しじまの指

加藤み子

しじまの指


 家を建てる場所について相談しているとき、二人同時に「山のてっぺん」「海のそば」と言ったものだったから、中間を取って林に囲まれた湖の畔に平屋を構えた。

 インテリアはおまえに任せるよ、おまえのほうがこういうのセンスあるだろうし、と言っていたはずのソラだったが、ハヌルが決断する瞬間になぜかいつも隣にひょっこり現れて、その材料はアレルギー反応がうんたらだとか、経年劣化が綺麗なのはそっちだとか、あれやこれやと口を出すものだから、結局いつも通り中間を取ることになった。

 はたして完成した家は、黒やグレーを基調としたシックな雰囲気の中二階つき平屋一戸建てで、玄関から直で続くリビング部分は、フィリップ・ジョンソンのグラスハウスを彷彿させる四面ガラス張りの造りで、ハヌルは「映画『メッセージ』に出てくる家みたい」と嬉しそうだった。奥へ移動すると静かに炎を揺らす電気暖炉さえ真っ黒で、ソファーからベッドまでもちろん黒で揃えていた。静かな家だった。見た目も音も。ソウルの喧騒に疲れた自分達には、休息の場として申し分なかった。

 三十代に突入して、二十代の頃同様しゃかりきに働き続けている。ソラは基本的に在宅で仕事をこなしていて、作詞作曲プロデュースときには指導、あるいは執筆、インタビューや対談や講演など、まれに現場に赴くこともあるものの、ほとんどインターネット経由のコミュニケーションで全うしていた。音楽領域を専門とする芸能事務所に所属していて、現在はそこお抱えのプロデューサーを務めているが、外部からの依頼を個人的に受けることも当然あるので、仕事の種類は多岐に渡った。それでも出不精な性格もあり、人前にはまず出ない。

 ハヌルは真逆だった。世界中を飛び回っているという表現がこんなにも似合うアーティストも他にいないくらい、地球の端から端まで飛んで歌とダンスを届けている。だからあまり家には帰ってこない。関わる形は違うものの、音楽は二人の強い共通点だった。

 思えば出会いだって音楽の場だったのだ。ソラが曲を提供した歌手が、フィーチャリング相手にハヌルを抜擢したことが発端だった。その頃のハヌルはまだ世に見つかっていなかったから、さすがのソラも彼を知らず、どれどれとなんの武装もなく収録現場へ顔を出し、無防備に歌声を聞いてしまったのだ。

 後悔という言葉が最もしっくりきた。この声帯を知らずに生きてきてしまったこれまでの人生への後悔だ。走馬灯のようなものがあった。あの曲はこいつにあげるべきだった。あのサビは泣く泣くキーを下げてあの歌手にあげたりせずにあのままこいつに歌わせるべきだった。あの歌詞はこいつに叫ばせればよかった。……。

 次にソラを襲ったのは焦りだった。こいつはなんでこんなところで燻っている? 大衆はなぜ今この瞬間も、このとんでもないものを知らずにのうのうと安い音楽を聞いている? この才能を羽ばたかせるべきプロデューサーはどこにいる?

 ――俺か。

 ソラは一介のレコーディング室で雷に打たれた。

 ここにいる。俺だ。俺しかいない。

 当時のハヌルはまだ幼く、つい先日まで小さなアイドルグループの練習生だったこともあり、緊張しいで人見知りをよくした。だからなんだかぶっきらぼうな初対面のプロデューサーに見初められて名前を聞かれても、ボソボソと本名を名乗るくらいが関の山だった。ソラはまるで狙った獲物を見る目をしたネコ科の動物のようにじっくりと、おまえ、歌い始めて何年だ。と聞いた。

 ハヌルはまんまるの目だ。に、二年くらいです。二年? ソラの眉間が迫る。ボイストレーナーは誰だ? 誰もいません、独学です。嘘だろ、じゃあ、おまえなんでこんなところで歌ってる、おまえ、自分がどれだけなのか自覚してるのか。な、なんのことでしょうか。ああもどかしい、事務所はどこだ、おまえさえ良ければおまえのために曲を書きたい。

 それはプロポーズに等しかった。ソラを知る者なら誰だってそう言っただろう。ワンフレーズだけでも書いてほしくて毎日世界中から連絡がくるのに、無名の若者にそんなたいそうな宣言をしてしまって、もう世間は後には引けない。ハヌルは当時構想されていたアイドルグループから一人抜け、ソロの歌手としてデビューが決まった。事務所も移籍することとなった。

 ソラは、いつか歌える誰かが現れたときのためにと眠らせておいた曲のストックの中から、秘蔵っ子を引っ張り出してきて、その荒削りのメロディーラインとビートを丁寧に磨き上げて、ハヌル本人と会話を重ねながら生の歌詞を書いて、レコーディング時にはずっと現場にいて、何から何までプロデュースした。最高の音楽を韓国のみならず、米国のチャートにまでランクインさせた。

 幸いにしてハヌルは、声帯以外の多くの部分にもカリスマ性があった。世間は彗星のごとく現れた歌手に度肝を抜かれた。そこからの数年間はハヌル当人にとっても、ハヌルにずっと曲を書いてきたソラにとっても、あっという間の出来事だった。

 ふと気がついたら、韓国へ移住してきて十年もの月日が経過していた。ソラは十八歳の始めに母国を去ってきたから、そう、あの夜はいつの間にか三十を目前にしていた自分を久しぶりに振り返るなどしてみて、家でひとりでホットワインを飲んでいたのだ。

 深夜だった。ハヌルが急に電話をしてきて、今すぐ会いたいですと言った。彼はそれからすぐに、ソラが当時住んでいたソウルは聖水洞のマンションにやって来た。雨の夜だった。玄関先に出たソラはシャワーを浴びたばかりだったので、ほかほかの体で湿気を含んだじんわりと水臭い外気を浴びて、早く玄関閉めたい、と思った。そのとき、肩を濡らしたハヌルがその場で告げたのだ。

 約束をください。お互いこんなに忙しくて、僕はすぐ不安になります。だから僕があなただけというあかしをください。

 ハヌルはそう言った。あかしという言葉がしっかりケアされた唇の間から漏れ出てきたのを見て、ソラは、こいつもまだまだ子どもだな、と自発的に思った。

 なんで俺がおまえを縛る約束をおまえにしなきゃいけないんだよ、そんなもの要らないし、おまえが俺だけでありたいならそうあればいい、俺がなにかを約束する必要はない。そう断る返事を聞いてもハヌルはしばらくそれを受け取らず、いじけたような口先でいいふうの返事をおねだりした。かわいかった。ほら、年下過ぎるだろと言い訳をした。自分に。

 正直に言うと少し怖かった。ハヌルを楽器だと思っている自分がどこかにいそうだったからだ。それを見つけてしまうのが怖かった。

 ハヌルの情熱はソラのそんな恐怖をずいずい上回ってきて、楽器ではなく人間の姿で、あなただけですと何度でも言った。鍵盤を叩いていても、ヘッドフォンをしていても、ギターを弾いていてもやって来て、あなただけですと何度でも言った。雛が最初に見た動物を親だと認識するのと同じではないかと言い返した。なんとかという先輩アーティストに心酔しているのとなにが違うんだと言い返した。そもそも俺たちは忙しすぎる、そんな暇なんてないと言い返した。

 そうやってソラがいちいち張る予防線を、ハヌルは指先で一つずつ器用にほぐしていって、気付いたときには指を絡めていた。許したのはたしかにソラだった。それで、この約束の地が建ったのだった。



 トイレットペーパーが切れそうだったので、愛車で出かけて買い物をした。久しぶりに浴びた外気は空気の層が厚く、重く感じた。日頃から自宅の全館空調に甘えて過ごしているから、余計に肩にずっしりくる。

 買い物中にファンに遭遇して、彼のスマホケースに油性ペンでサインをしながら、ソラは「俺の名前だけじゃなく顔まで知ってるなんて通だな」とぼんやり思った。少し音楽の話でもしたかった。

 帰りに映画館に寄ってレイトショーを楽しみ、良い気分で帰宅をしたら、普段はない虹色のスニーカーが玄関に放り出してあった。

「…………」

 かちん……と数秒固まった。

 それから、ズズズ……と靴の底をコンクリートの床にこすって、もたつきながらクロックスを脱いで、スリッパに履き替えた。もしかしてと思った。ゆっくり部屋に入ると、アイランドキッチンの横で電気もつけずに立ったまま飲み物を煽り、なにかを食べてるハヌルがいた。

 数ヶ月前ぶりに肉眼で姿を見た。少しふっくら――ふっくらというよりあれは、筋肉か? おおよそ一生懸命トレーニングに励んでいるのだろう。ソラは思う――したように見えた。

 物音でソラの帰宅に気付いたハヌルが、もぐもぐしながら顔を向けた。

「あー、ヒョン(=兄さん)。このカップ麺にお肉入れたいんですけど、牛ありますか?」

 昨日もここでご飯を食べていましたみたいな感じで話しかけてくる。

「……ちょうど今買ってきた。焼いてあげるよ」

 動揺はしていたが見せず、ソラはそう言ってとぼとぼ近寄った。キッチンテーブルに買い物袋を置いて、肉を取る。フライパンを握ってIHの前に立つと、ハヌルがふらりと横に来て、ソラの頭を軽く撫でた。

「元気でしたか」

 と、頬に触り、頭を擦りつけてきた。犬と思った。

「ん」

「報道、見ました?」

「なんの」

「僕の」

「おまえの? どの?」

 ハヌルは言葉では答えず、尻ポケットから携帯電話を取り出して、指紋で少し汚れた画面をぐいと見せてきた。

 数日前から世間を賑わせているスキャンダルだった。ハヌルと某女性俳優が付き合っているだの同棲中だの結婚間近だの、うんたらかんたら、見出しだけ見てスマートフォンの端末を手から離したから、ソラは詳細を知らない。

「……」

「何も言わないんだ。それが答えってことですか?」

 ハヌルは言い、熱せられて溶けていく肉しか目に入れないようにしていたソラの視界にずいと侵入してきた。伸びた前髪がキラキラした深い瞳に重なって、ちょっと刺激を緩和させていた。しかし眩しいことには変わりがない。ソラは意識的に肉に集中する。

「ここに来るまでの飛行機で、あなたがどんな反応するか予想するゲームをしてました。ひとりで。第三位は、このニュースを小馬鹿にして『ハッ』て笑うヒョン。準優勝は、無表情で『なに、おまえあのモデルと結婚すんの』って聞いてくるヒョン。優勝は、全部無視して俺はなにも見なかったみたいにするヒョン」

「残念だったな。どれも当たらなくて」

「優勝のヒョンがなんか言ってる」

「肉が焦げる」

 手でしっしと払うとハヌルはすごすごと退いて、鼻歌をふんふん言わせながら箸を二本用意した。皿も二枚。それからテーブルに並べて麺もよそって、あとは肉を待つだけの格好になると、突然がばりとシャツを脱いで上半身だけ裸になった。暑いらしい。ソラが肉を分けてからチラと見ると、知らないタトゥーがまた増えているのが目に入ってきた。

 どれだけ離れていても、お互いに「ちゃんと食べてるかな」とか「ちゃんと眠れてるかな」みたいな心配はない。それなのに、今日も無事に生きて彼自身の人生を全うしていることが嬉しくて、というか普段も自分の人生に夢中だから相手が気になって何も手につかない、みたいなことはないけれど、こうして久しぶりに再会するとあーと思うところもあって、今日はここで寝ていくのか少し気になった。ソラは自分の指先をもじりといじる。

 これを伝えるべきか考えていると、焼きたての肉を頬張ったハヌルが、ふは、と笑って、鼻の付け根にシワを寄せた。

「疑いもしないんだから。動揺くらいはしましたか?」

 馬鹿か。するか。

 ……したけれど。

「ハヌラ、ところで」

「今日はここで寝ていきますね」

 こんなやつに敵うわけがなかった。



 その夜は、家のリビングのソファーで、そのときたまたまテレビでやっていた恋愛映画をぼんやり見た。ソラはハヌルの隣にだらりと座って、食べていた菓子をむにゃむにゃ噛みながら半分目を閉じていて、起きているのか寝ているのかよくわからない状態だった。

「ヒョン、今日はヒョンの部屋で寝てもいいですか」

 何の脈絡もなくハヌルが聞くと、ソラはやっぱり口をむにゃむにゃさせながらぽっくり頷いた。

「おまえの好きにしな」

 ハヌルはさらに質問を重ねた。

「ヒョン、この映画おもしろいですか」

「おもしろいよ」

「今日は抱きしめて寝てもいいですか」

「明日もそうしていいよ」

 たまには拒絶の意思がほしいとハヌルが思っていることを、ソラは知っている。でも肯定しかするつもりはない。ハヌルはソラにとっていつまでもかわいいダイヤモンドの原石で、甘やかされるべき存在なのだ。

「そのお菓子少しください」

「ん」

 と、迷わず袋の口をハヌルに向ける。

 ハヌルは下唇を突き出した。

「僕を甘やかし過ぎないでください。もう子どもじゃないんだから」

「子どもだよ。おまえはずーっと、かわいいハヌラ」

 映画に集中しているふりをして顔は向けなかったが、視界の端に入っているハヌルの顔が、ぶすくれて丸くなっているのがわかった。この男は普段、グループで活動することが多いアイドル業界の中でソロの歌手としてひとりで立って、物怖じしない態度で歌ってはファンに手を振り、根っこに度胸と知性がある回答でインタビュアーを唸らせ、爽やかな笑顔で人々を魅了しているくせに、ソラの前でこのように丸の形になることがある。

 ハヌルはしばらくソラの横顔をぼうっと眺めていたが、やがてテーブルに置いてあった何かの美術展の図録を持ってきてソファーに沈み、パラパラと読み始めた。映画は一定のリズムで進んでいく。ソラは眠い。

 ああ、そういえばあのメールに返信しないとなと考えていると、ハヌルが唐突に話題を振ってきた。

「ヒョン、結婚ってどう思いますか」

「……」

 奇妙な沈黙を作ってしまったことを若干悔やみつつ、ソラは慎重に口を開いた。

「どうって」

「うん」

「状態というより現象って感じがする」

「ええ? 意味がわからない」

 うはは、と誤魔化すように笑うと、横から膝を小突かれた。

「まあ、僕には関係ないけど」と、ハヌル。

 公表こそしていないが、ハヌルはゲイだ。

「でも、ああいう風に報道されると、人を異性愛者だと決めつけてインチキなこと書く暇があったら、同性婚ができるようになるために少しは動いてくれよって思います」

「うん」

「ずっと違う僕を生きろって命令されてるみたいで、気分が悪い……」

 現在の韓国では、同性婚は法制化されていない。

 ソファーの上で膝を抱えて頭を垂れたハヌルのうなじを、よしよしと撫でてやった。

 そこで言葉が途切れた。もうちょっとこの話題を続けられるような気配もしたが、両者とも、今その必要はないと感じていた。ハヌルは腰を浮かせて、座るソラに向き合う体勢で太ももの上に座った。決して軽くはない体重が膝にかかる。

 ハヌルの背中側に映画が流れたままの明るいディスプレイがあるので、その光源の影響で、ソラの顔に淡い影が落ちた。ハヌルを見上げる瞳だけに光の球が浮かんでいて、人形みたいに瞬く。その目の見る先がゆっくり下りていって、ハヌルの顔から首、シャツを着た胴体、そしてソファーの生地についている膝まで移っていった。視線で撫でられただけで鳥肌が立つのを、ハヌルは感じた。

「触ってもいい?」

 ソラが小さく言う。はいと答える代わりに、ハヌルは、ソラの手首をそっと掴んで手のひらを脇腹に触れさせた。

 手首を持ったハヌルの手が震えていたことに気がついた、そのソラの手も震えていた。ソラの手のひらが、ハヌルのシャツを捲り上げながら背中を上がっていく。ハヌルは見上げてくるソラの瞳から目をそらさないまま、背中を撫でられる感覚に集中して静かに呼吸した。背骨のでっぱりのひとつひとつを、ソラの指が下から順に撫で上げていって、両方の小指が一番上の凸に触れたとき、本日初めてのキスをした。

 ハヌルはソラの髪ごと頭を腕で抱え込んで、深く唇を食んだ。角度を変えて何度も。つむじから爪先まで、全身がぴりぴりして、炭酸の汗がにじみ出てくるようだった。

 このままセックスをしてもよかったが、結婚の言葉がまだ脳裏に残っている状況だと、少し気が引けた。湿度のある息を鼻から漏らし始めたハヌルを受け止めながら、ソラは体を強張らせる。

 どうして突然結婚がどうなんて、そんな話をしてきたのだろうか。あのスキャンダルのせいだろうか。

 軽い気持ちで指を解いてはいけなかったのではないか、と思うことがあった。もちろん適当な思いで応えたわけではない。立場も立場だし、会社の権力関係で言えばどうしてもソラのほうが上になってしまう関係性上、暴力にならないよう細心の注意を払う必要があった。

 それでもと思ったから今、こうして二人でいるが、例えば男性と女性のカップルの場合、最初から無条件に与えられている結婚という「ゴール」が、同性同士にはない。帰るべき家が同じであっても家族ではない。では、結婚できない二人が、最終的に目指すべき「ゴール」はどこなのだろう。わからない。なぜそれがわからない世の中なのだろう。

「ハヌラ」

 水のような生地の黒いシャツを脱ぎ始めたハヌルを、ソラは静かに止めた。

「ごめん。今日はちょっと……気分じゃない」

「あ……そうでしたか。ごめんなさい」

「いや」

 脳みそがぐわんぐわんと鳴ってくる。

 ソラはこめかみを揉んだ。

「いや、俺こそごめん」

 呟くように続ける。

「ごめん」

「なんでヒョンが謝るんですか」

「ごめん、ごめんハヌラ。本当にすまなかった。俺のせいだ。全部俺の――」

「謝りすぎですけど、一体、」

 ハヌルのほうも思うものがあったのかもしれなかった。

 こめかみを押さえながら歯を食いしばるソラを見て、彼ははたと口をつぐんだ。

 ソファーに座り直す。

「……僕、結婚したいなんて言ってませんからね」

「わかってる」

「それに例え同性婚ができるようになったとしても、僕達の場合は現実的に難しいでしょう。お互い仕事に夢中すぎるし、僕はまだ兵役にも行ってないのに」

「わかってる。ただ、たまに思うんだ。俺はちょっと軽率だったかもしれないって」

「え?」

 発言に失敗したことに気付くまでタイムラグがあった。

 はっとして慌ててハヌルを見ると、怒っているような、しかし悲しんでいるような、複雑な表情をして静かにソラを見つめていた。

「後悔してるってことですか? 僕とこういう関係になったことを」

「違う、そうじゃなくて。どこまでいったらいいかわからない状態で進むべきじゃなかったかもって」

「どこまでいったらいいか? ヒョン、もしかして、僕が結婚にこだわってるとでも思ってるんですか?」

「そうじゃない」

「じゃあ教えてあげます、ヒョン!」

 ハヌルは勢いよく立ち上がった。

「僕はヒョンと結婚したいとは思ってません! だってできないんですから! 当たり前じゃないですか? 同性婚もできない社会で、カミングアウトもさせてもらえない会社で、世界中に彼女がいると思われながら、それでもこうやってヒョンと内々でお付き合いしてるのに、馬鹿みたいにあなたにプロポーズすると思ったんですか? 最初からそれをゴールにして付き合うべきだったって? 僕がどんな気持ちであなたに思いを伝え続けたかなんて、あなたにはわからないんでしょうね? それとも、僕がかわいく結婚を望むのを期待していましたか? それは僕を見くびりすぎです!」

 ハヌルの怒りは正しい雷鳴だった。

 もう何も言えず、ソラはただ、ハヌルが鼻息も荒く身だしなみを整えて家を出て行くのを、力なく見ていた。ソラはハヌルのように瞬発的に言葉を使えない。じっと考えてぐっと堪えて、相手が去ってからやっと声が出てくることもある。扉が閉まってから「待ってくれ」と言えた。

 この世界にはいくつもの分岐点があって、ひとつ違う選択肢を選べば全く異なる未来が待っている。

 翌日、珍しく事務所から今すぐ来てくれと連絡が入ったので、ソラは何事かと焦り高速鉄道を使って急いで駆けつけた。会社の廊下を進んでいると、小綺麗にしたハヌルがそこにいて、なにかの打ち合わせを終えて横のミーティングルームから出てきたタイミングだった。傍のスタッフらが揃って神妙な顔つきだったので、これは、とソラは訝る。ハヌルはサングラスとマスクで顔を覆っていたので、表情はわからなかった。

 彼はすれ違いざま、スタッフ達からの死角を狙い、ソラの空いた手の指を軽くすくっていった。ソラは触れられた指を一瞬見たあとすぐに振り向き、去って行くその後ろ姿を目で捉えた。凛と、細い背中が人影に消えていく。なんでもいいから俺と一緒にいてくれと伝えるならこの瞬間だった。

 だがソラは何もしなかった。ただ、焦がれる背中が去りゆくのを眺めていただけだ。

 ソラはこのあと数年間、このときに大胆になれなかった自分の臆病さを、何度も何度も後悔することになる。

 翌週、ハヌルが韓国陸軍への入隊に向けた手続きを開始したと報道があった。



<サンプル終>

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しじまの指 加藤み子 @ktmk99

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