夜の彼女

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彼女の時間

高橋は仕事を愛する男だった。


就職してから五年。肌に合ったのか、営業部で件数を積み重ね、若くして本社営業部へ異動となった。

それからも順調に成績を伸ばし、いつしか「エース」と言われるようになる。あと、何年かすれば事業所長を任され、それから本社役員への道が開かれる。大過なければ。


高橋は本社で仕事をする傍ら、一人の女性と交際を始める。同じ課の営業事務だった彼女。彼女とは趣味のテニスを通じて仲を深め、”気が合った”のが理由だった。


ここまでは、よくある社内恋愛の話だが、高橋は大きな過ちを犯す。

付き合い始め、皆から祝福される二人。二年もの交際の先に、二人の目に結婚の文字が見え始める。しかし、高橋の目は別の所に向き始めていた。海外事業部への栄転の話だった。


急増する仕事に追われて、彼女との二人の時間が少なくなり、いつしか、メッセージの返信も返さなくなった。

程なく、彼女と会う事も、彼女からメッセージが来ることもなくなった。そして、彼女は仕事を休みがちになり、そのまま休職した。高橋は気にはなっていたが、彼女に連絡をすることはしなかった。ある日、部長から呼ばれて、彼女の休職の理由を知ることになる。それからも、高橋は仕事を続けたが、周りから冷ややかな目で見られるようになった。


彼女が退職の道を選んでから、高橋に辞令が出た。小さな事業所の営業課長だった。事実上の左遷に、部長は”自分を見直せ”と高橋に言葉をかけただけだった。


転勤から一年。高橋は営業マンとしての才を失ったかの如く、成績を上げられなくなった。転勤の理由は事業所にも伝わっている。皆はどう接して良いのか分からず、親しくなることは無かった。言い知れぬ疎外感と孤独。高橋は今更ながらに、彼女の辛さを感じるようになる。


高橋の日常は変わった。資料作りで残業。休みの日には接待ゴルフに、商品展示会でのプレゼンなどの忙しさで、気を張る事は無くなった。休日は寝て過ごし、定時に帰ると社宅のワンルームでぼんやりとテレビを見て時間を潰し、酒の力で寝る。


そんな日々が続いたある日、眠れずに深夜にコンビニで酒を買って帰る道すがら、ふと、公園を抜けようと思った。抜けたから早く部屋に着くという訳ではなかったが、その日は、何となく公園に足を踏み入れた。


十月の晴れた夜。満月が落とす灯りは、外灯よりか明るい。寒さに身を地締めながら歩いていると、ベンチに誰かが腰かけている。近づくと女性だと分かった。外灯に照らし出された彼女は、黒のハイネック一枚という薄着で、ビールの缶を握っている。


黒く長い髪、寒さで血色を失ったのか、透き通るような白い肌。顔はよく見えなかったが、そこそこ若いのだろうと思えた。それは、高橋に投げかけられた言葉から、そう思ったのだ。


「こんばんは。」


艶やかで張りのある声。高橋が言葉を返さないでいると、彼女は、ビールを一口飲むと言った。


「寒くないですか?」


高橋は「そうですね」と言って、そのまま立ち去った。振り返ると、彼女はビール缶をそのままに、夜空を見上げていた。


そうした公園でのやり取りが、何回か続いたある日、高橋は彼の方から声をかけた。


「寒くないですか?」


彼女は「まあまあ」というと、ベンチの隣を空け、「どうぞ」というように指さした。高橋は逡巡したが、こちらから声をかけた手前、断りづらく、隣に座ってしまった。

初めて見る彼女の横顔。白い肌はアルコールのせいなのか、ほんのりと赤く上気していた。顔の線は細く整い、黒目がちの目が高橋の目に入り込む。


「眠れないんでしょ。そうでしょ。」

「そんな顔をしてる。」


ビールの缶を地面に置くと、どこから取り出したのか、もう一つ缶ビールを開けると一口飲んだ。高橋が「貴女もだろう」というと、彼女は首を横に振った。


「仕事上がりの一杯を楽しんでるの。」


彼女は派遣社員として工場のラインで働いている。この時間に上がって、これから朝方に寝て、夕方から働くのだという。彼女にとって、これからが自分の時間だそうだ。だが、時間が合う友達はいない。それほど田舎ではない土地だが、深夜にやっている居酒屋などない。単身でアパート暮らしの彼女は、月を愛でながら一杯やっているそうだ。だから、高橋とは違う人種だと言った。


「そうですか。それで、貴女は眠れているんですか。」


その高橋の言葉に彼女は頷く。働き者の自分には、心地よい眠りという対価を得る資格があると言うのだ。高橋はまるで、自分が堕落した働かない人間と罵られたようで腹が立ったが、今の自分を顧みると、言い返す自信が無くなった。


そんな高橋の表情を見て、彼女は「眠れないのは呪い」とだけ言うと立ち上がり、「また今度」と言って、ふらふらと闇夜に消えていった。



それから、数か月の間、高橋と彼女は会い続けた。一人は眠れぬ夜の為に、もう一人は自分の時間を楽しむために。時として、深夜にドライブに出かける事もあった。


誰もいない海岸を散歩する。会話は無く、月の明りに照らし出される彼女の白い肌と、時折、かき上げる黒髪から覗く白く細い首筋に魅入られた高橋は、強引に彼女を抱き締めた。抱きしめると小柄で細身だと分かった。海風にさらされたせいか、体は冷たい。しかし、彼女の体は、高橋を取り込んでしまいそうに柔らかかった。彼女は高橋に距離を置いているようだったが、高橋がリードし距離を縮めるていった。高橋の部屋で過ごす事も増え、そして、お互いを求めあう仲になったが、高橋は口付けを拒む彼女に、埋めきれない距離があるのだと感じた。


そんな生活は、高橋に過去を忘れさせるのに十分だったが、増々削られる睡眠に、目に見えてやつれていった。距離をとっていた同僚達も、さすがに心配して声をかけたが、当の本人には、その自覚は無く、幸せであるとさえ感じていた。


ある夜、高橋と彼女は、いつもはベッドの中で、彼女が家路につく時間まで取り留めのない会話をするのだが、溜まった疲労からか寝てしまった。起きると、まだ、時計は深夜を指している。

目が慣れた闇夜の中、彼女の寝顔を眺める。顔にかかった髪を、指でそっとかき分ける。静かに閉じられた目に緩やかに閉じられた唇。濡れた唇に、高橋は指を添えると、ゆっくりと、その柔らかさを堪能し、濡れた指先でかき分けるように、彼女の口のに忍び込ませた。異物を感じたのか、彼女は少し体をよじらせると、指先を舌で押し返そうとした。指先は舌と絡み合い、押された滑らかな歯に押し付けられる。まだ口から出ない異物に仕置きをするかのように、彼女はゆっくりと甘く指を噛んだ。その瞬間、高橋は指に痛みを感じた。まるで、鋭い剃刀の刃が、肉を裂いたかのような痛み。


慌てて引き抜くと、薄く長い切り口から止めどなく血が溢れる。痛みは瞬時だけで、あとは脈打つような血の流れしか感じない。流れ出る血が腕を伝い、シーツに沁み込む頃、彼女はゆっくりと起き上がり、寝ぼけたような目で、高橋の目を見つめた。そして、高橋の手を掴むと丁寧に血を舐めとり、終わると脱ぎ捨てた服を着始めた。


乱れた髪を指でとかし終わると、ベッドに腰かけ、高橋に寄りかかると、少し笑ってみせた。


「びっくりした?」


すこし悲し気に見える彼女の笑み。彼女は高橋の手をとると、彼の指で自分の唇を空けさせた。そこに有る物を高橋は呆然と見つめる。

彼女は立ち上がると、大きく伸びをした。


「二度寝になるな。」


そして、彼女は部屋を出て行った。



それから高橋は彼女と会っていない。会わないようにしている。あの公園も夜も昼も通らない。定時が迫る。陽はとうに傾き、ビルの間に早々と夜を敷き詰める。夜の帳が下りる。


彼女の時間が始まる。


夜の帳が下りる。高橋は闇が深まる前に部屋に戻ろうと、足早に家路についた。















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