雨のせい

クロノヒョウ




 あれは夢だったのではと思うような、そんな不思議な体験をした。

 突然のゲリラ豪雨に襲われた私は、どこか屋根のある場所を探そうと走りだした。山に囲まれた静かな町。もとは商店街だったのか、アーケードになっている路地を見つけ、そこで雨やどりさせてもらうことにした。人の姿はなかった。シャッター街の異様な静けさと薄暗さが激しい雨の音を際立たせていた。

 知らない街の知らない場所でただ一人、びしょ濡れになった体の冷たさと雨の相乗効果もあって、私はひどく不安になっていた。

「大丈夫だよ」

「え?」

 いつの間に、どこから現れたのか私のすぐ隣に男の人が立っていた。顔はよく見えなかったけど不思議と怖さは感じなかった。むしろ安心感さえあった。

「目を閉じて、雨の声を聞いてごらん」

 私はなぜか、言われたとおりに目を閉じていた。目を閉じると雨のにおいがした。

「何が、あったんだい?」

 激しい雨の音のすき間から低くて優しい声が聞こえた。

「……彼と……別れた、の」

 一年とちょっと、お付き合いしていた彼との日々を終わらせたのは私のほうからだった。

「愛していたの?」

「えっ?」

 そう聞かれてすぐに返事ができなかった自分に驚いた。

 私は目を閉じたまま考えていた。付き合い始めたのは社会人になってすぐ。その頃の私は慣れない仕事や人間関係に疲れていたのもあってか、そばにいて話を聞いてくれれば誰でもよかったのかもしれない。友だちに紹介され、特に断わる理由もなくお付き合いを始めた。彼は無口な人で怒るようなこともないし、いつも私の愚痴を聞いては慰めてくれていた。いつの間にか私はそんな優しい彼のことを心から好きだと思うようになっていた。

「愛されていた?」

 また雨音の中から声が聞こえた。

「……いや」

 そうだ。どんどん好きになっていったのは私だけだった。自分だけが浮かれて、彼の気持ちを知ろうともしなかった。きっと彼は優しいから、私に何も言えずにずるずる付き合ってくれていたのだろう。きっと愚痴ばかり言っていた私にうんざりしていたのだろう。仕事が忙しいからと言われては会う回数が減り、会っても疲れているからとすぐに背中を向けて寝るようになった彼。彼の心の中に私はいないと気づいた。優しい彼にこれ以上負担をかけないよう、私から別れを告げたのだった。

「愛していたかと聞かれてもわからない。そもそも、愛とはなんなのかがわからないもの」

 私はぽつりとつぶやいた。

「でも、私はもっと愛されたかった……」

 私が目を開けると、男の人の姿はどこにもなかった。

「うそ……」

 あんなに激しかった雨もいつの間にか止んでいた。そして不思議と、私の心も少しずつ晴れていくような感覚を覚えた。


 それから十日ほど経っていた。

 その彼のことを紹介してくれた友だちに呼び出された。私が落ち込んでいるのではと心配して食事に誘ってくれたのだ。確かに私は落ち込んでいた。落ち込んで、優しい彼への配慮のたりなさ、おのれの甘さを反省しようと一人で電車を乗り継ぎ、傷心旅行へと聞いたこともない温泉地へと行ってきたのだ。そこであの雨にあったのだけれども。

「なんか、思ってたよりも絵麻が元気そうでよかったよ」

 食事を終え、帰りの電車の中でそう言ってくれた友だちに、私はあの旅先での不思議な体験のことを話した。

「……それって、もしかして幽霊?」

 友だちはちゃんと真剣に話を聴いてくれていた。

「そう思うよね。でも、ぜんぜん怖くなかったんだよね」

「白昼夢、とか、落ち込みすぎて幻覚が見えた、みたいな感じかな?」

「それも考えた。でも妄想ではないのは確かなんだ。あの雨のせいで服はびっしょりだったから現実は現実」

「そっか。なぁんか不思議」

「そう、不思議だった」

「でもまあ、それで絵麻が元気になったのならなによりだよ」

「うん、それも不思議なんだよね。あ、もう降りなきゃだ。じゃあまたね……今日は本当にありがとう」

「うん、またね」

 私は友だちに手を振り先に電車を降りた。ドアが閉まり、電車が発車した。

 (雨……)

 暗闇の中に吸い込まれていくような電車を見送っていると、雨が降りだしてきた。

「あの……」

 突然の背後からの声に私はすぐに振り向いた。

「はい……」

 私のすぐ後ろには背の高い、爽やかな青年が立っていた。

「すみません、さっき電車の中で、その、あなたたちの会話が聴こえて」

「はぁ……」

 ナンパだとは考えにくかった。何度も頭を下げて申し訳なさそうな顔をしている。私はそんな青年に少しだけ興味をもった。さっきの会話というのは私のあの不思議な体験の話だろう。

「すみません、聴くつもりはなかったのですが、ちょっと気になってしまって。本当にすみません」

「そんな……ふふ、謝らなくて大丈夫です。私のほうこそ、電車の中でうるさくしてしまったようで」

「いえ、うるさいだなんてそんな、ぜんぜん」

 お互いに謝りながら頭を下げている自分たちが妙に思えてきた。

「あはっ」

「ははっ……」

 私たちは顔を見あわせて笑っていた。

「ああ、えっと、その、あなたが行ったそのシャッター商店街って、もしかしてN県のことじゃないかなと思って」

「えっ? ええ、はい、そうです」

「ああ、やっぱり」

「どういう、ことですか?」

 雨はさっきよりも大きな音をたてながら激しく降っていた。この雨ではどのみちどこかで雨宿りをしないといけない。私は青年に座るよう誘い、ホームのベンチに二人で腰を下ろした。

「N県は僕の地元です。あ、僕は雨宮と申します」

「雨宮さん。私は……絵麻で、大丈夫です」

「では、絵麻さん。僕の地元は中心部なのですが、N県の端の田舎のほうに、古い迷信というか、言い伝えのようなものがありました」

「言い伝え?」

「はい。きっと絵麻さんが行った場所は、美しい雨と書いて美雨みう。美雨村にある美雨温泉だと思います」

「美雨温泉、はい、確かに美雨温泉でしたけど、ひらがなで書いてあったので。そんな漢字だったのですね」

「ええ。今は旅館も一、二軒しかないようですが、昔はもう少しあったみたいです」

 雨宮さんの言うとおり、今はもう旅館は一軒しかないと女将が話していたのを思い出した。

「N県ははるか昔から雨が多かったみたいで、地名や人名にも雨の文字が多く使われています。僕の苗字の雨宮とか雨谷、雨森、雨沢、雨原」

「そうなのですね」

「美雨村では雨は神聖なものだとされていたようです。人々は天からの恵みの雨を喜んでいた。雨が降ると外へ出て雨を浴びていたそうです。それで病気やケガが治ったりしたとも」

「へえ」

「そして僕たちが子どもの頃に聞かされた話はこうでした。嫌なことがあったり悲しいことがあったりして落ち込んでいると、雨の精がやってきて全部洗い流してくれる。と」

「あ……」

 いつもの私だったらそんな迷信みたいなものは絶対に信じない。でも、今の私は違った。

「じゃあ、私が落ち込んでいたから、雨の精がきて、私の心を洗い流してくれた……」

「雨に打たれたのですから、きっとそうだと思います」

 私はそれを聞いて心の底から納得していた。実際にあの男の人、雨の精は、私の心を綺麗に洗い流してくれたんだもの。

「ええ、きっと、そうです。あれは雨の精だった。信じてもらえないかもしれないけど、私は実際に体験しました。あの雨にあってから、雨の精と話してから、私の心がどんなに救われたか」

「え、ちょっと待ってください。雨の精と話した?」

「……はい。最初は大丈夫だよって優しい声がして。私が彼と別れたと言うと、愛していたのか愛されていたのか聞かれて私は何も答えられなくて。それで考えました。考えてみたけど、私はそもそも愛がわからなかった」

「そうでしたか……」

 それからしばらく雨宮さんは黙って雨を見つめていた。

 雨宮さんが何を考えているのか気にはなっていたけれど、私の中では全てがふに落ちてすっきりとしていた。私があの日出会ったのは雨の精だったのだ。

「……絵麻さん、もしよろしければ、この後食事とかって、どうですか? あ、いや、この雨が止むまで、ほら……」

「ふふっ」

 急な誘いに驚きはしたものの、確かにずっとこのホームのベンチに座っているのも居心地が悪い。それに、さっき初めて声をかけられた時から感じてはいたが、この雨宮さんという人の声は低くてあたたかくてとても落ち着くのだ。まるであの雨の精に声をかけられた時のように、安心感さえ感じていた。

「そうですね。この雨ですものね」

 私が笑ってそう言うと、雨宮さんも嬉しそうに笑った。

「はい、この雨のせいにしましょう」



 あれから半年が経っていた。

「ただいまぁ、わぁ、びしょびしょだぁ」

「本当、急な雨だったよな」

 デートの帰りにゲリラ豪雨にあった私たちはびしょ濡れになりながら雨宮さんの住むアパートに帰りつき、お互いに雨で濡れた体を拭きあった。

 あの時、あの雨のせいで足どめされた私たちはあれから食事に行き、お互いのことをたくさん話しあった。お互いに惹かれあうのはすぐだったと思う。そして今こうして私たちはお付き合いをしている。

「ああ~さっぱりした」

「ね」

 熱いシャワーを浴びて二人並んでソファーに座った。

「なんだよ絵麻、髪乾かしてないじゃん。ほら、おいで」

「うん」

 私がソファーから降りて雨宮さんの膝と膝の間の床に座ると、雨宮さんがドライヤーで私の髪の毛を乾かし始める。そんな日常に私は心の底から幸せを感じていた。

「お客様、熱くないですかぁ?」

「はい、大丈夫です。あはっ……」

 雨宮さんの大きくて優しい手に触れられながら目を閉じると、私の頭の中にあの時の雨の精との会話がよみがえってくる。

 もしも今、雨の精に「愛しているのか」と聞かれたら、私は堂々と「愛している」と答えられるだろう。「愛されているのか」と聞かれたら、きっと笑顔で「愛されている」と答えることができるだろう。

「……はい、終わり。これでよし、と」

「ありがとう」

 居心地が良かった私はそのまま雨宮さんの足に挟まったままでいた。

「なあ、今度さ、一緒に美雨温泉行ってみる?」

「それ! 私も行きたいって思ってたの。雨の精にお礼がしたいなって」

「じゃあ、近いうちにスケジュールたてよう」

「うん」

「きっと雨が降ると思うけど」

「うん、きっとだね……あっ、あのさ」

「ん?」

「あの時さ、駅のホームで、私が雨の精と話したって言ったら、雨宮さん、なんだか様子が変だったよね?」

「ああ……うん」

 雨宮さんは私を抱きしめるように後ろから腕を回してくれた。

「実は、僕の家にも先祖代々からの言い伝えがあってね」

「え? 何?」

「うん、『雨宮家の男は雨の日に雨の精の声を聞いた女性と出会って愛しあう』って」

「……うそ……まさか」

 私は驚いて振り返って雨宮さんを見上げた。

「僕もまさかとは思っていたけど、こうやって絵麻と出会えた」

「……雨の精の声を聞いた私と」

「うん。だからあの時すでに、僕は絵麻とこの先ずっと一緒にいるんだろうなって感じてた。実際にもう、僕は絵麻に一目惚れしていたけどね」

「……雨宮さん」

 私は驚きと嬉しさと照れくささとで恥ずかしくなり、雨宮さんのお腹に顔をうずめた。

「きっと雨の精が、僕らを引き合わせてくれたんだ」

「うん。きっとそうだね……きっとそう。全部、雨のせいだ」

「そうだよ。全部、雨のせい」

 雨宮さんが私を抱きしめてくれる。私は雨宮さんの愛に包まれながら目を閉じた。

 とてもあたたかかった。

 そうか。

 私は今やっとわかった気がしていた。 

 愛ってあたたかいものなんだね。

『愛ってあたたかいものなんだよ』

 まるで雨の精がそう返事をしたかのように、窓の外からは激しい雨の音が聴こえていた。



            完


 





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