ネコバースBA/仮想現実と先輩の首輪
狐木花ナイリ
A1.一人家で待つ人、箱の中の猫
医者ですら部門分けされて世界中の人間を救っているのだから、社会不適合者にも色んな種類がいるのは分かっているつもりだが、読み終えた小説の作者が社会不適合者と名乗ったのが不快だった。
特に。自称社会不適合者の散文の癖に俺を、一時でも俺を救ってくれたのがマァジで悔しい。俺も研修医ならぬ研修作家にならせてくれや。作家に試験は無い筈だけど、どんなジャンルでもいけるよ!俺は!きっと!たぶん!
クソみたいな嫉妬心からの八つ当たりを、足元の椿にぶつけようとしたが、俺のキックはひょいと避けられて空を切る。不健康児の俺の足が突然動かされたことによって痺れてしまったから俺はもっとイライラして、今度は椿をぶん殴ろうと腕を振り上げた。でも結果はさっきと同じで。
瞳孔カッ開き荒い鼻息を吐く椿と数秒間だけ静かに睨み合ったが、結局、俺は頭を抱え、布団にくるまって叫ぶ。
死ね。
椿に言ったというより、世界に言った死ね。死ねというのは俺の口癖なのだ。死ねと言うのは俺の癖なのだ。髄に染み込んだ悪癖なのだ。ファッカー、ファッカー。マジファッカー。近所迷惑上等で叫んでも、この壁の厚い部屋には俺と椿しかいないし、椿は俺の言葉を分かっているのか分からないから、実質的に誰も嫌な思いをしない言葉。最高の言葉である。──嘘である。死ねが最高の言葉?アタマわいてんじゃねぇの。
頭がわいているといえばやっぱり俺の話になるが、引き籠もりニートの俺は早く帰ってこないかなぁと彼女を待っていた。
カーテンの間に見える外の世界は白い。吸い込まれるようなホワイト。近付いて見れば、そりゃあ、汚い住宅地が見える筈だ。今回も想像だけして、先輩を待つ。
「ただいま」耳元で婀娜っぽい鳴き声が聞こえる。
もう帰ってきていたらしい。
先輩に耳の穴奥に美声を通され、俺は驚きとゾクゾク感を同時に味わわされて、声を上擦らせて、おかわりなのか、おおいりなのか分からないおかえりを口にする。
まあ、意図は通じるから、先輩は満足したふうに頷いて、俺の耳に「たでま」と囁く。そして、俺の肩の上から離れて、シャツを脱ぎ始め。ズボンを脱ぎ捨て。白い肌を顕にした。骨ばったスリムな身体で毎日々々、社会で働く先輩に感謝と尊敬と嫉妬と謝罪と申し訳なさと恥ずかしさと気まずさに諸々──つまり愛を先輩にてれぱした。テレパシーが通じたのか通じなかったのか彼女は俺が被っていた布団を剥がしてきた。
無論、布団の中の俺は裸だった。俺は取り急ぎ布団を取り返す。俺は無駄に力が強いのだ。違う、加減を知らないのだ。先輩はジョークのつもりで布団を奪ってきた。それなのに俺は全力で布団を取り返した。俺はかっとなりやすい、激情型のディーブイ男。
この世で唯一信頼している先輩相手にもコレなのだから、俺は本当にどうしようもない。女性に暴力を振るう奴は死んだ方が良い。男にもなるべく振るわない方が良い。先輩だったらなおさらだ。
先輩は布団に吊られて、俺の腹に乗った。そして、気味の悪い笑みを浮かべた。
「ねえ?」
俺は恐怖する。先輩はこれから外の世界の話をする。怖い話を始める。本能的に分かるのだ。
「あのさぁ。疲れたよ」先輩が口を開く。
でも俺は、彼女の話が嫌いじゃない。
すっぴんの先輩が俺を見つめてくる。先輩の細長い目も、触ればぺとと音が鳴るほっぺも、まん丸い鼻も、俺には総て愛らしく感じられる。睫毛だっておでこの大きさだって俺にとっては総じて完璧なのだ。
触れた先輩の表面は冷たいが、手を握れば俺の体温と混ざって温かくなる。彼女は俺の腹や胸を、ゆっくりとなぞるように身体を這わせる。俺は堪らない。俺は彼女の身体も温かいことを、もう何度目かも分からないが再認識する。
抱き締めながら、同時に俺は頭を回す。
だって。
だって、先輩は帰ってきたばかりなのだから、先ずシャワーを浴びて来て欲しい。
それから。それから。ご飯を食べてからの方が良いと思う。俺はそういうところばかり気にするのだ。口にはしない。行動には移さない癖に、そんなのばかり考える。
童貞みたくロドトルラ塗れの脳味噌が過重負荷によって爆発して、俺の左の鼻の穴から血が垂れてきた。でも、先輩はそんなの慣れっこだから、俺の眉間と鼻の間あたりをぎゅっと親指と人差し指で挟んでくれる。ちょっと痛い。
黙って数十秒間、先輩と見つめ合っていれば血が凝固する。先輩は俺の鼻から指を離す。そして血のついた指を艶めかしく口に入れた。
「水飲んでる?」と先輩に言われて、俺は水分不足に気が付く。喉がカラカラだ。そういえば今朝起きてから何も飲んでいない。何も飲まずにスマホを弄ってばかり、それで起きてからの数時間を無駄にしていた。俺はまた死にたくなったが、こんなのはいつものことだから希死念慮はすぐに収まる。
俺は主体性が無い。先輩に飼われた主体性の無い俺には死ぬ勇気がない。ヒモの俺は飼い主の顔を伺いながらもただただ堕落に溺れるのだ。
また死にたくなっていると、先輩が俺に水を持ってきてくれる。俺は受け取って、飲み干し、冷たい氷を噛み砕いた。先輩は満足したふうに、俺からコップを受け取り「ご飯つくるね」口にした。
俺は「俺がやるよ」とは言わずに、自分が最後に料理した数年前の記憶を思い出す。俺は料理の腕に自信がない。「一緒にやろう」とも言えないうちに先輩はキッチンのシンクで騒音を奏で始める。
ガタジョボガタジョボガッタガラドンダン。
「俺が代わりにやるよ」とは言えずに、俺はただただ得体の知れない汗をかく。先輩は音で俺を脅迫している。
ガタジョボガタジョボガッタガラドンダン。
煩い、煩い公害だ。俺が公害だと思ったからとにかく公害だ。騒音だって公害に入る。迷惑しているのが俺一人でも公害なのだ。公害が恐ろし過ぎて俺の全身から汗が出る。身体を冷やす乾いた汗は同時に粘っこくもある汗だから、堪らなく気持ち悪い。俺は頭を抱えてまた唸る。先輩がこちらを見ている。俺はもっと唸った。
「どうしたの?五月蝿い?」と聞かれて「うん」と俺は我儘を吐く。
「さっきお前もやってたじゃん?ふぁかふぁかふあっかーってさあ。しかえし」
「ふぁかふぁかふぁっかー、じゃなくてファッカーファッカーマジファッカーです」
「しゃたふぁかー。一緒じゃん」
俺は唸るしかない。
「発情期の猫みたい」
先輩に揶揄われて、俺はもっと唸る。先輩は困ったような顔をしてから、思い出したように言う。「あ、お前にプレゼントがある」
俺は唸るのを止めて答えた。
「いらない、満足してる」
俺がプレゼントで喜ぶと?正直言って、俺は満たされている。俺は先輩がいれば十分なのだ。だがとりあえず見てやろう。コーラだろうか。ポテチだろうか。
先輩は黒い段ボールを持って帰ってきていた。30×30×30くらいの黒の立方体。その側面には、白抜きの文字で「メタバーストV」と書かれていた。SNSでその名を目にした記憶がある。最近流行中の家庭用ゲーム機だったはずだ。
「違う。それは無印でしょ?単なるメタバースト。これは”V”。真作なんだよ、次回作なんだよ。分かる?」
「どういうこと?」俺は聞く。
「だから。これはまだ開発中のプロトタイプってこと」
「へぇ、意味が分からないです」俺は首を捻る。俺はゲームに関して全く詳しくない。先輩だってそれを知っている筈だ、だから先輩は怪しい笑みを浮かべているのだ。
「だからあ。うちの会社でゲームつくってるって言ってたでしょ。で、そのテストプレイをしなきゃいけないの」
「えっと、その。ゲーム機、メタバーストVの?」よく分からないままに俺は段ボールを指さした。
先輩は俺を馬鹿にしたようにまた笑う。
「だから!違う。ハードじゃなくて、こっちのソフト──”
ハード?ソフト?難しい言葉を使うなよ!
俺は頑張れとだけ吐き捨て、布団に隠れる。クソみたいなプレゼント。先輩に裏切られた。
俺は引き籠りニートには珍しい(珍しい?)ゲームはしないタイプの人間なのだ。というよりも少々不器用だから、スマホは使えてもゲームは出来ない──中途半端な機械音痴なのだ。
それに。
ゲームをすると目が悪くなる。
だから、ゲームはやるな。
いつか俺に教えたことじゃないか。ところが先輩は首を振る。「これは目ェ悪くならないよ」。先輩は首を振りつつ、箱からヘルメットみたいな何かを取り出した。「これを頭に繋げるの」。そのヘルメットからは細く黒いコードが何本も伸びていて、その先には白いシールみたいなものが付いている。俺には黒光りするグロテスクなクラゲに見えた。
「これをおでこに貼るの」
先輩はクラゲの足先についた殆ど毒針に等しいシールを持って近づいてくる。俺は先輩を蹴った。なのに先輩には効かなかった。俺は叫ぶ。
「俺は小説を書かないと!」
「最近──ここ数年、書いてないの知ってる」
「スランプ!」
「駄目。スランプなんて言葉使っちゃ。だって、まだ完成させたことないじゃん。お前は小説書く才能無いんだって。才能無い奴がスランプなんて言葉使っちゃ駄目なの」
俺は先輩を殴る、蹴る。先輩は動じることなく不敵な笑顔で、コードに繋がれたシールを両手で俺に近づけてくる。悪魔のような笑みを浮かべる先輩。目尻を垂らして、口の端を吊り上げて笑っている。最初は悪魔みたいな笑顔に見えた、でも、ずっと掴み合って睨み合っていると、悪戯を覚えた幼い天使の笑顔にも見えてくる。いや天使は幼い訳がない、嘘吐きめ。俺はもう、もう、よく分からなくなって、叫んだ。
先輩は俺の顎を親指と人差し指で優しく挟んで言う「冗談」。そして俺の頭をぽんぽんと二回撫でてから、莞爾と笑う。俺はからかわれていたことをハッキリと悟り、発狂しかけたがひとまずは堪えて先輩を殴った。防がれる。先輩は再度、俺を撫でる。
「でも、一緒にゲームくらいはしようよ。私達、夫婦なんだからさ」「久し振りに聞いた言葉だ。夫婦」「わざわざ言うことでもないでしょ?」
俺は唸るしかない。
「愛してる」
先輩に言われた時、俺はまた悩んでしまう。ずるいずるいずるい、と思ってしまう。
役所に行って確認すれば、俺達は他人だ。「夫婦」でないのだ。未だ、単なるごっこみたいな、クソみたいな関係だ。俺はそういうところを気にする──言うなればガキなのだ。ハッキリした徴が無ければ納得出来ないおこちゃまタイプ。だから、赤子みたく先輩の言葉をそっくりそのまま繰り返すより他に、ない。
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