藍玉の章 ~アクアマリン~

 1.嘆きの人魚姫と藍玉の探求者

 むかしむかしあるところに、とても美しいお姫様がいました。

 月の光を紡いだかのような金の髪、深い海を思わせる青の瞳、桜貝の唇から発せられるのは金糸雀カナリアの歌声。とても、とても美しいお姫様でした。


 お姫様の名前はリーリウム。海の底の国マルガリートゥムに住む、瑠璃色るりいろのうろこを持つ人魚のお姫様。


 お姫様は歌うことが大好きでした。

 優しく降り注ぐ月の光の下、岩場に腰かけお姫様は歌います。歌声は潮風にのり、夜の町を柔らかな子守唄で包み込むと、人々を優しい夢へと誘いました。


 そんな美しいお姫様に恋をしたのは、海辺の町に住む人間の若者。海辺の町カエルラの若き領主。

 お姫様に恋い焦がれた若者はある日の夜、岩場で歌っていたお姫様をとうとうさらってしまいました。海辺の別荘の地下室に海から水を引き鉄格子で囲い込むと、お姫様をそこへ閉じ込めてしまったのです。

 それからは毎日、若者は別荘に通い続け、お姫様に愛をいました。けれどお姫様は、「海へ帰して」と嘆くばかりで若者を見てくれません。そこで若者は考えました。ならば海へ帰れなくしてしまえばいい、と…………



 ※ ※ ※ ※



 王都コロナから乗りあい馬車で一日半。大きな港をようする海辺の町、カエルラ。

 白い漆喰しっくいの家々は海辺の町アルブスと同じような造りだが、一つだけ違うところがあった。アルブスの家々の屋根は白一色の平面なのに対し、カエルラの家々は粘土で作った素焼きの瓦が使われていた。海の青、漆喰の白、瓦のだいだい、その三色がカエルラの町の色だった。

 王都に近いこともあり、この港町には多くの人たちが集まってくる。商人、船乗り、獣人や亜人、そして他国からの使者に働き口を求めてやってきた労働者たち……。もちろん中には、よからぬ目的を持った後ろ暗い者たちも。


 そんな雑多でいかがわしく活気にあふれた港に、一人の青年が降り立った。

 夜空に輝く星のような銀の髪に儚げなすみれ色の瞳、そして左目には深く濃い海色の貴石。そう、青年は瞳に貴石を宿す石の妖精、石人いしびとだった。


「さすが王都に一番近い港町は賑やかだなぁ」


 のんびりとした口調で独り言をつぶやき、物珍しげに辺りを見回す青年。

 青年の名はマーレ。成人と同時に半身を求め故郷を旅立った、藍玉アクアマリンの守護石を宿す石人。


「今度こそ会えるかな……僕の、半身」



 ※ ※ ※ ※



「お願い……海へ、海へ帰して」


 ちゃぷちゃぷという水の音とかなでられるのは、聞く者の胸をしめつける悲嘆ひたんの歌。

 潮の匂いが充満する薄暗い部屋の中――いや、そこは部屋というにはあまりにも自然のままで。洞窟としか言いようがないここに人の手が入っていると示すのは、壁に備え付けられた頼りないあかり、そして冷たく光を跳ね返す鉄格子の存在だった。

 その頼りない灯りに照らされ闇の中うっすらと浮かぶのは、金の髪に青い瞳の美しい乙女。


「泣かないで、私の水宝玉すいほうぎょく。どうかその海の瞳に私を映し、さざ波のような優しい声で私の名を呼んでおくれ」


 芝居がかった歯の浮くような台詞を並べ、嘆き悲しむ乙女に微笑みかける青年。彼の名はヘムロック。港町カエルラの若き領主――人魚姫に恋をして、彼女を攫ってしまった海辺の町の若者。


「お願い、海へ帰して。海へ……マルガリートゥムへ、帰りたい」


 白魚のような指の間からこぼれおちるのは、真珠の涙と嘆きの歌。甘く甘く、ほんの少しの毒を含んだ人魚姫の嘆きの歌。けれどそれは、恋に溺れた男には届かない。仄暗い微笑みを顔に貼り付け、ヘムロックは人魚姫――リーリウム――を、どこかぼんやりとした焦点の合わない瞳で見つめていた。



 ※ ※ ※ ※



 マーレは成人するやいなや、なんのためらいもなく極夜国ノクスを飛び出した。その目的はもちろん、己の半身を見つけるため。故郷で半身を見つけられなかったマーレは心のおもむくまま、半身を探すために世界を巡っていた。けれど、世界を巡るにも先立つものは必要なわけで……

 マーレは極夜国を出てから、声と楽器リュート一つで資金を稼ぎながら旅を続けていた。いわゆる吟遊詩人だ。

 幸いマーレは美しい者が多い石人の中でも特に姿が美しい方で、なおかつ美声の持ち主だった。おかげで行く先々で評判となり、これまで旅の資金に困ったことは一度もなかった。


 町の広場、噴水のほとりでマーレが歌う。するとあっという間に人だかりができ、曲が終わった時には割れんばかりの拍手と歓声、そしてたくさんの硬貨がマーレに向かって投げられた。


「ありがとうございます。明日もこのくらいの時間にきますので、どうぞごひいきに」


 マーレがその美しい顔でにっこりと微笑めば、少女から腰の曲がったご婦人までもが黄色い悲鳴を上げる。たった一度の営業ですっかり人気者となったマーレ。彼は本日の稼ぎをかき集めると、優雅に一礼をしてその場を後にした。



 ※ ※ ※ ※



 えらく綺麗な石人の吟遊詩人がいる。


 マーレの噂はあっという間に広がり、領主であるヘムロックの耳にも入ってきた。


「ねえ、ヘムロック。聞いた? 今、下町で噂になっている、石人の吟遊詩人のこと」


 ローテーブルを挟んで、ヘムロックと向かい合わせのソファに腰かける少女。彼女の名はキクータ。カエルラの若き領主ヘムロックの幼馴染で、そして婚約者。

 キクータは緩やかに流れる栗色ブルネットの髪をもてあそびながら、いたずらっぽい榛色ヘーゼルの瞳でヘムロックを見つめる。


「ああ、聞いている。なんでも声だけでなく、姿も美しいと評判らしいな。キクータ、君も興味あるのかい?」

「ええ、とても。ねえ、ヘムロック。その吟遊詩人、ここへ呼ぶことはできないかしら? ここは領主の館ではなく、あくまでもあなたの個人的な別荘でしょう。だったら流れ者の吟遊詩人でも、呼ぶことは出来るのではなくて?」


 無邪気な婚約者のおねだりに考える風を装いながら、その実ヘムロックは頭の中で別の女性の姿を思い描いていた。


 ようやく手に入れた愛しい水宝玉人魚姫。けれど、彼女は来る日も来る日も泣いてばかりで、いまだヘムロックにその名さえ教えてくれない。そしてあれほど歌うことが好きだったはずなのに、今の彼女は嘆きの歌泣き声しか奏でない。

 だから、ヘムロックは試してみることにした。彼女がこよなく愛する歌を贈れば、もしかしたら彼女は笑ってくれるかもしれない。もう一度、自分をとりこにした優しい歌を歌ってくれるかもしれない。

 そう思うといてもたってもいられなくなり、ヘムロックはソファから立ち上がった。


「それが婚約者殿のお望みとあらば」


 まるで恋人のかわいいわがままを叶えるかのように、ヘムロックはおどけた仕草でお辞儀をしてみせる。そして頭の中では美しい人魚姫の微笑みを思い描きながら、目の前の婚約者に微笑みかけた。



 ※ ※ ※ ※



「しつっこいなー」


 リュートを背負い、息をきらせながら路地裏を全力で走るマーレ。その後方からは、ガラの悪い男たちが怒声をあげながら迫っていた。

 カエルラに着いてから連日のように広場で荒稼ぎをしていたマーレだったが、当然それをよく思わない者たちもいた。アワリティア一家と名乗った彼らは、その日の稼ぎにほくほくとしていたマーレの前に突然現れると、法外な場所代とやらを請求してきたのだ。

 彼らの言う額を支払えば、せっかく貯めた旅費がすっからかんになってしまう。それにそもそも噴水広場は町の公共の場で、吟遊詩人や大道芸人の芸を披露することが許されている場所だ。もちろんマーレはそのことを言ったが、男たちはこれが下町の決まりだとまったく聞く耳を持たなかった。


 だから逃げた。


 おかげで今、マーレはそいつらに追われている。

 今までもこういった危機は多々あった。けれど、その儚い見た目にそぐわない強靭きょうじんな脚力と運の強さで、マーレはそれらすべてから逃げきってきた。だから今回もなんとかなる。そう、自分の強運を信じてマーレは走っていた。


「こっちよ、こっち」


 曲がり角から、筋肉質な男の腕が手招きしていた。マーレは自分の直感を信じ、迷うことなく角に飛び込む。すると次の瞬間、その腕はマーレの手首を掴むとものすごい力で引き寄せた。


「ねえ、助けてほしい?」


 マーレの目の前に、どぎつい化粧にいろどられた男の顔が迫る。

 豊かに波打つ金の髪、逞しい体を包むのは深紅の肩紐で吊られたスリップ下着風の服ドレス。バサバサとしたつけまつげに囲まれた瞳は深い青で、マーレの守護石と同じ海の色だった。

 すぐ後ろに迫ってきた追手の足音に、マーレはなんのためらいもなく即決する。


「うん。助けて」

「代償もらうけど、かまわない?」

「いいよ。僕、勘と運はいいんだ。その僕の勘が、あなたは信じて大丈夫って言ってる」


 まるで根拠のないマーレの言葉に男は一瞬ぽかんとしたが、すぐに笑みを深めるとマーレに名前を問うた。


「マーレ。マーレ・サンタマリア」


 すかさず名乗ったマーレに、男は満面の笑みを浮かべる。


「いい子ね。じゃ、いくわよ。……海の魔法使いパーウォーの名にかけ、マーレ・サンタマリアをこの場から助けることを誓う。泡沫うたかたの世界に祝福を」


 瞬間、マーレの周囲の景色が一変した。

 石畳は目が覚めるような桃色ショッキングピンクの絨毯に、白い壁の家々はこれまた桃色の壁紙に。


「ようこそ、海の魔法使いの館へ。歓迎するわ、マーレちゃん」

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