第10話
本来、田んぼに囲まれた場所というのは、夜になれば闇に包まれ歩く事さえ
ままならないものだが、
燈された、ここ新吉原では、漆黒の闇に浮かび上がる、夢幻的な別世界が
広がっていた。
静香は、別世界の中の別世界に遊女として潜入捜査を始めた。
◇
吉原の仲之町通りは、艶やかな切子燈籠を店に燈し、溢れた淡い光が
幾筋にも重なり合い幻想的な雰囲気を漂わせていた。この「玉菊燈籠」と
呼ばれる催しは、かつて伝説の花魁と呼ばれた「玉菊」を
ものだ。今宵はいつもより一層、興奮と期待に包まれている。
突然、通りの中程から、紫色の煙がふわり立ち上がる。風で巻き上がった
煙がゆらりと広がる中、
続く笛の旋律が静かに吉原を覆う。同時に、サツキと伽羅の香りが、通り全体
に雅楽と風に導かれ、甘い香りで包まれていった。
前に一歩踏み出そうとした静香は、散々練習した高下駄に「グキッ」と
つんのめりそうになった。百合とお咲の素早いフォローに事なきを得たが、
とんだ大恥をさらすところだった。
しかしその焦りは、上手く紫の大輪の煙を霧散し、華やかな花魁姿の静香--
いや、ここでは
彼女の脇には
雅楽奏者がいた。
少し距離を取るものもいる。「玉菊」が生まれ変わったとされる
不安も広がる。
しかし、遊女たちは顔を紅潮させ
「あれ見なんし!」
「ひゃ~」
「
「おうれしうおざんす。」
と囁き合い、喜び合っている。
当の静香はと言うと、
-- こんな高下駄、一体だれが考えたのよ…歩きにくくてしょうがない!
それに、なんで
あと、煙…演出しすぎ?花火職人がんばりすぎでしょ!--
と、恥ずかしさと緊張感を押さえるのに必死だった。
通りの両側では、「
見世の者たちがどんどん集まり始めた。誰もが彼女の動きに目を注ぎ、甘い
香りと衣擦れの音に刺激され、その後の展開を息を詰めて待ち構える。中には
「これは何かの前兆かもしれない」と、神妙な顔つきで囁き合う者もいた。
ゆるりと、歩いていた一行は、多くの見物客を引き連れ、やがて吉原大門の
近くの、一軒の引き手茶屋入った。店の者達は彼女を迎え入れるのに、
大わらわで、皆がその雰囲気に飲まれていった。
「わちきに、茶をひとつ、おくんなんし。」
彼女の声が静かに響き、雅楽が鳴りやむまで、皆がまるで夢の中にいるかの
ようにぼんやりと立ち尽くしていた。
それ以降、彼女たちの姿を見ることは出来なかった。
「
口々にし、困惑しつつも、その神秘的な存在に再び心惹かれた。
吉原の夜はさらに謎めいたものとなり、その闇の中で新たな興奮が
渦巻いていった。
◇
派手な花魁道中を終えた三人は、すぐに衣装を丸め、まるで盗人のように
屋根伝いに闇夜に消えた。いまは
の一室で腹を満たしながら、話が始まった。
静香は箸でご飯をつまみながら、溜息交じりに言った。
「まさか、あれほど派手に登場するとは思わなかったわ。」
お咲は口にほおばったおにぎりを急いで飲み込み、何度も頷く。
「私も、びっくりしました…」
百合は口元を手で拭いながら、笑みを浮かべて答えた。
「まぁ、このやり方が吉原での裏の
静香は首をかしげながら茶をすすって、
「どうして?」と尋ねた。
百合は、箸を止めて説明を始めた。
「
と昔から奉行所や町年寄が噂を流したのよ。だからみんなが警戒して、
特に悪い奴らは焦るわ。」」
お咲は、まだ理解しきれていない様子で「それで?」と問いかける。
「吉原の人達は緊張し、客は玉響に釘付けになるでしょう。そして、
悪だくみしている者は、その混乱を利用しようと動き出す…その時を
狙って、私達が探りを入れるのよ。」
百合は食べかけの団子をもう一つ取って、静香の方を見た。
「なるほどね…」
静香は納得したが、お咲はまだ驚いた表情で頷いた。
「そう言う事だったのね。」
百合は軽く笑いながら、
「簡単に言えばね。」
と言い団子にかじりついた。
食事を終える頃、台所に入ってきた店の者が
「おーい、相模楼の仕出し品、もう整えたか?」
とにわかに忙しくなり始めたようだが、
「昨日の宴は妙に騒がしかった話だが…何かあったのか?」
職人だろう、そう聞き逃せないことを言い始めた。
「へぇ~、それは面白そうだねぇ、ちょっとその仕出し、あたしらに手伝わせて
おくれよ。」
百合の言葉に、
「ほう、あんたらが?手が足りねぇんで助かるよ。」
あっという間に、三人は女中の様相に変わり、店の男を先頭に、
相模楼に向かった。
「しかし、姉さん、力持ちだねぇ~」
仕出し品の入った重そうな木箱を、幾重にも積んで軽々運んでいる
静香に、男は苦笑いしながら言った。
相模楼は中規模の
いつものように喧騒に包まれている。
裏の勝手口から中に入ると、何人もの遊女が朝食を食べ、風呂から上がった
のか湯気の立ちあがる女たちは、甘い白粉の香りが漂う中で…昨夜の客の話か、
「おや、まぁ…」「およしなんし」
などとクスクスと笑い合う。
大火鉢の前で主人が指示を出し、番頭が忙しくそこかしこを動き回り、二階
からは掃除のバタバタした音が響いて来る。
「ちわ~、仕出し屋で~」
と返事も待たず進む。
静香達は玄関口の階段を上がり、各個室に配る手はずだ。
それぞれが変わった事が無いか、意識しながら仕事をしていると、大き目の
部屋が少し空いていて、中から
「朝霧ねえさん、ねえさん、起きてください」
「おや、昨夜は何か騒ぎでもあったのかい?」
静香は、木箱を置きながらさりげなく声をかけた。
「ええ、なじみの客人でしたが…突飛な声出したり…泣いてみたり、
大声で叫んだり…何と言うか、物の怪に取りつかれたようで」
「それは怖かったね。他に何か変わった事は?」
静香は少女を包み込むように優しく促す。
「最初はお笑いになり楽しそうでしたが、たばこ盆を持って行ったあたりから、
中に入るなぁ言いしゃして…いつもと違う匂いでありんした。」
少女は小声で答える。
「その匂い、いつもそんな風だったの?」
静香が尋ねると、少女の瞳が一瞬揺らいだが、すぐそれを振り払うかのように
首を振った。「いえ、そんなことは…ありんせん。」と言うと、
静香の視線を避けるようにして、奥へ行ってしまった。
そばに近づいてきた百合に、
「たばこ盆って?」
どうのように警戒して良いか分からない静香は、言葉を短くする事しか
考え付かなかった。
「こっちよ。」
遊女たちの個室が詰まった2階は、廊下も複雑に折れ曲がっている。
おしゃべりの止まらない各部屋を通り過ぎると、ある一角が、座敷に
必要な物を入れる予備部屋になっていた。百合の指さすその棚には、
手提げが付いた針箱ぐらいの大きさで、灰皿、刻みたばこ入れ、キセル
がきっちりと入る漆塗りの豪華で雅な物が、いくつか並んでいた。
「まあ、すてき!」
場違いな反応をする静香を横目に、百合が片眉を上げて、新しめの桐の
箱を手に取った。
「なんだろうねぇ?これ」
箱のふたを開けてみると、ガラス瓶の周りに、紙屑やゴミが入っていて汚く、
匂いもひどかった。
「これは、水を使って吸引する道具だねぇ」
パイプを出した拍子に、こぼれ落ちた紙屑を静香は広げながら、
「見てください。亀の印の薬袋ですね。」
大きくため息をつきたかったが、今はそれを見せる余裕はない。
さらに百合は、同じ桐を使った衣装箱の様な物を取り出してきた。
蓋を開けてみると、細かく区分けしたそれぞれの中に、精巧に作られた
ガラス細工の筒と、接続用の銀の金具などが、詰まっていた。
「あっ!これ、人形町の長屋で見た大きな吸引機だ。組み立て式で、
持ち運びが出来るんですね。」
静香の驚きに同調するように百合が、
「ご丁寧に吸引機に切子で亀の印が彫ってある。けど、
まだ使った様子はないわね。」
「こうやって、吸引機をそっと
「かもしれないわ…人形町の長屋…」と百合が考え込むと、
「おーい!」と
百合は手早く道具を箱に戻しながら、頭を振り、思考を振り払った。
「今は急ぎましょう。」
静香も頷き、二人は無言で道具を戻した。立ち去る際、静香はもう一度
部屋を見回し、指差し確認すると、百合の笑いを誘った。
「いま~」
静香は男に大きな声で応じながらも、不安の影が消えないまま、
相模楼を後にした。
◇
「おや、楽しそうなお声がしたので、あちき達も混ぜておくんなし」
その声が響いた瞬間、その座敷に風が吹き抜けたかのように、その場の全員が
一斉にその方向を向いた。紫の衣装を纏った、静香…いや、
が天界から現れたかのように立っていた。その姿に驚きの声が次々と上がる。
「玉響様じゃないか!」
「My God! What a beauty!」
「信じられない、ここでお会いできるなんて!」
数日前、百合の耳に入入ってきた噂があった。「外国人たちが吉原で大見世を
買い上げ、今夜は豪華な宴会を開いている」というものだ、偶然通りかかった
ふりをし、捜査に潜り込もうとしていた。
花魁たちが上座に並び艶やかな着物に身を包み、優雅な面持ちで品定めを
している風だったが、玉響の登場で一気に上気して明るい顔を見せた。
-- あら、これは初顔合わせね。まだこの男たちは吉原でも、試されてる
段階かしらね。 --
静香の考えを分かったかのように、百合もお咲も視線で頷き合った。
噂通り、今回の宴主は、豪奢な絹の着物に身を包んだ太った男で、玉響を
見た瞬間、驚きのあまり顔が真っ赤になり、思わず立ち上がりかけた。
その口は半開きのままで、一言も言葉が出ず、ただ彼女を見つめ続ける。
「歌、歌うよ。女神 綺麗 花魁 楽しい」と、片言の日本語なので、
要領を得ない。彼は焦って通訳に助けを求めた。
彼が連れてきた客は、筋肉の鎧の上に軍服を着た
の外国人と英国風の背広を着た商人がいて、通訳が彼らの話を繋いでいた。
その時、座敷の奥から、突然三味線の音が響き渡った。驚いた顔をしたのは玉響
だけではない。百合が何の前触れもなく、男の節に合わせて三味線を弾き始めた
のだ。
百合の三味線の音色は、宴会場を一瞬で包み込み、全員がその演奏に聴き入って
しまった。
-- 私が玉響になるより、よっぽどお百合の方が向いてるじゃないの! --
などと、静香は少し嫉妬交じりの気持ちが湧いてきた。
男の歌は、古い物語を語るかのように続いた。
「昔昔丹後国 浦島男在 子供太郎 二十四五
明暮鱗捕 両親養折 或日徒然 釣出…
…助亀連行 蓬莱山… 」
-- 浦島太郎なの? 蓬莱山?竜宮城じゃなくて? --
静香は眉をひそめた。浦島太郎の話だと思っていたが、様子が違うなと思って
いると、その歌は佳境に入った。
「…猿田彦命 東王公 摩利支天 焔影 不老不死…」
ところどころ聞き逃せない言葉が出てきた静香は、体の中から沸々と熱い
物が湧き上がって来るのを感じた。が、他の皆は楽しそうに合いの手など
入れている。
「猿田彦命が、浦島太郎に蓬莱山へ行けと導いたそうです。そこで、神の東王公
に出会い、不老不死の力を手に入れる物語です。この話は、蓬莱山が重要な
場所だと伝えていますね。」と通訳が静香に微笑みながら説明した。
静香は言葉を失った。
"焔影一族、亀、蓬莱山"の言葉は捜査にとってかなり重要だ。だが、
静香にとって、"猿田彦命、摩利支天、東王公、不老不死"は自分の存在を
揺るがしかねない言葉だ。
頭の中が整理できないまま、どんどん血の気が引いていくのを感じた。
白粉をかなり塗っているので、
静香の様子に気付いた百合は、お咲に目配せをし、上手く男の歌を終わらせ、
お咲と一緒に静香の肩に手を置いた。
我に返った静香は、気持ちを落ち着けて、
「とても素敵な歌でありんした。今宵は月に呼ばれてありんす。」
「Stop right there, love. Bloody hell, get your act together!
You're good for nothing!」
<おい、そこで止まれよ、嬢ちゃん!お前は何もしないで帰るつもりか!>
と突然、軍服を着た大男が立ち上がってノシノシと静香に近づいて来た。
楼主と花魁達は、これから起こりそうな事に
慌てている。通訳は日本語にするべきか迷った。
軍人が静香の肩を「ガッ!」と掴んだや否や
「野暮はごめんでありんす。」
と振り向きざま、静香は言いながら、軽く胸を押した。
「ドーン」という音と共に5メートルほど奥のふすままで飛んだ。
静香は冷静に、エビのように体を折り曲げた軍人を見下ろしながら、目を見
開き、まるで嵐の中心に立つかのように静かに息を吸い込んだ。
そして--
「アイル・ビー・バック!」
と、言い放った。
その場にいた全員があっけにとられ、凍り付いたが、
しばらくすると花魁たちは、あこがれの眼差しを玉響に向け、百合とお咲、
外国人達は、静香…いや、玉響が異国の言葉をしゃべったのにたいそう驚いた。
「では、失礼するでありんす。」
静香は紫の霞のように、そっと部屋を後にした。宴会の面々は、まるで夢から
覚めたかのように、しばらくの間呆然としていた。
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