ソワレ*

 *


 ――今日は、最後まで抱くからね。

 どんな理由があったとしても、推しのアイドルに迫られて断れるファンなんていない。

 言われた瞬間、大事なことが全部吹き飛んで、頭の中が「抱く」で埋め尽くされていた。

 こんな、ふわふわした頭のまま車に乗ったら事故を起こしそうで、ESKプロダクションに乗ってきた車は駐車場に置いてきてしまった。

 朔良がナツのマンションに着いたのは、午後三時頃。電車に乗って冷静になる時間を作ったのに、頭はずっと混乱したままで、戸惑いは時間と共に増すばかりだった。

「え……な、ナツの、最後までって、どこまで」

 合鍵を使って家主のいないマンションに入り、広いリビングを一人でぐるぐる歩き回っているうちに夕方になっていた。

 結局、朔良は言葉の通りの意味と解釈して、覚悟を決め、ふらふらと薬局に必要なものを買いに向かった。

 以前、車のなかで、エッチなことを勉強しておくと言っていた。ナツは、どこまで勉強したのか、どうやって勉強したのか。

 ナツと付き合うまで、散々ナツで人には言えない妄想をしていたのに、いざとなったら推しの綺麗なところしか想像できない。付き合ったその日に、キスをして、バニラセックスはしたし、一緒にお風呂だって入った。

 アイドルも生身の人間だと理解している。けれど最後の点と点が線で結ばれない。

 ――挿入はいるの? ナツのが、僕に!?

 薬局からマンションに帰ってきて、そのまま風呂に入って後ろの準備をした。そのための性具やジェルを見ていると、酷く汚く浅ましい気持ちになってくる。決して綺麗なだけじゃない。

 本当に、こんなことをナツが望んでいるのか、朔良に対して望んでくれるのか。進めているうちに不安になっていた。

 風呂に入ったのに、すっかり冷えた体で、家主のいないリビングに戻った。

 自分の荷物は既に自宅に持って帰ってしまったので、マンションに帰る途中、着替えの服は最寄りのコンビニで買った。ここまで着てきたスーツを再び着る気にはなれないし、ナツから服を借りるにしても、勝手にクローゼットを開けるのは気が引けた。

 買ってきた長めの白のTシャツだけを着て、リビングの中央に立ち尽くした。

 その時点で、ようやく頭が冷静になり今の状況を理解した。

 朔良はナツに嘘をついていた。

 けれど、ナツは、それに対して怒ってるわけじゃないと言っていた。

「……謝らないと」

 けれどナツが何に対して怒っているか分かっていないのに、理由が分からないことに謝罪するのは一番許されない。

 朔良はナツの私室の扉を開け中に入った。

 一緒に住んでいたのに、ナツの部屋に入ったのは初めてだった。普段一緒にいる時はリビングだったし、朝はちゃんと時間通りにナツは起きていたので、朔良が起こしに行くこともなかった。

(そういえば、まだ一緒にプレステしてなかった。誘ってくれたのに)

 アイドルの部屋というより、大学生の一人暮らしの部屋だ。机の上には調べ物をしたノートの束、筆記具や講義資料のプリントが載っている。奥にある本棚には朔良が使っていたのと同じ一般教養の英語の教科書、建築学の本と一緒に少年漫画が綺麗に並んでいた。

 部屋にはナツが教えてくれた趣味のゲームや漫画の本が当たり前のようにある。朔良が知っている彼の人柄が、そのまま部屋から伝わってきた。

 改めてナツは朔良に対して誠実で秘密がなかったんだと知った。

 全部、全部、大学一年生の、あの春の日からやり直したい。

 嘘なんて何もない綺麗な自分に戻りたいと思うのは、傲慢だ。今の朔良の全部が、嘘偽りない本当の自分だから。

「……ナツ」

 今すぐにナツに会いたい。そう、胸が締め付けられるような気持ちになった時だった。

 玄関の扉が開く音がして、目の前の机から顔をあげた。しばらくすると部屋のドアが開く。

「な、ナツ。あのね、僕っ」

 机の前に立っていた朔良のところまでナツは無言で歩いてきた。怒られる覚悟をして目をぎゅっと閉じた。

 その数秒後だった。くすりと笑う気配を感じて、唇に柔らかい感触が当たった。目を開けるまで、それがナツの唇だって気づいていなかった。

「ただいま、朔良」

「ぁ、お、おかえり、なさい」

 震える唇で、たどたどしい挨拶を返したあと、至近距離で見つめ合った。

「一緒に住んでるのに、ずっと朔良と一緒に行動してたから、おかえりって言ってもらうの新鮮」

「そ、そう、だね」

「なんか、いいね。お迎えがあるのって。幸せーって感じで」

 和やかに会話を進めているのに、次に何を言われるのか分からなくて朔良の心臓は、ばくばくしていた。目を細めたナツは朔良の肩に額を置く。

「え、なっ、ナツ? どうしたの?」

 そのままナツは朔良の首筋に唇を当て、すんと鼻を鳴らした。ナツの唇が首筋に触れた感触で一気に皮膚が粟立つ。

「ん、いい匂いだなぁって、お風呂入ってたの? 俺も一緒に入りたかったのに」

 耳元で甘えるような声で囁かされると、そのハチミツみたいにとろける声に、また全部吹き飛ばされそうになる。まだ何も解決していないと、慌てて頭を振る。朔良には言わなければいけない大事なことがたくさんあった。

「あのね、ナツ、ごめんなさい。僕、ずっと、ナツに嘘ついてて……。そのことちゃんと謝りたくて」

 首元にあったナツの頭が離れていき、ナツは朔良の正面に立った。

「でも昼間、事務所でナツは僕の嘘には怒ってないって、だから……。どうしたらいいか、分からなくて。それも、ごめんなさい」

 一生懸命に伝えた朔良に対して、ナツは朔良の前で目を瞬かせ急に笑い始めた。

「えー? 朔良。俺が何に怒ってるか、本気で分かってなかったの?」

「ぅ、えっと」

 目を泳がせていたら、ナツの手のひらが、そっと頬に当てられる。

「黙ってマンション出て行ったから、だよ。仕事も勝手に辞めてさ、だから怒ってたの。三上さんから聞いて、びっくりしたじゃん。俺が何かやらかしたのかと思った」

「ご、ごめん、なさい。ナツは何も悪くないです」

 朔良の謝罪にナツは口元を綻ばせる。その瞳からは嘘や偽りは伝わってこなかった。本当に朔良が黙っていなくなったことを心配していたのだろう。自分のことばかり考えていて、ナツが不安になっているなんて、これっぽっちも思っていなかったので反省しきりだった。

「俺、朔良の恋人なんだけどなぁ。何か困ってるなら、もっと頼ってよ? 大学は、まー留年してるけど、社会人としては、俺の方が先輩だよ?」

 そう言ってナツに顔を下から覗き込まれる。

「僕、もう、ナツに……嫌われるって思った。怖くて……」

「不安だったの? こんなに大好きって、言ってるのになぁ」

 二人の体の間で、両手で恋人繋ぎをされる。ナツの手の温かさに不安が吸い取られていくようだった。

「それで、大体はもう知ってるけど。朔良は俺にどんな嘘ついてたの?」

「あのね、僕、ずっと、サクラのバイトをしてたんだ。葬儀場にいたのも、それで。……月山さんから翠くんを一緒に送って欲しいって依頼だった」

「あれも、お芝居だったんだ、へぇ」

 ナツは感心したような声を上げる。

「それだけじゃない、僕はナツに出会うまで、演技で人に嘘がつける人だったんだ。罪悪感なんてなかった。仕事だからって」

 人を幸せにできる嘘があるって思ってた。けれど大切な人についた嘘は、ずっと心にしこりを残し続け朔良を苦しめた。

「サクラのバイト、ねぇ」

「うん。大学の演劇サークルで部活の伝統っていうか、ずっと代々紹介で、結婚式の友達役とかが多いんだけど」

「そんなバイトがあるんだね。じゃあ朔良は、いつも現実世界でお芝居をしてたんだ。なるほど即興のお芝居が上手いわけだ」

「な、納得するんだ」

 ナツは目を細めて笑った。

「――俺、あの葬儀場でさ。朔良にまっすぐに見つめられて、亡くなった後も、こんなふうに思ってくれる友達が居て羨ましいなぁとか思ってた。俺に、そんな気持ちにさせるってことは、朔良、真剣に役と向き合っていたってことでしょう? 誰かのためについた嘘なら悪くないと思う」

「でも、あの、僕は、ああいうことが平気で出来る人間なんです」

 声が詰まった。

「ナツの代理マネージャーになったのだって」

「うん。俺に仕事させるためでしょう? けどさ、朔良がお芝居していたとき、誰かを騙してやろうとか、貶めてやろうみたいな気持ちでしたこと、一度でもある?」

「それは……ない、です」

 誰かの助けになるなら、そのために自分の演技を使いたい。それだけだった。

「俺のファンだったっていうのも嘘?」

 朔良は、それだけは絶対に違うと首を横に振った。

「ナツが、大好きなのは本当!」

 ナツはくすくす笑う。

「嬉しい。もし俺が朔良に言いたいことがあるとすれば、劇団の口利きのことかな」

「……はい」

「本当、駄目だよ、そんな約束で仕事を受けたりしたら。分かってると思うけど! お金で人を動かせると思ってる人間はろくな人じゃないんだから。水谷さんも悪い人じゃないんだけど、いい人でもないから。――でもさ、それはもう自分で分かってるし反省してるんだよね」

「うん。もう、絶対にしない」

「じゃあ、俺から叱ることは、もうないですよ。本当、心配だから危ないことはしないでね」

 小さな子供を褒めるみたいに髪をぐしゃぐちゃとかき混ぜられた。ずっと心の中にあった重石が、その瞬間ふっと軽くなって消えた気がした。

「……考えてみれば、俺さ。あの葬儀の日の朔良に一目惚れしてたのかもね。ほんと、かっこよかったし。周囲の空気が張り詰めて、息をするのも怖いくらいだった」

「え、あのときに」

 ナツは、その日を思い出すように遠い目をしていた。

「綺麗な目だったって、前に俺、言ったでしょう。あの日、朔良が車から降りたあと、また朔良に会いたいなぁって思ってた気がする」

「え、嘘、だ」

「嘘じゃないよ。本当! 一緒に暮らすようになって、朔良が自分のファンだって知ったときは、もう嬉しくて嬉しくて、たがが外れたっていうか。この子を絶対離さないって思った」

 ナツはベッドの上に座ると朔良の手を引いた。

「それで、朔良は、何がきっかけで俺に惚れてくれたの?」

 忘れたことがない。ナツと初めて会った春の日。

 ――あの、よかったら、チョコどうぞ。

 鼓膜をくすぐるような、甘い桜の花びらのような囁き。

「な、ナツにもらった、チョコレート……食べたとき」

 味の分からなかったチョコレート。その瞬間が、朔良の初恋だった。

「それ、アイドルの俺じゃないじゃん。えーアンパンマンがよかったの?」

「な、ナツは、いつだって僕のアイドルだから! お仕事してるときも、してないときも、全部! ナツだけが……僕の中で一番特別で綺麗だったから!」

 朔良が早口で答えると、そのまま手を引いて、ベッドの上に押し倒された。

「それ最高の、褒め言葉」

 ナツが片手で黒のデザインカットソーを脱いでいる姿を、ベッドの上で陶然とした瞳で見上げていた。極上の身体を朔良がこの場で独り占めしている。

 朔良の顔の横に手を置かれ、顔がゆっくりと近づいてくる。

 ベッドの上で啄むようなキスをして見つめ合ったあと、上に一枚だけ着ていたTシャツをナツに脱がされた。下の服は元々着ていなかったので、下着一枚だけになってしまう。

「ぁ、あの、ナツ、最後まで、するって」

「ん、するよ。せっかく勉強してきたんだから、帰りに薬局寄ってもらったし」

 そういえば部屋に入ってきたとき、ナツが黒いビニール袋を持っていたのを思い出す。今それは机の上にあった。

 ナツは机の上に置いていた袋を持ってきて、中身を布団の上に出す。

 コンドーム、潤滑剤。

「え、こ、これ、ナツが薬局で買ったの」

 驚いた声でいうとナツは吹き出して笑った。

「何言ってんの、朔良。三上さんに買わせるわけないじゃん。ちゃんと自分で買ったよ」

「それは、そう……だけど、うん」

 一体どんな顔をして買ったんだろう。周囲に人はいなかったんだろうか。ナツが、これを堂々とレジに出したところを想像して顔が真っ赤になる。夕方、自分も同じものを買ってきて、それはリビングにあった。

 最後まで、と言われた意味が自分の想像と同じだったと答え合わせができた。

 理解した瞬間、再び昼間マンションにたどり着いたときの気持ちに逆戻りして、頭がふわふわになってしまった。

「朔良を大事にしたいからね。それに、お互い気持ちいい方がいいでしょ?」

「き、気持ちいい……こと」

 こくりと生唾を飲んだ音が静かな部屋に響く。ベッドの上に座ったまま、目を白黒させていたら、ナツから鼻の頭に猫の挨拶みたいにキスされた。

「朔良はすけべだなぁ。今、どんなこと想像したの?」

「それは……そ、それより、ナツ。べ、勉強って、どんなこと、したの」

「それは、ひみつ」

 そう言ってナツは唇の前に指を立てる。その弾けるアイドルスマイルに心臓が張り裂けそうになるし、頭の中がわやくちゃになった。

「あ、あのね、僕も、い、今から何か見て勉強した方がいい? よね」

 どんなことを期待されているのか、急に不安になって探るように恐る恐るナツに尋ねた。

「もう朔良はこれ以上勉強しないでいいよ。採点厳しくなっちゃうじゃん」

「な……なつ」

 見つめ合っているうち、互いが磁石で吸い寄せられるように唇を合わせていた。

「ナツ……ナツ、すき、大好き」

「俺も、大好きだよ。――朔良、アイドルの俺を見つけてくれて、好きになってくれて、ありがとう」

「そ、そんなの、僕のセリフだよぉ」

 ナツに切実に求められる感覚に酔いしれ、朔良は身体中で幸福を感じていた。


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