糸と会心

伊田 晴翔

繋がっている

 彼は緊張していた。しかし、それ以上にワクワクしていた。

 渾身の自信作とはいえ、大手出版社の編集者が直々にチェックしてくれるなんて、なかなかあることではない。ここで人生が大きく変わる可能性だってある。

 そう、考えていた。

 こんなとき、父なら何て言うだろうかと、彼はその顔を思い浮かべる。

「まぁ、気楽にやりなよ」彼の父はよく、そのようなことを言っていた。「ぶたれるわけでもあるまいし」

 寄り添ってくれているようで、実はどこか他人事のようだった。

 実際、いくらかでも気が楽になるから、かけてくれるその言葉が嬉しかった。


 広望社こうぼうしゃのビルに入り、受付を済ませる。何となく無愛想なイメージを抱いていたのだが、受付の女性は笑顔で優しく対応してくれた。まだ何者でもない自分にまでこんなに丁寧な扱いをしてくれるなんて、と涙が出そうになる。

 相談室に通してくれるとのことで、社員の女性に案内され、エレベーターに乗り込む。

 目的階に到着し、エレベーターが開く。

「この先、あちらの部屋に弊社の編集者がおります」

 社員の女性が廊下の奥のほうを手で指し示す。

 廊下の左右にいくつか部屋がある。いずれも相談室として使用されているようだった。

 目的の部屋に着くと、社員の女性がコンコンコン、と扉をノックする。

「失礼します」

「……」

 社員の女性が扉の向こうに声をかけるが、返答がない。

「はぁ……」

 社員はため息をついた。

「いらっしゃらない……とか?」

「いや、居るんです。居るんですけど」社員は呆れた顔をした。「浸っているんです」

「ひ、浸っている?」

「はい。いつものことです」

 社員はもう一度、さっきより大きな音を立ててノックをした。

「失礼します。例の持ち込みの方がいらっしゃいましたよ」

 すると、なかから「はーい」と男性の声が聞こえた。

「どうぞお入りください」

 社員に促され、三度ノックをすると「どうぞ」と声が聞こえた。

「失礼します」

 扉を開けてなかに入ると、デスクに座る男が顔を上げる。

 三十代半ばくらいの男性は、にこやかな笑顔で迎え入れてくれる。

「緊張しているかい?」

 ここで見栄を張る必要はないよな、と彼は考えた。

「はい、少し」

 緊張をごまかすように、照れ笑いをした。

 すると突然、沈黙が訪れる。自分は何かしたのだろうか、引きつった顔を気味悪がられたのだろうか。そう思い、不安になる。

「君は……」

 目を見開き、彼の顔をじっと見つめる男の、絞り出すようなその声は震えていた。

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