第2話 無垢なあの子をサッカー色に

 よく眠れないまま試合日を迎えてしまった。

 女の子相手にカッコつけて誘ったホームゲーム、桑穂くわほエレクレール戦。桑穂エレクレールは今年J2からJ1に復帰したということもあってか、俺達のホームスタジアムである「むぎやスタジアム」周辺には大勢の桑穂サポーターが来ていた。ちょうど晴天に恵まれ、四月だというのに暑い。

 俺は眠い目をこすりながら今宮いまみや梓乃あずのとの集合場所、スタジアムの入場待機列の近くにある銅像近くに向かう。紫色と黄緑色のフォレザン花峰カラーのユニフォーム、または黄色とオレンジ色の桑穂エレクレールカラーのユニフォームを着た人々の中に、ひときわ地味な装いの今宮がいた。大学で初めて会った時とあまり変わらない、パーカーにジーパンの出で立ち。髪はゆるい三つ編みのおさげ。そして不安そうにきょろきょろと辺りを見回している。

「悪い。遅くなった」

 俺がそう言って近づくと、今宮の顔がぱあっと明るくなった。まるで子供のように無垢な表情に俺は一瞬たじろいだが、気を取り直して言うべきことを言う。

「今日は来てくれてありがとな。俺、誰かをサッカーに誘うのは初めてだから色々不手際があるかもしれないけど、楽しんでいってくれ」

 急にかしこまって言うのは恥ずかしいが、今宮の反応を楽しもうと誘ってしまった俺が悪い。今宮に楽しんでもらうことがせめてもの罪滅ぼしだ。

「こっ、こちらこそお誘いいただき、ありがとうございますっ」

 俺がかしこまってしまったせいか、今宮もピッと背筋を伸ばして深々と頭を下げる。

「私、スポーツ観戦自体が初めてなので色々至らぬ点があるかと思いますが、足手まといにならぬよう気を付けますので、何卒よろしくお願いします……!」

 深々と、どころか九十度以上に頭を下げられる。知らない人が見れば不穏な空気が漂う光景だ。

「ちょ、今宮、頭上げろって! これじゃまるで……」

「私の感謝の気持ちですっ」

 埒が明かないので、今宮の上体を無理やり起こさせる。顔を上げた今宮は、焦る俺を前にきょとんとしていた。

「い、行くぞ!」

 俺は今宮の返事も聞かず、仲間との集合場所へと歩き出す。少し歩いてから後ろを振り返ると、今宮は辺りをきょろきょろと見渡しながら、俺の後ろを付いてきていた。

 俺の仲間は待機列にほど近い場所にいた。

「あらっ! タルくん、ついに彼女ができたの!? 嬉しいわぁ」

 俺と今宮を見るなり顔をほころばせる、やたらガタイの良い三十代男性。スタジアムでいつも一緒に応援している、サポーター仲間の西浜にしはまさんだ。

「彼女じゃないですよ。大学の同級生です」

「そうなのぉ? タルくんもついに大学デビューしてリア充になったのかと思ったわ」

 俺の心の傷がズキッと痛む。しかし、西浜さんはそんなことを知る由もなく今宮の方を向く。

「お名前、教えてくれるかしら?」

 西浜さんはしなを付けて今宮を覗き込む。今宮はドン引きしている、かと思いきや。

「今宮梓乃です! どうぞよろしくお願いしますっ!」

 満面の笑みで返事をする今宮。

「かわいいお名前ね! 私、西浜にしはま成雄なるおよ。よろしくねっ!」

「はいっ!」

 変わり者同士惹かれ合うものでもあったのか、今宮と西浜さんの会話は弾んだ。その中で今宮がサッカー観戦に来る経緯を説明し、俺が大学デビューに失敗したこともバレた。俺が盛大にスベった自己紹介の場に今宮はいなかったそうだが、噂で聞いたらしい。穴があったら入りたい。

 鬱々とした気持ちになっていたが、列整理の時間が近くなったところで西浜さんはあることに気付く。

「タルくん、そういえば梓乃ちゃんはシーズンシートじゃないわよね?」

 そうだった、すっかり忘れていた。今宮が首を傾げたので説明をする。俺も西浜さんも、スタジアムに足繁く通うサポーターは「シーズンシート」という、いわば年間パスポートのようなチケットを事前に購入しているということ。そしてシーズンシート会員は一般のチケットを持っている人より十五分早く入場できるということ。今宮が持っている電子チケット(俺が譲った無料招待券)は一般チケットに振り分けられるので、会員優先入場時刻に一緒に入場は出来ないということ。

「私がタルくんと梓乃ちゃんの席も取っておくから、一般開門時刻まで一緒にどこかで待っているといいわ」

「そうします。よろしくお願いします」

 西浜さんは「任せて!」と親指をグッと立ててウインクをし、入場待機列へ向かった。

「悪いな、バタバタしちゃって」

「全然そんなことないです! 西浜さん、すごく良い人ですね」

「お、おう」

 今宮が目をきらきらと輝かせるので、俺は中途半端な返事しか出来なかった。

「そういえば、篠沢さんに聞きたいことがあるんですけど……」

 今宮は視線を落として物憂げな表情になる。なんだなんだ、また大学デビュー失敗の話か?

「篠沢さんが着ているTシャツに書いてある『むぎや』って何ですか?」

 今宮の視線は、単に俺が着ているフォレザン花峰のユニフォームの胸部分に向けられているだけだった。確かに紫と黄緑のユニフォームの胸部分に大きく白字で「むぎや」と書いてあるため、目立つことは間違いない。

「ああ、これのこと? 『むぎや』っていうのは県内の企業で、フォレザン花峰のスポンサーだよ。ほら、背中に『花峰中央銀行』とか、袖にも『ドラッグストア・ムーン』って企業のロゴが入っているだろ? これは全部フォレザン花峰のスポンサーなんだ。選手達も俺達サポーターも、フォレザン花峰のために出資してくれるスポンサーのロゴを背負って戦っているんだ」

 今宮は目を大きく見開いてコクコクと頷く。理解してくれているのかどうかは微妙だが、そもそもサッカー初観戦の人にスポンサーがどういう存在なのか理解を求めるのは無理があるのかもしれない。

「サポーターって、さっき西浜さんも言っていたシーズンシート会員のことですか?」

「いや、サポーターっていうのは特定のクラブを一生懸命応援している人って意味だよ。シーズンシート会員じゃなくてもサポーターはたくさんいる。例えば県外に住んでいてなかなか試合に来られないけどフォレザン花峰を応援している人、とかな。今宮だって今日の試合で花峰を応援してくれれば立派な花峰サポーターだぞ」

「私も花峰サポーター……! 何だかわくわくしてきました……!」

 今宮は再び目を輝かせた。

「……あ、そうだ。今宮、ちょっとついて来てくれるか」

 思い出したことがあったので、木陰を離れてとあるブースに今宮を連れて行く。場当たり的で段取りが悪すぎるが、まだ一般入場時刻まで時間はある。目的のブースとは、フォレザン花峰のありとあらゆるグッズが販売されているグッズ販売ブースだ。試合の応援に必要なアイテムからアクセサリーや生活雑貨、文房具まで揃っている。

「応援の時にタオルマフラーが必要だし、せっかく試合に来てくれたんだから一枚買ってやるよ。どれでも好きなものを選んでくれ」

「えっ、それは駄目ですよ。ちゃんとお支払いさせてください」

 今宮は遠慮していたが、俺が「いいから」と押し通すと「……ありがとうございますっ」と頭を下げた。タオルマフラーは種類が豊富で、色こそフォレザン花峰のクラブカラーである紫と黄緑で統一されているが、クラブロゴが入ったポピュラーなものや、選手やマスコットキャラクターの名前が入ったもの、地元の特産品のイラストが入ったものまである。

 今宮はまるでおもちゃ売り場に来た子供のようにはしゃいで「どれもかわいくて迷っちゃう」とタオルマフラーの品定めをする。しばらく悩んだ後「これに決めました!」と一枚のタオルマフラーを手に取って俺に見せてきた。フォレザン花峰のマスコットキャラクターであるカモシカの「レザンくん」と「ハナミちゃん」のイラストが入ったタオルマフラーだった。

 俺が支払いを終えると、今宮はさっそくタオルマフラーを首に巻く。

「これで少しだけ皆さんの仲間になれたようで嬉しいです!」

 今宮は腰に手を当てて胸を張り、誇らしげな表情を俺に見せる。確かにグッズを身に付けるとそれだけで仲間になれたような気分になる。俺も最初はそうだった。

「戻ろうぜ」

「はいっ!」

 俺と今宮は一般入場待機列の最後尾に並ぶ。俺はシーズンシートを持っているので一般入場待機列に並ばくてもいいのだが、今宮が持っているのは一般チケットのため、初観戦の女の子を一人で並ばせるのも忍びないと思ったのだ。

 よく晴れているためか、一般入場待機列にもそこそこ人が並んでいる。待機列が動き始めて入場するまでしばらくかかった。俺はシーズンシートの会員証を読み取り機にタッチし、今宮は電子チケットのためスマートフォンのQRコードを読み込んでもらう。入場の手続きを終えて、その先にある階段を上りきると客席の最上階に着いて視界が開け、むぎやスタジアム全体が見渡せるようになる。

 客席の中央、前から三番目の席で「ここよー!」と笑顔で手を振る西浜さんはすぐに見つかった。俺はすぐその席に向かおうとしたが、今宮はその場を動かなかった。

「今宮?」

 俺が今宮の顔を覗き込んでも、今宮は動こうとしない。

「……綺麗」

 今宮の口からぽろっと出た言葉を聞いて、俺も今宮の視線の方向を向く。綺麗も何も、視線の先にはむぎやスタジアムが広がっているだけだ。

「綺麗……か?」

「はい、綺麗です。青々とした芝生も、オレンジ色の陸上トラックも、ここから見える山々も、全部全部綺麗です」

 今宮は心奪われたように、むぎやスタジアムの景色に見入ったまま答える。

「花峰市にこんなに素敵な場所があったなんて」

 むぎやスタジアムは球技専用スタジアムではなく、陸上競技場だ。サッカーの試合を行う芝生、いわゆるピッチの周りに陸上トラックがある分ピッチが客席から遠く、観客にしてみれば臨場感は球技専用スタジアムより薄れる。サッカーのサポーターとしては、やはり球技専用スタジアムの方が臨場感も味わえるし、応援の声も選手達により届く気がする。花峰サポーターはスタジアム建設の署名活動も行ったが建設計画は立ち消えになった。花峰サポーターとしては陸上競技場で試合を行うことに歯がゆさもある。

 しかし、今宮はその景色に見惚れていた。サッカーに関してはまだ何も知らない純真無垢な目はさらに輝いている。

 そして俺は正直戸惑った。この汚れなき女の子をこれから始まる死闘に巻き込んでいいのか。

 なぜならここは試合が始まると、どんなに温和な人も一瞬で豹変するエリア、通称「ゴール裏」の中心部なのだから。

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