その度に、仲の良い人たちだと思った。
上の子供が高校に行くようになって、和菓子屋の店頭に、奥さんの姿が見られなくなった。
「どうしたんだろう」
と、情報通の妻にいったら、近所のスーパーで働いているといった。
「あの奥さんのこと、気になるの」
と、いったので、
「たまにしか買いに行かない店の奥さんにそんなことを思うはずがないだろ」
と、応えた。
「そうね」
と、妻がいった。
からかわれた気がした。
ムッとしたら、
「変なこといったわ。気を悪くしないで」
と、妻がいった。
怒るほどでもないよと、オレは応えた。
ただ、少しだけ、記憶の底にあるかわいかった奥さんの、働く姿を想像した。
子供が、大学に行き、家を出てから、仕事帰りにおやつを買って帰ることはなくなった。
歳を重ねるごとに仕事が増え、忙しくなった。
休日も妻と二人、話すことはほとんどなくなった。
「子供が小さかった頃は楽しかったね」
オレが、いったら、妻が、
「そうね」
と、気のない返事をした。
歳を取ると、夫婦関係もこんな風になるのかと、オレは思った。
それからしばらくして、妻が離婚を切り出した。
前から付き合っている、好きな人がいるといった。
長く付き合っているらしい。
子供が高三の頃に知り合ったといった。
あの子が受験の時かと思った。
あの頃からオレも忙しくなって、家のことを考えなくなった。
全く気が付かなかった。
不思議と嫉妬などの怒りはなかった。
慚愧と、申し訳ない気持ちでなにもいえなかった。
オレたちは別居した。
妻が知らない男と一緒に暮らすのかと思うとすこし悔しかった。
が、それ以上の感情は起きなかった。
子供に離婚のことを話すと、
「いいんじゃない。みんな離婚しているし、したことのない人なんて、一人前じゃないかもね」
と、いった。
大人になった子供からすると、親の離婚なんて、そんなものかも知れない。
別居の後、しばらくして、オレたちは離婚した。
中年、初老の男の一人暮らしはわびしい。
子供たちもほとんど顔を出さなくなった。
そんな中、自堕落になってはいけないと、気を付けた。
生活のリズムが壊れたらおしまいだと思った。
それでも、ゴミ出しを忘れてしまったりすると、激しい自己嫌悪に陥ったりした。
一人暮らしになれかけたとき、久しぶりに甘いものを食べたいと思った。
仕事帰りにあの和菓子屋に行くことにした。
が、和菓子屋が見つからなかった。
迷ったと思った。
場所を勘違いしたのか……。
住宅街にポツンとあった小さな店が、見当たらなかった。
街の風景も少し変わった。
通を間違ったのかと探したが、なかった。
と、店のあったところが空き地になっていた。
「気が付かなかった」
動転して、見過ごしたのだ。
ひどく後悔して、申し訳ない気がした。
もう少し早く、買いに来れば良かった。
「店がなくなっているいるなんて……」
気が付くと、オレは、和菓子屋のあったはずの空き地に頭を下げていた。
柏餅 ネプ ヒステリカ @hysterica
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