転生した侯爵令息は、都市型スローライフを満喫する

@Arabeske

第1章

第1話


 「クライスさま。」

 

 おお。

 来た、来たよ。

 

 ……うん。

 程よい甘みで、喉越しすっきり。


 「これは?」


 「ヴァルド地方のカム水です。」


 素晴らしい。控え目な甘味爽やか。

 冷やしても温めても飲めるのが実にいい。

 

 あぁ……。

 これはいい。天国だなぁ。

 で、こっちは、と。

 

 「アマルガのパイにございます。

  新作ですな。」

 

 おお……。

 これは、ちょっともっちりしてるな。

 いかにも地方のパイって感じ。


 あぁでも、これはカム水とちょうどいいんだ。

 だからか。

 

 うーん、素晴らしい。

 スローライフっていうのはこうあるべきなんだよ。

 

 お前らに問いたい。

 田舎なんで住んだこともない、ナイフひとつ持ったこともない奴が、

 虫がいっぱいの田舎で本当にサヴァイヴァルライフができんのか?


 マジで田舎、分かってるか? 因習と迷信の山だぞ?

 蚊が洒落になんないデカさなんだぞ??

 

 現代人は絶対街に住むべきなんだよ。

 それ以外生きていけるかってんだ。

 少なくとも俺はもうごめんだ。

 

 うーん、人が作った旨いものは素敵に旨い。

 パイをふくふく食べて、ラム水を飲んだら、

 昼下がりからうつらうつらしてくるな。

 

 うん。

 

 「おやすみになられますか、クライスさま。」

 

 そうだよ、メルル。

 

 「かしこまりました。

  部屋を暗く致しますね。」

 

 ふふ。

 ふふふふふふ。

 ざまぁみろだ、クソ兄貴め。


*


 南中原、

 自由都市、グリニツィン。

 

 かつての古代帝国モーグの首都だったが、

 蛮族達に完膚なきまでに強奪、破壊され尽くした。

 現在のグリニツィンは、その遺構と、その横の村落が

 半ば無秩序に発展したものに過ぎない。


 ヴォコ河の河川沿いにあり、天然の良港であるこの街は、

 諸侯が乱立する中原にあって、貿易の拠点となっている。


 現在、グリニツィンを代表する領主はいない。

 同じ都市の中に複数の軍閥勢力が割拠し、

 入れ替わり立ち代わり争い合っている。

 

 帝国歴562年4月時点で、

 有力な組織は、三つ。


 オスツァイテを実効支配するトゥヴェリ卿。

 自由都市群に最も近いマルルバード王国からの支援を受け、

 最大の版図と軍事力を有している。

 

 旧帝都中心部、ゾルレ地区を支配する、ホーフブリュッケのマルロー家。

 歴史ある帝国貴族の末裔を名乗っているが、

 実質的には野盗レベルまで落ちぶれている。

 ただし、破壊された旧帝都の地下に残る水路に通じており、

 声望と防衛力は侮りがたいものがある。


 最後が、クリンゲルバウム地区。

 もともとは誰も寄り付かないスラムに近い地区だったのに、

 いまでは、勢力中、最も豊かな街と見られている。

 

 クリンゲンバウムを実質的に領しているのが、

 グリュンワルド王国侯爵、ハビヴィト家の次男、

 クライス・フォン・ヴァッサー=ハビヴィト准男爵。


 これは、

 都市型スローライフを満喫しているつもりのクライスが、

 半分以上は本人の預かり知らぬところで、

 中原最大の君主へと成りあがってしまう物語である。


*


 グリュネ・ガストハウス緑の宿

 別名、レ・リュクス贅沢の宿

 

 クリンゲンバウム地区では最も高い丘の上に立地している。

 オスツァイテに入れなかったクライス達が

 クリンゲンバウムで最初に買い取った宿である。

 

 現在のレ・リュクスは、地上四階と地下一階からなっている。

 もともとは地上二階しかなかったのだが、

 ここ二年、増築に増築を重ねている。

 

 一階は食堂兼酒場であり、最近は楽団まで雇っている。

 クライス達がここを定宿にしたのも、

 主人であるアマルガの料理の腕に惚れ込んだためである。

 

 クライスから数々のレシピを教え込まれたアマルガの料理は、

 いまやグリニツィンどころか、中原諸国にまで名が知られている。

 アマルガは外の領主から何度も引き抜きに合っているが、

 義理堅さと実利上の理由レシピ確保から、全て断っている。

 

 二階はこの時代らしく宿である。

 もとは木賃宿クラスの侘びしく不衛生な宿であったが、

 今では宿代に比して中原最高レベルのサービスが受けられる高級宿になっており、

 中原に名だたる貿易商人が実利を兼ねて定宿にしている。

 街の性質からして極めて例外的だが、貴族が宿泊する例すらある。

 

 三階は、クライスの趣味で作られた書庫である。

 中原各地から集められた書籍が埋まっており、

 その質的水準はカリンの図書館をも凌ぐ。

 三階の書庫は、一階の喧騒が四階に伝わらないためでもある。

 

 四階はクライス達ハビヴィト家の者たちの執務室兼私室であり、

 クライスの書斎と寝室、筆頭執事、従士達の個室である。

 クライスの寝室はそれだけで二階の部屋三つくらいの広さがあり、

 寝室だけならこの時代の王侯級といってよい。

 

 四階の書斎は三階と繋がっており、

 三階の書庫に従士を派遣して、

 必要な本を自由に読むためだけの部屋である。


 基本、クライスは、寝室のベットの上に、

 この時代の貴族としてはありえない、無防備きわまりない寝間着姿でいる。

 なにかを食べる時は、寝室の横に備え付けられている、

 一人用の椅子と、二人分の机に食物を置く。

 

 そこでアマルガに命じて朝、昼、夜の食事と、

 昼と夕の間に間食を食べる。

 当時の庶民は一日二食なので、安閑と贅沢を極めている。

 

 貴族の端くれらしく剣の鍛錬をしないわけではないが、

 せいぜいが二日に一度であり、肌艶とお通じを維持するためだけである。

 現代の有閑階級が週末テニスに勤しむ感覚だろう。


 このように自堕落を極めているクライスであるが、

 その生活はレ・リュクスの四階の中でしか分からないので、

 クライスの存在は神秘的に受け取られている。


 なにしろ、不穏と騒擾と不潔の巣窟だった

 打ち捨てられたクリンゲルバウムを、

 たった三年でグリニツィン有数の勢力に伸し上げたのだから。

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