番外編3

藍玉番外編 雨の歌声 前編

 カエルラ――

 人魚の恋物語が有名な、王都コロナからほど近い港町。

 そのカエルラにヘルメスとリコリスが来たのは二月と少し前。季節は一つ進み、ファーブラ国は冬になっていた。


「パーウォーさん、どうかしたの?」


 今にも泣きだしそうな灰色の空を見上げていたパーウォーに、ヘルメスが遠慮がちに声をかけた。少年の若葉色の瞳には心配の色がにじんでおり、それを見たパーウォーは苦笑いを浮かべる。


「んー……ちょっと、ね。感傷にひたってたって感じ?」

「何か、あったの?」


 パーウォーは再び窓ガラス越しの空へと視線を戻すと、ぽつりとつぶやいた。


「ヘルメスちゃんは、人魚って見たことある?」

「ううん、残念ながら。パーウォーさんは……あ、見たことあるよね! 聞いたことあるもん。海の魔法使いは、人に恋した人魚の恋を成就させたって」

「そう、ね。でもその噂ね、正確には『人魚に恋した石人の恋を成就させた』よ」

「え、石人だったの⁉」


 ヘルメスが上げた素っ頓狂な声に、ソファでうたた寝していたリコリスが身を起こした。


「ごめん、リコリス。うるさかった?」

「大丈夫。ちょうど起きるとこ、だった」


 眠そうな目をこすりながら微笑む真っ白な少女。そんな彼女にいそいそと駆け寄る赤毛の少年。目の前の二人の姿に重なるのは、大好きだった姉と、その伴侶。

 そして思い出す。人魚石アクアマリンの瞳を持った石人の青年と、懐かしい人魚姫を。


「リコリスちゃんも起きたことだし、せっかくだからお茶にしましょうか。そこでお話ししてあげる。昔々、半身を求めてやって来た石人と人魚姫のお話を――」



 ※ ※ ※ ※



 困難を乗り越え大切なものを差し出し、ようやく結ばれた二人。その時はめでたしめでたしだったけれど、人生というのは続いていくものなわけで……


 深い深い海の底。海底都市マルガリートゥムから離れた海藻の森の奥にぽつんと立つ一軒の家。


「ちょっとリリィ、アンタまた飛び出してきたの? いい加減、ワタシの家を避難場所にするのやめてほしいんだけど」


 呆れたパーウォーの視線の先、そこにはばら色の頬を膨らませた美しい人魚姫――リーリウムがいた。


「だって! マーレってば、ぜんっぜんわかってくれないんだもの‼」

「仕方ないでしょう。だって、マーレちゃんなのよ。あの子に察しろっていうのは無理よ、無理。諦めなさい」


 一見普通に会話している二人だが、リーリウムは音が聞こえない。彼女が聞くことができるのはこの世で唯一、半身であるマーレの失われた声だけ。だからパーウォーは、彼女の頭の中に直接言葉を送って会話していた。


「でも、聞こえない私にだってわかるもの! みんな、歌えないマーレのこと馬鹿にしてるって……本当は、誰よりきれいな声で歌えたのに。今だって、海の上なら誰よりも上手に楽器リュートを奏でられるのに!」


 悔しさと罪悪感に涙をにじませるリーリウム。そんな彼女にパーウォーはひとつため息をつくと、笑みを浮かべた。


「マーレちゃんもリリィも、ほんっと仕方ないわねぇ。……じゃあ、こういうのはどうかしら? 歌劇、作っちゃいましょう!」

「かげき?」


 不思議そうに首をかしげるリーリウムに、人差し指を立てたパーウォーが得意げに片目をつむるウインクする


「歌と劇を合わせたものよ。人間の世界の娯楽の一つね」

「でも、マーレは歌えないわ。それに、海の中じゃ楽器だって……」

「歌えないけど、奏でることや曲を作ることはできるでしょう? そ・れ・に、誰が海の中でやるって言ったのかしら?」


 パーウォーの言葉に、リーリウムの表情が見る間に晴れていく。


「やりたい! みんなにマーレは、私の半身はすごいってわかってほしい‼ それに、マーレにもわかってほしい。マーレはすごいんだって……ちゃんと、わかってほしい」


 最後、うつむいてしまったリーリウムの頭を、パーウォーが優しくなでる。


「リリィは本当にマーレが好きなのね。ふふ、ちょっと羨ましくなっちゃう」


 そう言って微笑むパーウォーの顔はわずかな寂しさをにじませていて、リーリウムは思わず聞いてしまった。


「パーウォーには、いないの?」


 一瞬、ほんの一瞬だけパーウォーが固まった。けれど彼はすぐにいつもの陽気な笑顔営業用の笑顔を浮かべると、なんでもないことのように「いたわよぉ」と軽く答えた。


「マーレちゃんから聞いてない? ワタシこんなだけど、これでも昔はいたのよ。大好きだった、大切な女の子」

「……今は、いないの?」

「残念ながら振られちゃったの、ワタシ。彼女はね、恋をして、本物の愛を手に入れて……人間になったの」


 愛おしい過去への郷愁にほんの少しの寂しさを混ぜ、パーウォーが笑った。と、その時――


「パーウォー、いる~?」


 どこか気の抜けたような、緊張感のかけらもないのんびりとした声が飛び込んできた。


「あら、レフィじゃない。突然どうしたのよ?」


 レフィ――マレフィキウム。

 かつての想い人エスコルチアがパーウォーに残した、大切な宝物。今でこそ百花の魔法使いとして世間にその名悪名を轟かせているが、パーウォーの中ではいつまで経っても手のかかる子供。

 そんなマレフィキウムは、人間と人魚の間に生まれた混血児。けれど、彼には人魚としての外見的特徴はほとんど備わっておらず、一見すると人間にしか見えなかった。とはいえ、彼も人魚の血を引くもの。半日程度ならば水中での活動もできるし、見えない場所には鱗もある。


「ん~、なんとなく? なんとなくなんだけど……なーんか面白そうなことが起こりそうな気がしたんだよねぇ」

「相変わらずこういうことだけは鋭いわね、アンタは」


 呆れ顔のパーウォーにゆるい笑顔を返すマレフィキウム。


「あの、パーウォー……」

「ああ、ごめんなさい。リリィは初めてだったわよね。この子はマレフィキウム。私の息子よ」

「息子……って、パーウォーって結婚してたの⁉」


 驚くリーリウムを見て、ようやくその存在に気づいたマレフィキウムが笑いながら言った。


「パーウォーは結婚なんてしてないよ。いまだに僕の母さんのことが忘れられないみたいだからね~」

「ちょっと! 余計なことは言わないの。そんなんだからアンタはいつも女の子に振られるのよ」


 じゃれあう二人の魔法使いにリーリウムが戸惑っていたその時、またもやパーウォーの家の扉をくぐるものが現れた。


『パーウォーさーん、リリィ来てない?』

「マーレ!」

『あ、やっぱりいた! 探したんだよ、リリィ』


 現れたのは左目に藍玉アクアマリンを宿す元石人の人魚、マーレだった。


「いらっしゃい。それにしてもマーレちゃん、相も変わらず振り回されてるみたいねぇ」

『いやぁ、でもこれはこれで楽しいよ。リリィといるとさ、毎日がすっごい面白いんだよ』

「はいはい、ごちそうさま。でもそんなにリリィのことが好きだって言うんなら、ちゃんと捕まえておきなさいよ。しょっちゅう喧嘩したって言って家に飛び込んでくるのよ、この子」

『ごめんね~。なんかわかんないんだけどさ、いっつも怒られちゃうんだ。うーん、なんでだろうね?』


 マーレは人の気持ちに疎い。だから、自分に向けられる悪意にも好意にも鈍感だ。けれど、だからこそどんな状況でも、穏やかなままでいられるのだが。


「なんでだろうね? じゃない! みんながマーレのことバカにしてるの、悔しくないの? 聞こえてるんでしょう、周りの人たちがなんて言ってるのか。聞こえない私にだってわかるもの」

『僕は気にしてないし、気にならないよ。リリィ以外の人にどう思われようと、僕にはどうでもいいし』

「私は気にするの! マーレがみんなにバカにされるのは嫌‼ 悔しいし、悲しい……」


 目の前で始まってしまった痴話げんかに、パーウォーは苦笑いするしかない。マレフィキウムはといえば、マーレたちをただただ楽しそうに眺めるだけ。

 仕方なく間に入ったパーウォーが、二人の頭にそれぞれ軽く手刀チョップを落とす。


「はいはい、喧嘩はそこまで! リリィ、せっかくマーレちゃんも来たんだから、どうせなら計画、進めちゃいましょ」


 パーウォーの言葉に、マーレとマレフィキウムが首をかしげる。そんな二人にパーウォーはにやりと笑うと、得意げに胸をそらした。


「歌劇、やるわよ!」 

『かげき……って、あの歌いながら芝居する、あの歌劇?』


 マーレの問いに、力強くうなずくパーウォー。


『でも、なんで?』

「マーレのことをみんなに知ってもらいたいからに決まってるじゃない!」

『……なんで?』


 再び喧嘩が始まりそうな二人に、パーウォーが仕方なく助け船を出す。


「リリィはね、マーレちゃんがみんなにバカにされるのが嫌なの。ねえ、ちょっと考えてみて? もしリリィが周りからバカにされてたら、そしてそれを笑って受け入れていたら……マーレちゃんは、どう思う?」


 小さな子供を諭すようなパーウォーの言葉に、マーレが考え込む。そしてしばらくしてから一言、「いやだ」とつぶやいた。


『…………すごく、いやだ。考えただけでムカムカするし、悔しいし、リリィはすごいってわからせてやりたい』

「マーレちゃん。あなたはもう少し、自分以外の人の気持ちを考えるってことを覚えないとね。いつまでもこのままじゃ、そのうちリリィに愛想つかされちゃうわよ」

『それだけは絶対やだ! ……わかった。努力、してみる』


 そんなまとまらない一同をパーウォーがなだめすかし、なんとか歌劇の準備は進んでいった。

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