第四話 仁平 聡
収容人数の多すぎない使い込んだライブハウスが好きだ。
ライブ専用にしている勝負の革靴を履き、ステージ裏で声を出しウォーミングアップをする。そしてやがて時間がやって来る。スポットライトが落ちる。ステージへ踊り出すと、黄色い悲鳴と拍手が盛り上がりを見せる。ドラムが鳴り始めたのを歯切りに、ゆめのギターが走り出し、和音のベースが地を這い始める。聡はマイクを握って息を吸った。
バンドという形に興味を持ったのはふとしたことからで、作詞作曲を始めてみたのはもっと不純な思い立ちだった。誰かの心に響く音楽がやりたい、なんていう大層な動機ではなく、自分の中の爆発しそうな感情を音符と歌詞にして吐き出している、というような感覚だった。子どもの頃から、音階の上下に従って歌詞でメロディーを奏でるのは得意だったが、自分の思っていることや考えていることを会話の中で言葉にするのは苦手だった。
聡にとって、楽曲は唯一の自己表現方法でもあるのだ。
初めてのワンマンライブは、お気に入りのライブハウスで開催された。見事に満員で、乗りの良い客層だった。オープニングアクトでは、聡達の大学で軽音サークルをやっている後輩が演奏した。心から楽しく、気持ちの良い一夜だった。
打ち上げは、練習部屋のある建物からすぐ近所の居酒屋を貸し切って行われた。メンバーだけでなく、ライブハウスのスタッフやこれまで協力してくれた関係者を呼んだ、賑やかなパーティーになった。
メンバーはみな結構お酒が飲める。麻子だけが弱く、普段から飲まなかったが、聡にとってそんなことはどうでもよかった。
「聡、今日もさいっこーだったよ!」
ゆめが駆け寄り、抱き着いてきた。慣れたものだ。
聡はふざけてぽんぽんと頭を撫でた。
「ゆめもギターソロ完璧だったな」
「まじ? やったー!」
「落ち着け、飲みすぎ」
「まじで聡に一生ついてく」
ゆめは酔うと抱き着き上戸になる。
テンションの高い幼馴染を適当にあしらっていると、ポケットに突っ込んであるスマートフォンが震えたのがわかった。影で見ると、またツイッターだ。通知がまだ止まらない。
「ねえ、本当に最高のライブだったよ」
というふわふわしていないゆめの声に我に返り、聡はツイッターを閉じて顔を上げた。
「本当に」
それからゆめはくるりと踵を返した。彼女が仲の良いスタッフの傍へ移動したのを見届けたのち、聡は人混みの向こうに和音の姿を見つけた。色のついた酒を片手に立っている。壁に沿って置かれている椅子に座った麻子と喋り、なにやら楽しそうに笑っていた。
聡は歩き出した。煙草がないのが口寂しい。騒ぐ人をかき分けかき分け、声をかけてくる知り合いをやり過ごし、やっと近くまで到達した。
和音は背中を向けていた。反対にこちらを向いて座っている麻子は、やって来た聡に気が付いたようだった。聡はそのままその場を通り過ぎた。すれ違いざま、麻子からの死角をわざと避けて、和音の空いた手の指を軽くすくって行く。和音は触れられた指を一瞬見たあとすぐに振り向き、去って行く聡の後ろ姿を目で捉えた。
今年のバレンタインデーに聡は、偶然会った学科の友人などからもらったチョコレートを口に含みながら、夕飯の香ばしい匂いがする帰路をひとり、歩いていた。一日中図書館にこもって論文をひたすら書き進めた疲れから、瞼と肩が非常に重かった。しかし甘いものは好きだ。煙草を咥えなくて済む安堵感に鼻からため息をつく。
「今から帰るけどなんか買ってくものある?」
送ったラインのメッセージは既読にならない。風呂にでも入っているのだろうか。
夜道、コートのポケットにしまい込んだスマートフォンを気にしながら歩いていると、ふと、目の前に知った背中があることに気付いた。
「和音」
呼ぼうとして、やめた。隣に麻子がいたからだ。
一目見ただけで状況は理解できた。おおよそ、今日の練習帰りに麻子が和音にバレンタインデーのチョコレートを渡したあと、和音が自宅まで送ってくれる場面というくらいだろう。和音はマネージャーの荷物まで持ってやっている。そのうえ手には、可愛らしい包装をした小箱、だ。
聡は静かにスマートフォンを取り出した。
そして、無音シャッターのカメラアプリを起動する。
あとはファンのふりをして、ツイッターの匿名アカウントを取得するだけだった。
あえて遠回りをして帰宅すると、時刻はもう深夜近かった。足で探ってスリッパを履き、暗い部屋に電気を灯し、居間のソファーに荷物を下ろしてエアポッズを外した。廊下の向こうから、シャワーの湯が浴室の床を叩く音がする。
聡はもらったチョコレートが溶けないよう、冷蔵庫を開けてそこの手前にしまった。するとそこには先客がいた。聡同様、溶けないよう冷やしているのだろう。
一瞬だけ迷ったあと、聡はまだシャワーの音が聞こえてくることを確認し、先にしまってあった小箱に手を伸ばした。中には太陽系を象ったチョコレートが並んでいた。地球だけがぽっかり、ない。
聡は火星のチョコを口に放り込み、奥歯で一気に噛み砕いた。
酔いも回ってきた。それから煙草でも吸うかと外に出ると、空には満月があった。聡はガードレールに腰掛け、折れた煙草を火を付けずに口に咥えた。背中に車の流れを感じる。
しばらくそこでひとり、ぼんやりしていると、ほろ酔い状態のゆめと帰り支度を終えた麻子が外へ出てきた。
「聡。なにしてんの」
期待していた人物とは別の人間の登場に内心、肩を落とした。しかし、ほろ酔いのゆめは聡のそんな気落ちなど露も知らず、へらへらと隣へ来て同じようにガードレールに寄りかかったので、聡は彼女の肩を組んで丁寧に切り揃えられたボブの毛先に悪戯に触れた。ゆめは気にしない。
「麻子、もう帰るって。親がキレるから。だから二次会はうちらだけでやろー」
麻子はなぜか聡と目を合わせないように努めているように見えた。トートバッグの取っ手を握って地面を向いたまま、何も言わない。
「麻子?」
ゆめもその異変に気付いたのか、横から麻子の顔を覗き込んだ。
すると、聡は立ち上がった。顎を上げ、自分より身長のない麻子を下に睨む。咥えていた湿気た煙草を噛み、歯の間から息を吐いた。
麻子も顔を上げた。見たこともない、闘志を露わにした鋭い目で、聡を睨む。
ただ事でない雰囲気にゆめは目を見張った。しかし、聡と麻子の意識はもう先ほどの初ワンマンライブの冒頭に注がれていた。
スポットライトが落ちるライブハウス。聡がステージへ踊り出すと、黄色い悲鳴と拍手が盛り上がりを見せた。ドラムが鳴り始めたのを歯切りに、ゆめのギターが走り出し、和音のベースが地を這い始める。
聡はマイクを握って息を吸った。
「次は新曲だ。突然現れたよくわかんねー奴にふらふらしてる恋人に向けて書いた曲」
麻子はステージ裏で聡達を見ていた。背中に汗が流れるのを感じた。
「俺はそいつに、一生お前のために歌うから一生俺についてきてくれと言った。まあ、その時は一生の友達も一緒だったが……とにかく、そう誓ったのに最近そいつはよそ見してるみたいだから」
ざわつく会場をよそに、聡はマイクスタンドからマイクを外して歩きながら喋り続けた。
「そんなガッチガチの恋愛ソングだ。歌詞を書いていて吐き気がしたけど――」
会場が笑った。
「――伝わるといい。惑わされるな、と」
聡はくるりと客席に背を向け、呟くようにそう言った。新曲への期待に胸を高鳴らせ、熱狂的な盛り上がりをふるう観客を背中に、聡は和音のことだけを見つめていた。射抜くように。
麻子はそこで、和音の秘密主義の理由を悟った。
「麻子」
ゆめが呼びかけた。麻子は手が白くなるほど強くトートバッグを握り、聡を上目に睨んだまま、下唇を噛んでぼろぼろと涙を流していた。
「ごめん」
ゆめが麻子に向けて何に対して謝罪をしたのか、聡は勘付いたが、知らないふりをした。
麻子はバンドから離れるかと思われたが、結局マネージャーとしての活動は続けることとなった。和音の彼女疑惑の騒動についてはユーチューブに改めて説明動画を投稿し、熱りをおさめた。彼女はそれ以後、動画や写真にも顔を出すようになっていったが、全ては誤りだったためさほど叩かれずに済んだうえ、演奏メンバーの三人とは雰囲気が全く違うことが結構受けて徐々にファンに受け入れられていった。
「今から帰る」
「飯どうする?」
帰路。送ったラインのメッセージには即、既読の文字がついた。
「寿司の出前とった」
と、寿司に顔が描いてあるスタンプがポン、と浮かぶ。聡は思わず吹き出した。
玄関を開けるとシャンプーの匂いが漂っており、ただいまと呟くと「ほはへりー」という声が居間から届いてきた。扉を開けると、髪の濡れた和音があぐらでベースを抱えていて、ピックを口に咥えたまま「ふひひてるひょ」と言った。寿司きてるよ。
「なんで急に寿司? めでたいことでもあったのか」
エアポッズを耳から抜きながら聞くと、和音はピック弾きに転換しつつ答えた。
「何もないけど食べたくて」
寿司、美味しいよなーと呑気に笑う。
聡はしゃがみ、和音の頬に軽く口付けた。ベースの音が止まった。
「今年はバレンタインチョコ何個もらった?」
聡が聞くと、和音はむっとした。
「今年ももらってねーよ。大学の奴らはみんな俺と聡のこと知ってるし。何年目だと思ってんの」
和音のベースを弾く動作が復活した。聡は悔しくなったが、演奏されているそれが聡の楽曲だったので許した。
初のワンマンライブで披露した新曲の聡のMCは、以後インターネット上でも広まり様々な憶測が繰り広げられた。今、大半のファンは聡の言った「ふらふらしている恋人」がゆめで、「一生の友達」が和音だと推測しているらしい。つまり、聡とゆめが付き合っていると思っているようだ。聡はそれをくだらないと思う。性別なんて。そんな先入観を持ったまま生きて何になる。
聡は和音の背中を穏やかな目で眺めた。恋人に人気があるのは喜ばしいことだ。しかし、次々に現れるよくわからない敵達を抜かりなく虱潰しにするのは一苦労だった。
前途多難。
ツイッターを開くと、件の写真の拡散源になっている匿名アカウントにまた通知が溜まっていた。聡はそのままログアウトした。しかし、アカウントは消さない。
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