第29話 彁混神
「な、なんだっ……⁉ あれっ……」
確かに、あの光景は夢で見た光景とすべて同じだった。薄暗い地下室、妊婦、そして、その腹から現れた黒い腕。現実と夢が溶け合ったようで、視界がくらくらと揺れる。本当に、現実なのか、これは。
これだけの短期間に、この世のものとは思えない出来事を体験し過ぎたせいで、夢でも見ているのではないかという錯覚に陥る。しかし、これは紛れもない現実だ。血の臭いが──まだ鼻孔に残っている。
御子は俺の腕を引っ張りながら、出口に向かってきた道を戻るように走っていた。
「御子……! な、なんなんだよ! あのバケモノ! それに、ここで起こっていることって!」
「多分、これは儀式だと思う。私たちは今、それに巻き込まれている。イカレカルトが……何かを呼び出した」
「儀式っ⁉ これが⁉」
この集団自殺が、儀式の一環だと。
それに何の意味があるんだ。自分たちの命を捧げてまで、奴等は──あの腕の持ち主を呼び出そうとしていたのか。
「とにかく、蓮くん。今はここから離れることだけ考えて。相当ヤバい空間になってるからっ」
「どういう意味だっ⁉」
「説明しにくいけど、生と死がグチャグチャになってるって感じ。この集団自殺は……それを引き起こすための
死体が大量に転がっている校舎を抜け、俺たちは門の前に辿り着いた。御子はその門に止められている車を指差す。あの車に乗って、ここから脱出するつもりだったのか。
ドアを開けようとするが、ロックがかかっているようで開かない。この車は使えない。やはり、徒歩で移動するしかないのか。
そのような思考が過った時、パリンと、ガラスが砕ける音が鳴った。
「よし。乗って」
御子は銃床で車の窓を叩き割り、内側からロックを外していた。そして、即座に運転席に座り、後部座席に座れとアイコンタクトを送る。
色々、思うところがあったが──今はそんな場合でもない。俺は彼女に従った。
「鍵は……あった。これか」
エンジン音が響いた。どうやら、無事に動くらしい。
「御子、免許持ってるのか?」
「大丈夫、運転はできるから」
免許を所持しているのか、という問いに対して、帰って来た答えは──運転はできる。
どう考えても返答になっていない。しかし、運転を変わろうにも、俺は原付の免許しか持っていなかった。やや不安は残るが、今は彼女に任せるしかない。
「出すよ」
御子はハンドルを捌きながら、発進させる。
車は無事に動き出し、門を抜け、惨劇の校舎から離れて行った。
「……はぁ」
山道へと風景が変わり、俺は大きな溜息にも近い呼吸を吐く。
安堵した。一応、脱出成功でいいのか。カルトに潜入、拳銃自殺、集団自殺、妊婦、そして──バケモノ。何だったんだ。本当に。あそこで、何が起きていたんだ。
「……御子、いいか。さっきの話の続きなんだが、儀式って……どういうことだ?」
後部座席から、俺は彼女に質問する。
「私も、詳しいことは何も分からないから、推測の域を出ないけど……あいつらが集団自殺をした目的はあのバケモノを呼び出すため、だと思う。扉を開く、ってあの司祭が言ってたでしょ。多分、その扉ってのはあの妊婦の腹と繋がってる」
「扉……あれが?」
〝天国の扉〟。
奴等の目的は扉を開けて、天の国に渡ることだと言っていた。その開けた扉から、バケモノが出てきた──ということか。
「……そう考えると、一応、すべての事象は説明できる。だけど……問題なのが、妊婦の腹から出てきたあのバケモノ。あれは……悪霊の影の比じゃない。私ですら、今までに見たことも感じたこともない種類だった」
「…………っ」
「生者でも、死者でもない。文字通りこの世の者ではないって言うのかな。そんな気配がした……アレにはなるべく、関わらない方がいいよ。だから、とりあえずは町まで避難しよう。これからの話はまたそこで」
あの御子ですら、一目見て、逃走を選択した存在。
その正体は何だ。死者でも生者でもない。まさか、本当に神だとでも言うのだろうか。
「……あっ」
一つだけ、そのバケモノの正体に心当たりがあった。
そうだ。そいつの〝名〟は初めから知っている。最初に影に襲われたあの夜、老婆の家にあった像。重要な場面で、いつもそれは耳にしていた。
「あいつが──
ドンッ‼
キイイイイイイ‼
その名を口に出した瞬間、車体が大きく揺れた。
「な、なんだっ⁉」
「……追ってきた。上にいる」
追ってきた、だと。う、嘘だろ。こっちは車だぞ。追い付けるはずがない。
こ、この車の上に──いるのか。あいつが。
「振り落としてやる……! シートベルト締めてね」
そう言うと、御子はハンドルを切った。
左右に車体が大きく揺れる。
「……っ。しつこい、離れないな。蓮くん、ちょっとこれ使って」
御子は俺に何かを放り投げた。
「これ……銃っ⁉」
「そう。私は今、手離せないから、それを上に向かって撃って。安全装置は外してね」
「う、撃てって……」
いきなり実銃を渡されて、はい分かりましたと言えるやつは一体どれだけいるのだろうか。そもそも、安全装置というのはどこにあるんだ。
そんな戸惑っている俺を差し置くように、車体が左に大きく傾いた。
「――蓮くんっ! 捕まって!」
「なっ……⁉」
視界が揺れ、天と地がひっくり返る。
山道で、俺たちが乗っていた車はけたたましい音を鳴らしながら、横転した。
*
「……痛っ。な、んだ……これ……」
意識を失っていた。なんだ、何が起こった。記憶を遡り、前後の出来事を思い出す。
そ、そうだ。確か、あの施設から脱出して──車が横転したのか。全身が痛い。
「……っ。御子……?」
顔を上げ、周囲を確認すると──人差し指を口元に立てている御子と目が合った。静かに、という意味だろうか。俺は慌てて、口を手で覆う。
すると、御子は携帯を取り出し、何かの文章を打ち込み始めた。数秒で入力が終わり、その画面を俺に見せる。
『声を出さないでね。大丈夫? 怪我はない?』
コクリと、俺は頷いた。
その動作を確認した御子はまた何かのメッセージを打ち込む。
『まだ、上にいる』
「……っ⁉」
咄嗟に、首を上に向ける。
この上に──いるのか。あの黒い腕の持ち主、彁混神が。
『蓮くん、私があいつを引き付けるから、そのうちに一人で逃げて』
続けて、御子は画面を見せる。
その文字列を見て、必死に首を横に振る。無理だ。いくら彼女でも、一人で対処できる相手ではない。そんなことは俺でも分かっていた。危険過ぎる。
『大丈夫、勝算はあるよ。準備してきたって、言ったでしょ』
御子は手に持っているバッグの持ち手を見せつけるように動かす。
『私が引き付けている間に、蓮くんは安全な場所に避難して。でも、油断はしないでね。まだ教団の生き残りがいるかもしれない。そこに落ちている拳銃は蓮くんが持って行って。安全装置は後ろに付いているレバーを降ろせばいいから』
御子は視線を斜め後ろへと向ける。そこには先程まで持っていた拳銃が小石のように転がっていた。
俺が銃の場所を確認すると同時に、御子は車外に向かって、飛び出した。直後、車全体が何かが飛び去ったように、大きく揺れる。
「み、御子……」
俺は──彼女を見送ることしかできなかった。
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