第2話

「小野静香ぁぁぁ!仕様書の件は今日中に終わらせろぉぉ!」


上司の怒鳴り声が響く中、静香は狼狽して何度も髪を耳にかけながら言った。

「あ、あの、今日は…」


すでに上司は、別の方を向いて大声を張り上げていた。彼は手に持っていた

書類をばらまきながら演劇の主人公のように振る舞っていた。


すると、静香がアシストしている先輩が、

「小野さーん、シェルプログラム、ほら!温度変化ごとに

 データベースにループしてテストするやつ、あれチェックして、

 diffを取って今日中に俺に送っといてね~、お疲れ~」


「えっ?」

と静香は言いながら先輩の方を振り向くと、すでに先輩はエレベーターの

下りボタンを押していた。

先輩の仕事までこなさなければならなかった。今日も深夜までの覚悟を決めていた。

ブラックIT企業での過酷な長時間労働に、彼女の体は限界を迎えようとしていた。


ふと、視線を下に落とすと、ホルダーの"サル"が目に入った。

それは、博物館で能のイベントに行ったときに買ったお気に入りのアクキーだった。


「サル、なんでこんなに頑張らないといけないんだろうね…」


静香は軽い溜息とともに、居間の奥でタクシー運転手の制服を着て、

顔を真っ赤にして飲んだくれている父親を思い出した。


「お父さん、何やってんだい。はやく仕事行きな!

 ねーみんな、みんなもそう思うよね。」


と笑顔で、たくさんの子供たちに向かって母親は、貧乏長屋が揺れるほど大声で言った。

静香の母は東京下町出身で言葉は悪いが非常に明るい。そこらじゅうの人たちを

家に呼び全てを引き受け太っ腹で「気っ風がいい」と思っている。

これが災いして、いつも貧乏で他人の評判を異常に気にしているのだ。


静香は5人兄弟姉妹の一番年上の長女。食べる物がいつも少ないので

弟妹に自分の分を分けている。

そのため、いつもガリガリにやせていて不健康だったので、とにかく

早く大人になってお金をためていっぱい食べて静かに暮らしたかった。


静香は今度は、大学時代のことを思い出した。

お金がなかったのでアルバイトは何でもやったが、どんくさいので

すぐに首になった。奨学金で短期大学に行っていたので、とにかく

いやでも働かなくてはいけなかった。


唯一和服を着て日本文化を紹介するイベントコンパニオンをしていた時には、

客からも現場の人からも大変評判が良かった。

「あの頃は、和服を着ると別人になれた気がしたなぁ。

 今はただの借金返済マシーンだけど」と、静香は苦笑いしながら思った。


短期大学卒業後は就職浪人になってしまったが、なんと、お金をもらいながら

勉強できるIT人材育成プログラムに何とか潜り込め、

6カ月の研修後そこの紹介で派遣会社に就職できた。


この時のオリエンテーションで「人を信じ、人を許す」と聞き

これを自分の座右の銘とした。



仕事を終え、雨の中フラフラになりながら街を歩いていると、

相当ひどい顔をしているのだろう、周囲が横目で嫌そうに静香を見ていた。


終電で自宅までは帰り着けないので、途中駅で降りてネットカフェを目指した。

タクシーで帰るなんて贅沢な選択肢はない。

-- ここで父のタクシーを拾ったら目も当てられない。

まあ、父が仕事をしてるところなど見たことはありませんが… --

と、静香は思いながら苦笑いをした。


何度も利用したネットカフェに入り、朝までの利用でチェックインを済ますと、

夕食を取っていないことを思い出した。

受付カウンターの横にある、カップ麺を取り上げようとしたら、


ガラガラガッシャーん!


芸術的に並べてあったカップ麺はすべて床に散乱した。


「あっ!ご、ごめんなさい。」静香は申し訳なさそうに言うと。


「お客さん、毎度毎度倒しますよねー、今度は私が取りますから…」

と受付のお兄さんが、半笑いで言った。


「カップ麵は前払いですよね?」と言いながら静香は財布を出した。


ガッシャーん!チャリンチャリン!


と派手に小銭をばら撒いた。


「お客さん、小銭も毎回ですよねー。

 キャッシュレスを検討したらどーっすかねぇ~。」


「ごめんなさい。ごめんなさい。検討します。」と静香は平謝りした。

しかし、貧乏長屋育ちの静香は現金をいつも身につけないと安心できない性分

になっていた。


その後、カップ麺のお湯を入れるときに手に熱湯をかけたり、食べながら寝てしまい、

倒してスープを足にかけて、周りから「シーッ!」って言われるのも

いつものことだ。


取り出したアクキーの『サル』に

「サル、こんな生活、いつまで続くのかな…」

と微かに胸の痛みを感じながら言い、静香は眠りについた。


翌朝、スマートウォッチの不快なアラームで、ネカフェのPC机に派手

にぶつかりながら飛び起きた。


「う~っ、全然寝た気がしない。」ほぼ声が出ず犬が唸っているようにしか

聞こえない状態の静香は言った。


ネットカフェを現金で払い、出社しようとするが、静香は胸の痛みに襲われた。

それでも無理して電車に乗ろうとしたその時、ホームで倒れてしまった。


薄れゆく意識の中で、静香は心の中で叫んだ。

「まだやりたいことがいっぱいあったのに、助けて、サル…」


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