ポートレート


 都内でも比較的、緑の多い白金台にある『坂野上写真事務所』。個人でスタジオを構えるなら、もっと広く土地が使える場所が他にもありそうに思えた。この場所に建てたのは仕事相手に芸能関係が多いからだろうか。

 仕事面のメリットについては分からないが、同じエリアには大学や庭園美術館があるし、ごみごみした新宿の繁華街と比べたら、住環境は文句なしだと思った。

 閑静な住宅街の一角にある事務所は、地上三階地下一階。要塞のような佇まいをしている。

「前はASKETのメンバー全員で来たなぁ。俺、この建物好きなんだよね」

 事務所のガレージに車を置き庭に入ると、ナツはなんだかご機嫌だった。

「外観は美術館っぽいよね。コンクリート打ちっぱなしだし」

 写真スタジオというよりはアトリエ系建築事務所のようだ。ナツは建築士になりたいと言っていたし、変わった建物が好きなのだろうか。

「ここ、三階が坂野上さんの自宅なんだって。コンクリートなのに圧迫感なくて上手いなぁって、二階の全面ガラスがいいのかな。秘密基地みたいっていうか、顔っぽくない?」

「窓が顔なの?」

 ナツの無邪気な感想が面白くてつい笑ってしまう。

「え? 見えない? ロボットに変形しそう」

 ナツは葬儀場の洗面所で話していたときと同じ顔をしていた。好きなことについて話しているときは、急に小さな子供みたいに可愛らしくなる。

(僕から見れば、いつも美しくて可愛いんだけど)

 ステージにアイドルとして立ち、観客をおもてなししているときの貌とは違うナツの素顔。きっと今日、カメラの前では、今みたいな表情は見られない。背後にバラや百合の花が咲きほこるような、トップアイドルらしい顔をしているはずだ。

 けど、今のようなタンポポみたいにニコニコ笑っているナツだって彼を構成している大切な一つの要素だし、無理して隠す必要などないだろう。ファンなら、たとえ玄関先の廊下で、ふにゃふにゃに蕩けているナツを見ても、喜びこそすれ、幻滅したりはしない。

(でも……いまの表情が、僕にだけ見せているものなら)

 独り占めしたい、誰にも見せたくない。そんな相反する気持ちが心の中に渦巻いている。恋仲になってからの朔良は欲深だ。

「よし、朔良、今から気合い入れて、芸能人オーラ出すよ」

「芸能人オーラって……その、出し入れ出来るものなんですか」

「うん、プロだからね。求められているモノを、お客様が望む形で提供する……それが嘘でもね。夢を与えられなくなったら芸能人として終わりだって、水谷さんはいつも言ってる」

「それは、分かるけど。無理しないで欲しいって、僕は思うよナツ。ナツがやりたくないんだったら、これからはナツの思う通りに」

 朔良はナツの夢を応援したいし、ファンや事務所の思い通りに動く人形にはなって欲しくない。……例え、その結果、朔良が役者になれなかったとしても。

 そもそも仕事で来たのに水谷の指示通り演技が出来ない自分は、端からプロ失格だし、スタートラインにも立てていない。それは、もう十分理解している。

 だからこそ試合に負けて勝負に勝ちたい。朔良は人として正しいことをしたかった。

「朔良は優しいね。けどさ、昨日、朔良がアイドルの俺を一番好きって言ってくれてから、なんか視界が開けたっていうか……もっとお仕事頑張ろうって思えて」

「う……うん?」

「だから、今日は、朔良のために頑張るよ」

 ナツの背後に一面の花畑が見えた。ナツがアイドルとして今より人気になってくれるのは、嬉しい。けれどナツは、もう自分で次のステージを見つけている。

 それなら、迷わずそこへ行くべきだ。

 ――あぁああああ、推しが尊い。

 ナツの放つ後光で思わずその場に崩れ落ちそうになった。

 嬉しいのに、喜べない。心を鬼にして「それは違う、ナツの信じた道を進むべきだ」と言えばいいのに、それが出来ない。

 水谷の思惑通り、アイドルとしてやる気を出しているナツを見て、無力な自分が不甲斐なかった。


 *


 ナツが撮影している間、朔良は事務所の所長、坂野上からお茶に誘われた。応接室のソファーで坂野上と向かい合って座り、コーヒーを飲んでいる。

 ナツの撮影中に朔良にやることはないが、遊んでいるようでなんだか後ろめたかった。本当のマネージャーなら事務作業などあるだろうが、水谷から個人的に役者として雇われているだけなので、会社員がするような仕事はない。無論、企業で働いた経験のない自分では即戦力にはなれないだろう。

「あの、今日の撮影、坂野上さんじゃないんですね。僕、代理マネージャーで、あまり業界のこともよく知らなくて。資料には――『羽鳥那月』さんって方だと」

「うちの事務所に在籍しているカメラマンなんだけど。僕より腕はあるよ。でも、あの子はねぇ、もう昔からワガママで」

「わ、ワガママ? ですか」

「この仕事受けてもらうのに骨が折れたよ。水谷さんに頼まれたら断れないし。昔たくさん仕事回してもらった恩もあるからさ」

 坂野上は好々爺のような落ち着いた話し方をしているが、昔は「売れる商業写真」なら彼というくらいのプロフェッショナルな仕事ぶりだったそうだ。

(全然、そうは見えない、ケド)

 白髪混じりの髪だが、定年には遠いし今が働き盛りだろう。襟付きのポロシャツの服装のせいか、休日にゲートボールにでも出掛けていそうな雰囲気がある。

「羽鳥くんはねぇ、芸能人の宣材写真とか写真集の仕事が、大嫌いで。昔の負い目なのかなぁ、芸能関係の仕事は嫌がるんだよ。古い建物とか、犬猫なら喜んで撮影に行くんだけど」

 人間嫌いなんだろうか。朔良は地下にあるスタジオで、カメラマンとナツが険悪な雰囲気になっていないか心配になってきた。

「羽鳥さんは動物が好きなんですか」

「見た目は全然そう見えないけど、可愛いもの撮るのが上手なんだよね、彼」

「でも、アイドルの写真も撮ったことあるんですよね」

 少し心配になって恐る恐る訊いてみた。

「うん。文句は言うけど、有能だし『人間』を撮るなら、彼以上に上手い人は国内にいないんじゃないかな。――商業的に売れるかどうかは別にして。彼は芸術家だから。撮影する写真は全部、芸術写真で、美術品なんだよ」

「写真が、美術、品ですか」

「そう。水谷さんから聞いてるかな? 羽鳥くん、昔は芸能系のスキャンダル写真撮ってたんだよね。で、その中の一枚が雑誌に載ってね……」

 それは朔良のよく知っている話だった。

「そのせいで一人のアイドルを引退に追い込んじゃったんだよね。けど、その少し後だったかなぁ、その羽鳥くんが撮った写真が有名になって、彼女、もう一度、芸能界で返り咲いたんだよね。『奇跡の復活劇』みたいな見出しがついて」

 ――母だった。

 当時、弱小芸能事務所で地下アイドルだった、初代SNN5のミカ。その写真以前の母は全然売れていなかったし、普通の女子高生だった。そんな母は、つい出来心で彼氏を作った。一緒に撮られたのは離婚した父だ。ただ、その写真で、せっかく大手事務所に再びスカウトされ返り咲いたのに、母は個人的理由で再び芸能界を去った。

(本当……自分の親だけど、我儘な人だ)

 今回の撮影に羽鳥を呼んだのは、その『奇跡の復活劇』を狙ってのことだろうか。朔良を個人的に役者として雇ったのと同じで、使えるものなら何でも使う。ナツを顔で売ると決めた水谷は、どうやら本気らしい。

「花本さん、気になる? 羽鳥くんの写真」

「そう、ですね」

「じゃあ、こっそり覗きに行こうか」


 坂野上の話からは、全く羽鳥の人となりが浮かんでこない。動物を愛する優しい人かと思えば、過去に芸能界のスキャンダル写真なんてものを撮っていた人でもある。

(不良少年が実は猫が好きみたいな? そういう人とか?)

 撮影でトラブルが起きていないかも心配だったので、朔良は坂野上に案内されて一緒に地下スタジオに入った。

 暗いスタジオの正面には、照明を当てた白ホリゾントのエリアがある。被写体のナツとカメラマンの羽鳥は、一対一で向かい合っていた。

 ナツの正面でスツールに腰をかけている羽鳥は、カメラを片手に何やら難しそうな表情を浮かべている。羽鳥の近くの作業台には、ノートパソコンとそれに繋いだディスプレイがあって、撮影した写真が映されていた。

 ナツの衣装はシンプルな開襟の白シャツに黒のパンツ。

 坂野上が上手いと言った通り、そこには、いつもステージで歓声を浴びているアイドルのナツがいた。今にも触れたくなるくらいの、とろけそうな甘い表情。ただ椅子に座っているだけの構図なのに、ナツの魅力が余すことなく引き出され、ずっとみていたくなるような、温かみのある写真だった。

 今回の撮影は、女性向け雑誌の一特集記事に載せるものだ。しかし、スタジオには、ナツとカメラマンの羽鳥だけで出版社の人間は誰一人いない。それどころかさっき二階で挨拶をしたメイクスタッフもいなかった。

「えっと、他のスタッフは」

「うーん、来てもらっても羽鳥くん、邪魔になるって追い出すからね。コンセプトとか打ち合わせは事前に終わってるから、彼一人でも問題はないんだけど」

「そ、そうなんですね」

 母の写真を撮った年齢を考えると、羽鳥の年齢は五十を過ぎているはずだ。けれど、少しも年老いた雰囲気を感じさせない。撮影の邪魔になるからか、明るい茶髪を後ろで短く束ねている。モデルのように背が高く、涼しげな目元に彫りの深い整った顔立ちをしていた。きっと若い頃はモテただろう。同じ年頃のはずの崎田と比べると凄い違いだ。一方は、その年齢でイメージする男性像そのままの男だ。

(機嫌、悪そう……だな。やっぱり芸能人は撮りたくないのかな)

 目の前で撮影されているナツが愛嬌の塊だとしたら、それを撮影している羽鳥は、無愛想を絵に描いたような人に見えた。

 被写体に向ける羽鳥の灰がかった鋭い瞳は、隠しているものまで全て曝け出されそうに感じる。坂野上は、彼を芸術家だと言ったが、確かにそう表現するのが合っている気がした。

「――別に彼、人の撮影が嫌いなんじゃなくて、むしろ逆で。人間の撮影が彼の専門なんだよ。もちろん商業的な写真も器用に撮れるんだけどね、今、ディスプレイに映ってるのが、そう。本当、つまらなそうに撮るでしょ、相手に失礼だよねぇ」

 シャッター音が空間を支配していた。

 坂野上みたいなプロには商業写真とそれ以外が明確に分かるみたいだが、朔良には違いなんて分からなかった。

 ただ、いつものアイドルのナツがいる、そう思った。

「これでも丸くなったんだよ。撮影中に指示出してくれるようになっただけマシで。前は無言だったからね」

 突然、カメラを片手で持ったまま、羽鳥がこちらを振り返った。

「あ、羽鳥くん、ごめんね。邪魔だったかな。こちら、ナツくんのマネージャーさんで、花本さん」

「……マネージャー。あぁ、さっきナツと庭に居た……ちょうどいい。もう頼まれた『アイドル』は、撮ったから。次、花本さん、こっちに来て立って」

「え? 立つ」

 羽鳥はカメラを作業台の上に置き、坂野上と朔良の前まで歩いてくると、唐突に朔良の手を掴んだ。

「ナツの気持ちが、全然撮れない。――絶対、彼、面白いのに」

 羽鳥から、さっきまでの冷たそうな印象が消え、急に目が輝き出した。おもちゃを手に入れた、子供みたいな目だ。

 羽鳥は朔良の手を掴んだまま、作業台の上に置いたカメラを再び手に取る。

「さっき、上の庭で二人喋ってたでしょう、二階から見てたんだよね。――俺、アイドルのキラッキラした顔撮るの嫌いでさ。それは、もう十分撮ったし、他の彼を撮らせてよ」

「き、嫌いって、ナツは、ASKETのアイドルで……」

 朔良は羽鳥から、白ホリゾントの前にいるナツへと視線を向けた。

「え、ナツ……どうしたの」

「羽鳥さん、朔良の手、離してください」

 ナツは朔良が今まで見たこともない目をしていた。冷たい目をして羽鳥を見ている。動揺している朔良をよそに羽鳥は、片手でカメラを持ち、ファインダーを覗くことなく、ナツに向けてシャッターを切った。

 テザー撮影なので、撮影された写真は、すぐにディスプレイに映された。

 朔良は、さっきのナツの冷たい目を怖いと思った。けれど、そこに映っていたのは、朔良だけを見ているナツだった。その真摯な瞳に、心臓が、ぎゅっと締め付けられて痛い。写真が叫んでいるみたいだった。

「いいね、この写真、人間っぽい。あぁ、花本さん、無理やり手掴んで悪かった。痛かったかな?」

「いえ、それは、全然。大丈夫です」

「……俺は『ナツ』を好きに撮っていいって言われたから仕事を受けた。今の方が、彼らしいよ。ま、売れるかどうかは、知らないけど」

「そんな、う、売れないと」

「芸能人として売れるのって、そんなに大事か? それより価値があって良いものがあるなら、そっちの方が正しい」

「それは……」

 朔良は言葉が続かなかった。自分も羽鳥と同じように思っていた。ナツが芸能界で売れるより大切なことがあるなら、それを大事にした方がいいって。

「羽鳥くん、あのねぇ、大切なお客様なんだから、ね。もう少し……」

「でも、坂野上さんだって、この写真いいと思うでしょう。さっきのより」

「それは、まぁ。いい写真だけど」

「今売れなくても、写真は嘘つかないから。必要なときに、必要になったらその時に評価されるよ。けど、俺は……別に評価されなくても、自分のこと認めてくれる人が一人でもいたら、それで良いと思ってる。そういう絵撮ってるときが幸せだし。――な、ナツ、最近、一番幸せだったことってなに? 俺は、別に知りたくないけど、雑誌の読者は知りたいらしいから、撮らせてよ。俺も、それを撮りたい」

「ナツ……」

 ナツは朔良の呼びかけに応えるように薄く唇を開く。

 朔良が羽鳥の座っているスツールの隣に立つと、ナツと視線が交差する。羽鳥がシャッターを押すたび、キラキラのアイドルだったナツから、少しずつ、少しずつ、仮面が剥がれていく。

「いいじゃん。綺麗なだけのアイドルって聞いたから、どんなのかと思って来たけど、そんなことない。いい顔、してる」

 ナツは幸せな顔をしていた。自分だけが知っていたナツの無邪気な笑顔。

 アイドルじゃない顔。

(ナツが、大好き、だ)

 確信があった。ナツは、この写真で、きっと今より仕事が来るようになるし、仕事の幅も広がる。

 この先、何もない空っぽの朔良は、ナツの隣に居られなくなる日が来る。

 早くお別れしないと、お互いのために良くない。分かっているのに、ナツのわたあめみたいに甘い瞳から視線をそらせなかった。

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