15.決意

 ほんの一瞬、それはまさに瞬く間の出来事だった。

 呪文を口にしたクルーデーリスはそれを唱え終わることなく、割れた水晶の中から現れた大きな火蜥蜴ザラマンデルに丸飲みされてしまった。

 ヘルメスたちが痛みに目を閉じていた、そのほんの少しの間に。


 そして嵐の中残ったのは、何が起こったのか理解できず呆然とするリコリス、クルーデーリスから解放されて咳き込むヘルメス、籠手ガントレットをはめたクルーデーリスの右手首だけだった。


「リコリス!」


 かすれた声でリコリスの名を呼び、ふらふらと駆け寄るヘルメス。その姿を見て安心したリコリスはふっと笑うと、そのまま気を失って倒れてしまった。

 リコリスが意識を失った途端、荒ぶっていた精霊たちも我に返る。嵐は嘘のように消え去り、やっと話が通じるようになった精霊たちをそれぞれの装身具の中に戻すと、ヘルメスは倒れているリコリスを抱き起こした。


 服もマントも泥だらけ、手足や顔にはいくつもの細かい傷。ヘルメスを助けようと、敵うはずもない相手に何度も挑んでくれた。ヘルメスはそんなリコリスがとても愛おしく、こみ上げてくる想いのまま強く抱きしめてしまった。


「い……たい、ヘルメス、痛い」

「リコリス! よかった、目が覚めたんだね。で、どこ? どこが痛いの?」

「ヘルメスの腕……が、痛い」

「わっ、ごめん」


 ヘルメスは腕の力を緩めると、慌ててリコリスを膝から下ろした。そして向かいに座らせると、乱れてしまった彼女の白い髪を手櫛で軽く整える。


「大丈夫。自分でできる、から」

「いいの。僕がやってあげたいだけだから。……あ、もしかして嫌だった?」


 ヘルメスの問いに、頬を染めて首を振るリコリス。それを見たヘルメスは、「よかったー」と屈託なく笑う。そんな穏やかな空気の中、リコリスの視線がある一点で止まった。

 彼女の視線の先には、クルーデーリスの右手首が転がっていた。


「馬鹿だよね、アイツ。調子に乗り過ぎたんだ」

「ヘルメス、教えて。何が、起きたの?」


 ヘルメスはリコリスの手を取り立たせると、クルーデーリスの手首の前に立った。しゃがみ込むと慎重に籠手を取り外し、どんなものなのかざっと調べる。一通り調べ終わるとそこから割れた水晶をそっと取り出し、リコリスへと差し出した。

 真っ二つに割れ黒くすすけた水晶を受け取り、リコリスはぽつりとつぶやく。


「おとう、さん」


 初めて会った父はリコリスの想像とは違い、ずいぶんと小さな姿だった。リコリスは何も言わず、手の中の割れて煤けてしまった父の瞳をじっと見つめる。

 母の話でしか知らない父。見たこともなければ、話したこともない。自分と母を捨てた薄情な人だと、リコリスはずっと思っていた。けれど、本当は違った。命をかけて母とリコリスを助けようとした、勇敢で家族思いの優しい人だった。


「ごめんなさい。ごめんな、さい……」


 水晶を両手で握りしめ、祈るような姿で涙を流すリコリス。そんなリコリスにヘルメスはゆっくりと首を振り、「違うよ」と言った。


「リコリス、そこは『ありがとう』だよ」


 ヘルメスは呆然と見上げてくるリコリスの両手を自分の手でそっと包み込むと、彼女と同じ高さに目線を合わせて言葉を続ける。


「僕たちを助けてくれたのは、たぶんリコリスのお父さんだから」


 リコリスはヘルメスの言っている意味が理解できず、「おとうさん?」とオウム返しする。


「この迷いの森はね、他の場所に比べて魔素エーテルが濃いんだ」

「えーてる?」

「ああ、魔素っていうのはね、魔術や精霊術を使うのに必要な燃料みたいなものだよ。空の上の方にたくさんあって、それが降ってくるのか、この地上にも漂ってるんだ。で、僕たちは自分の中にある魔力と大気中の魔素を使って術を使うんだけど、これが魔力だけとか魔素だけだと術は発動しない」


 ヘルメスの話がいまいち理解できないのか、リコリスは眉間にしわをよせた。それを見て思わず吹き出したヘルメスに、リコリスは頬を膨らませて抗議する。


「ヘルメス、笑うなんて、ひどい! わたし、ちゃんとわかってる」

「ごめんごめん。うん、じゃあ話を続けるね。クルーデーリスの使ってたこの籠手は魔導武具ってやつで、魔術によって特殊な効果や強化を付与しているんだ。これだとその水晶、リコリスのお父さんの目が魔術の核になってたんだ」


 ヘルメスは籠手の石が嵌っていた部分を指し示す。今は空っぽのそこは、リコリスの持つ水晶と同じく、いや、それどころではなく真っ黒に焼け焦げていた。


「リコリスのお父さんの目は精霊ザラマンデルを閉じ込める檻、そして魔素吸引兼魔力貯蔵槽として使われてたんだ。呪文を唱えるとそれを鍵として、ザラマンデルを使った強化と付加の魔術が発動する。この籠手は、たぶんそういう魔導武具なんだ」


 手首のそばに捨て置かれたぼろぼろの籠手、それを見下ろすヘルメスの顔はやるせなさに苛まれていた。


「死者の魂も精霊も、アワリティアにとってはただの便利な道具だったんだろうね。どこまでも傲慢で、だからアイツには最期まで理解できなかったんだ。なんで自分が死ぬことになったのか」

「ヘルメス、あの人……どうなった、の?」

「解き放たれた精霊に食い殺されたよ。道具扱いして見下してた相手に、一瞬で。あの時ね、リコリスのお父さんの目が、急にものすごい量の魔素を取り込んだんだ。おそらく、取り込める容量以上の量を」


 リコリスはヘルメスが何を言いたいのかわからず、小さく首をかしげた。


「リコリスのお父さんは檻である自分を壊して、怒り狂う精霊を解放したんだ。ここはアルブスと違ってとても魔素が濃いから、それが可能だった。たぶんね、たぶんだけど……リコリスのお父さんは、リコリスを助けたかったんじゃないかな」

「わたし……を? どうして? だってわたし、会ったこともない、のに」

「だって、生まれる前のリコリスとお母さんを、命がけで救おうとした人だったんでしょ? だからさ、目の前でリコリスが傷つけられたのが許せなかったんだよ」


 リコリスは水晶を包む自分とヘルメスの手をじっと見つめた。そして震える声で、手の中の水晶に「ありがとう」と囁いた。ヘルメスはリコリスの手を握る力を強め、彼女の小さな額にそっと額を寄せる。


「人間も亜人も石人も、みんな同じ人なのにね。アイツらにはそんな簡単なことがわからないんだ。僕には石人も人間も亜人も魔法使いも、違いなんてわからないよ。みんな、この世界で生きてる仲間なのに」

「みんなが……ヘルメスみたいだったら、いいのに、ね」


 二人はしばらくそのまま何も言わず、ただお互いの温もりを分け合うように寄り添っていた。静かで穏やかな、二人だけの優しい時間。けれど、それはリコリスの凛とした声で終わりを告げた。


「わたし、極夜国へ行きたい。お父さんを、故郷へ帰してあげたい」


 そこには明確な意志があった。今まではどこか流されるがまま、ヘルメスについていくだけだったリコリス。けれど彼女は今、初めて自らの意思を表明した。


「うん。一緒に行こう、極夜国へ。改めてよろしくね、リコリス」

「うん、ありがとう。ヘルメスのお父さんも、極夜国へ連れて行ってあげよう、ね。よろしく、お願いします」


 改まって挨拶をかわしたことに急に気恥ずかしくなり、そしてなんだかおかしくなってきて。二人は額を突き合わせたまま笑いだした。ひとしきり笑い合った後、ヘルメスは自分の着ていた外套を丁寧に叩いてからリコリスに差し出す。


「せっかく似合ってたのに……服、ぼろぼろになっちゃったね」

「うん、ちょっと残念。でも、ヘルメス無事で、よかった」

「ありがとう。リコリスが助けてくれたからだよ」


 ヘルメスは微笑むと一瞬だけ森の方を見て、リコリスに手を差し出した。リコリスはうなずき、その手を取る。


「魔術無効化装置の範囲は狭いから、僕の手、絶対に離さないでね」


 リコリスは繋いだヘルメスの手を握り返し、承諾しょうだくの意を伝えた。

 二人の眼前に広がるのは霧に包まれた深い森。鳥のさえずりも獣の声も聞こえない、沈黙と霧に閉ざされた世界。

 二人は繋いだ手に力を込めると、意を決して森へと足を踏み入れた。



 ※ ※ ※ ※



 鬱蒼うっそうと茂る背の高い木々は陽光を遮り、視界を阻む白い霧は人の侵入を拒む。薄暗い森の中には命の気配が感じられず、不気味な静寂が辺りを支配していた。

 魔術無効化装置のおかげで今のところ森から排除される様子は感じられないが、ここは深い森の中。いつ何が出てくるかわからない。ヘルメスはリコリスの手を固く握りしめ、トートの母が残した目印を辿る。

 パーウォーが気を利かせてくれたようで、ヘルメスたちが飛ばされた場所からすぐのところに目印があった。おかげで今のところ、二人の道程は順調そのもの。ヘルメスは心の中で、どこまでも世話焼きでお人好しな魔法使いに感謝した。


 次第に、風景が見慣れないものへと変化してゆく。

 これでもかと枝を伸ばし陽光を遮っていた木々に代わり、周りを埋め尽くし始めたのはしゃらしゃらと涼やかな音を奏でる硝子の木々。そして頭上には太陽の代わりに、霧に滲む月が浮かんでいた。

 硝子の森の中、ヘルメスは霧の中見え隠れする目印を見失わないよう必死だった。なにしろ目印はとても頼りなく、右目に意識を集中し続けなければ見えないほど儚くなっていたから。

 だから、ヘルメスは気づけなかった。その道の先に、複数の気配があったことに。


 唐突に目の前の霧が晴れ、ヘルメスの視界が一気に開けた。

 その目に飛び込んできたのは、喉元に短刀を押し付けられた黒髪の石人の少女、少女を捕らえている黒衣の覆面男、少女に向かって手を伸ばす黒髪の石人の青年。そしてアワリティアの馬鹿兄弟、ドローススとストゥルトゥスだった。


「嘘だろ⁉ まさか森の中にまでいるなんて!」


 思わず叫んでしまったヘルメスに、その場にいた全員の視線が一斉に集まった。

 後悔先に立たず、ヘルメスは小さく舌打ちする。そしてとにかくリコリスだけは守らなければと、ザラマンデルを呼び出すために胸元のペンダントに手をかけた。それを見たドローススは「動くな」と怒鳴ったが、時すでに遅く。ヘルメスはペンダントを掲げると同時に叫んだ。


「来てくれ、ザラマンデル!」


 ヘルメスの呼び声に応えたザラマンデルがペンダントから飛び出した。ザラマンデルは黒い体に燃え盛る炎をたぎらせ、黒衣の覆面男めがけて飛びかかる。すると覆面男は抱えていた石人の少女をザラマンデルの方へと突き飛ばし、自分は後方へと跳んだ。


「シルフ、ザラマンデルの方向転換、手伝って!」


 ヘルメスはザラマンデルのすぐ後に呼び出しておいたシルフに呼びかけた。シルフはすでに飛び出していて、「わかってるって」とザラマンデルを上へと吹き上げた。

 直後、石人の青年が突き飛ばされた少女を抱きとめ、ヘルメスはほっと息をつく。後ろでリコリスも同様に息をついていて、こんな状況なのにヘルメスは少し笑ってしまった。


 シルフの助力を得たザラマンデルは生き生きと男たちを追いかけまわし、彼らの髪の毛や服を変な風に焦がしては笑い転げていた。精霊たちが遊んでいる間、ヘルメスは見失ってしまった目印を必死に探す。せっかく生じた機会、ヘルメスはこの混乱に乗じてこの場から逃げ出すつもりだった。


「見つけた!」


 ぼんやりと光る目印を見つけ、ヘルメスはリコリスの手を引き一気に駆け出す。そして精霊たちを再度呼び戻すため振り返ったその時、先ほどの石人の青年が馬鹿兄弟たちの方に向き直るのが見えた。


「消え去れ‼」


 強い魔力を帯びた言霊が一帯に響き渡る。と同時に、精霊たちの姿が消えてしまった。正確にはヘルメスからの魔力供給の線が断たれ、姿を保っていられなくなったのだ。

 驚きに思わず足を止め、ヘルメスは石人の青年を凝視した。あちこち焦げた馬鹿兄弟も、呆然と石人の青年を見ている。

 右腕で黒髪の少女を守るように抱き寄せた青年は一同を冷たく見渡すと、明らかな嫌悪をその精悍な顔に滲ませて言った。


「どうやって人間がこの森に入り込んできたのかは、だいたい察しがついている。おそらくだが、まがい物の石に魔力を注ぎ込んで、人工的に消去の力を付加した模造守護石イミテーションでも作り出したのだろう」


 青年は左手を突き出すと、にやりと笑った。


「そんな紛い物で極夜国へ入ろうなど、笑止しょうし沙汰さた。……砕け散れ、偽物め!!」

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