第20話 夢か現か幻か
*
それから時は流れ──現在、午前二時。草木も眠る丑三つ時と呼ばれる時間帯だ。影がいつ出てきてもおかしくない。
丸一日以上、睡眠は取っていないが、目と頭は冴えていた。コーヒーと栄養ドリンクをたらふく飲んだのが効いたようだ。睡眠中に襲われてしまっては洒落にならない。
直に、あの影は姿を現すはず。しかし──昨日、いや今までと比べて、不思議と恐怖はあまり感じていなかった。多分、これは武器の有無が大きい。
すぐ傍に置いてある塩水に漬けた包丁に視線を向ける。今までの俺は完全に御子頼みで、無力な存在だったが、今は最低限の自衛能力はあるはずだ。
いつまでも狩られるだけの存在じゃない。こちらにも〝牙〟はある。そう考えると、勇気のような、立ち向かえる感情が湧いてきた。
カチッ──カチッ──
「……ッ! き、来た……!」
突然、照明が点滅を繰り返す。そして、停電をするように、光が失われた。
視界が闇に覆われる。だが、何も備えをしていないわけじゃない。足元にある災害用のライトの電源を入れる。カチリと、暗闇に一筋の光が射した。
その光の先には──いつの間にか、あの影が佇んでいた。距離は大体五メートルほど離れているのだろうか。
一瞬、心臓が跳ね上がるような感覚を覚えるが、すぐに冷静になり、包丁の柄を握る。
「お前と会うのも、もう四回目だ。いい加減に、慣れたんだよ、こっちは。そろそろ……終わりにさせてもらうからな」
「……………………」
会話を試みるが、返答はなかった。最初から期待はしていなかったが。
御子の真似をするように、包丁を逆手で構える。だが、慣れてきたとはいえ──やはり、影から放たれている冷気にも似たような気配は目を逸らしたくなるほど、恐ろしい。
全身に鳥肌が立ち、包丁を握る右手が震える。その震えを抑えるために左手で支えるように持った。
「……ッ!」
先に動いたのは──俺の方だった。このまま睨み合っていると、先にこちらの精神が参ってしまう。その前に、ケリを付けたかった。
包丁を頭上に振り上げ、それを思いっきり、影に向けて投擲をするように振り下ろす。
シュンッ
包丁が空を切る音と同時に、発泡スチロールが割れるような音が響いた。
影の方を見ると──包丁で与えた切り傷が、斜線のように、綺麗に影を切り裂いていた。
効いている。この包丁は──通用する。しかし、その瞬間、足元に何か違和感があった。
「うっ⁉」
俺の足首を──影が掴んでいた。ギュッと、圧迫感を感じる。かなりの力だ。
「はっ……離せ!」
足首の影を、包丁で切り裂く。パンを切るように、影は綺麗に切断された。
その瞬間、俺は姿勢を崩して、その場に倒れ込む。
な、なんだ。おかしい。脚に力が──入らない。奇妙な感触だ。思わず視線を足元に向ける。
「……っ」
掴まれた足首を見て、絶句してしまった。
その部分は黒く変色しており、まるでカビが生えているように、俺の身体を侵食している。
や、やばいぞ、これは。脚に力が入らない。立てない。すぐに影の方を確認する。
奴が──覆いかぶさろうとしている姿が目に入った。残り数秒も掛からずに、影は俺の上にのしかかる。そうなれば終わりだ。足首だけじゃなく、全身の身動きが取れなくなる。どうすれば──っ。
「う、うおおおおおおおっ!」
手元に偶然あったある物を俺は影に向かって投げつける。
それは──塩水だった。包丁に浸けるために用意した桶に入った塩水だ。
バシャッ
塩水を全身に浴びた影は動きを止める。
よくよく観察すると、全身を僅かに痙攣させていた。効いている──間違いなく。もう少しだ。
「こ、このっ!」
上半身に力を入れ、起き上がる。そして、弱っている影に目掛けて、包丁を突き付けた。
「……………………」
影は──全身を大きく捻じ曲げるような動きを取り──消えた。
それと同時に、足首も軽くなり、動けるようになる。
「はぁっ……はぁっ……」
手応えは感じた。
確かに、包丁越しに感じた。トドメを刺した感触というやつが。勝ったのか、俺は──あの影に。
「あ、あはは……ははは……や、やったぞ……! 倒した……!」
思わず、勝利の高笑いをしてしまった。
あの影を自力で倒したという達成感と充実感で、心が満たされる。御子がいなくても──やり遂げることができた。
ズズッ
だが、その時、全身に悪寒を感じた。
なんだ。今の妙な音は──音が聞こえた玄関の方に目を向ける。
「……………………」
「……………………」
嘘、だろ。そこにいたのは──倒したはずの影だった。
しかも、一匹じゃない。二匹だ。同時に二匹の影が──立っていた。
「な、なんで……」
その絶望的な状況に、先程まで宿っていた闘志は完全に意気消沈してしまった。
あ、あり得ない。こんなことは今までなかったはずだ。撃退した影が即座に復活して、しかも、同時に二体現れるなんてことは、今までに一度もなかった。まさか──最悪の可能性が脳裏に浮かぶ。
最初から、俺の家に現れた悪霊の影は同一個体ではなかったのではないだろうか。
御子が最初に突き刺した影も、包丁でバラバラにし、塩をかけて撃退したやつも、同じ個体ではなく、最初から、すべて違っていた。
もし、そうだとしたら、すべての前提が覆されることになってしまう。最初はあの老婆が俺に呪いをかけていたという条件の下で、俺たちは様々な調査をしていた。そして最後は老婆の死で解決したと思われた。
だが、現在は呪いの元凶である老婆が既にこの世からいない状態でも、影は俺を襲い、何らかの影響が御子にも及んでしまった。また、影も一匹だけではなく、最低でも三匹──いや、もっといてもおかしくない。それだけの数をあの老婆がすべて使役していたとは考えにくい。
つまり─―そういうことなのだろう。この呪いの騒動の真実に、思わぬ形で辿り着く形になってしまったが、今はこの状況を脱するのが先決だ。
「……………………」
「……………………」
二匹の影は玄関を完全に塞いでおり、まるで俺の退路を断っているように見えた。
ど、どうする。どうすればいいんだ。またやり合うのか? 一匹でもかなり苦戦していたのに、更にもう二匹を相手にできるか?
答えは──否、だろう。残された選択肢は一つ、窓からの逃亡だ。一瞬、ほんの一瞬だけ、背後を確認する。
一応、万が一の手段として、窓から飛び降りて逃げるというのは考えていた。だが、これは本当に最終手段だ。ここはアパートの二階、高さは大体五メートル前後もある。
上手く受け身を取れば、無傷で済むかもしれないが、当たり所が悪ければ死に繋がる高所。着地に失敗しても、骨折は逃れられないだろう。そんな状態ではすぐに部屋から出てきた影に襲われてしまう。
悪い方向に考えていてはキリがなかった。それ程までに、追い詰められている。やるしかない。もう時間は残されていない。
身体を起こし、急いで窓に駆け寄る。鍵はあらかじめ掛けておらず、引き戸を開けるだけで外に出られるようにしている──はずだった。
「……っ⁉」
窓が開かなかった。備え付けられている鍵を確認する。鍵は──掛かっていない。
「は、はは……マジかよ」
思わず、呆れ笑いが出てしまった。どうやら、窓から逃げることは叶わないようだ。何か奇妙な力で、固定化されてしまった。
背後を確認する。二匹の影は間近に迫っていた。一巻の終わり、絶体絶命、万事休す。頭の中にはそのような言葉で埋め尽くされていた。
手にはまだ、包丁が握られているが──とてもではないが、抵抗する気も起きない。
塩水も既に使ってしまっている。武器はこの包丁のみ。仕留められるのはどれだけ頑張っても一匹のみだ。その一匹を仕留めている間に、恐らく、もう一匹の方に呑まれてしまうだろう。
それに、もし万に一つも、この状況を打破できたとして、更に増援が来ないという保証はどこにもない。この部屋に閉じ込められてしまった時点で、もう勝負は決していた、ってことか。俺も頑張ったつもりだったが、相手の方が一枚上手だった。最初から一人で敵う存在ではなかったのだ。
そう、影が複数存在するということは──それを操っている存在も、複数いるということになってしまう。あの老婆はそのうち一人にしか過ぎなかった。
一連の呪いによる殺人は集団で行なわれていた可能性が高い。名付けるなら〝呪殺サークル〟とでも言うべきか。ははっ、我ながら、非常時になんて馬鹿馬鹿しいことを考えているんだ。殺される寸前だっていうのに。
二匹の影は俺に向かって、手のような部位を伸ばしていた。残り数秒もしないうちに、その手は俺に触れるだろう。恐怖と諦観の感情が合わさり、俺は──その場で死を受け入れるように、目を瞑ってしまった。
走馬灯のようなものが脳内に流れ込む。最後に浮かんできたのは──御子の姿だった。彼女は今でも無事だろうか。いや、心配は無用か。俺と違って、上手くやり過ごせているに決まっている。
ただ、俺が殺されたと知ったら、御子はどうするんだろうか。後追い自殺、なんてするタマでもないか。きっと、俺を殺した連中に対して、復讐をするはず。そう思うと──どこか、安堵してしまった。
この街で進行している呪いは俺の想像以上に、根深い物になっているのだろう。今まで何人、何十人、下手をしたら、何百人の規模で犠牲者が出ているかもしれない。そんなことは──決して許してはいけないはずだ。誰かが、裁かなくてはならない。
御子、任せるような形になって悪いが、後は頼んだ。俺や、他の人たちの無念を──晴らしてくれ。
最後に──もう一度、会いたかったな。
「──御子」
ドンッ
その時、何か金属音が衝突するような音が響いた。
突然の事態に、目を開き、何が起こったのか確認する。影は──目の前に俺がいるにもかかわらず、玄関の方に視線を向けるような動きを取っていた。なんだ、何が起きた。
俺も影が向いている方に、視線を向ける。玄関の扉が開かれていた。外から生温い風が部屋に入って来る。そこに、誰かが──立っていた。
俺はその
「蓮くんっ!」
そこに立っていたのは──夢か現か幻か、消えていた御子だった。
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