11.海の魔法使い

 頼りない三日月の照らす夜の荒野を、ヘルメスはメギストス三号の照明を灯さず走っていた。

 普通の人間ならば夜の荒野を無灯で走るなど恐ろしいばかりだが、守護石のおかげで夜目の利くヘルメスはためらいなく速度を上げる。


「グノーム、追手との距離は?」

「……おかしいのう。これだけ速度を出しとるというのに、引き離すどころかさっきより縮んどる」

「なんでだろう? なんか、僕たちの位置を特定できるものでもあるのか?」


 ヘルメスとグノームが首をかしげたその時、リコリスが苦悶くもんの声をもらした。


「リコリス⁉」

「い……たい、右目、熱い。苦しい、誰かの心、流れ込んで……くる」


 ヘルメスも先ほどから右目にチリチリとした痛みを覚えていた。しかし、リコリスの方はチリチリなどという生易しい痛みではないらしく、握りしめられた彼女の拳は血の気が引き真っ白になっていて、額には脂汗も浮かんでいた。けれど、今ここで止まるわけにもいかず、ヘルメスはもどかしさに奥歯を噛む。

 

『助かりたかったら、ワタシの指示に従いなさい』

 

 突如頭の中に響いてきた野太い声。リコリスではなく、もちろん精霊たちでもないその声。けれど、ヘルメスにはその声に聞き覚えがあった。


「オカ……パーウォー、さん⁉」

『ちょっと! 今、オカマって言おうとしたでしょ‼ 言っとくけどワタシは、ちょっとだけ、ほんのちょ~っとだけ、他の男よりもかわいいものが好きなだけの、ごく普通の男子なんだからね。ヘルメスちゃんと同じ、女の子にときめいちゃう、一般的な男子なんだから!』

「だから、ちゃんってつけるな! それとパーウォーさんの性的嗜好とか、心底どうでもいい」

『アンタ、ほんっと失礼ね。まあ、いいわ。いいからとにかく、助かりたかったらワタシの指示に従いなさい』


 有無を言わせぬパーウォーに、ヘルメスは不承不承口をつぐんだ。けれど、ほぼ見ず知らずのパーウォーの言葉を、そう簡単に信じてしまうべきか一瞬で判断できるはずもなく。

 黙り込んでしまったヘルメスに、パーウォーは軽くためいきをもらした。


『そう簡単に信用なんて……できるわけないわよね。あー、ハイハイ、わかりました。じゃあ、ひとまずこれでどうかしら? 海の魔法使いパーウォーの名にかけ、ヘルメスとリコリスを助けることを誓う。泡沫うたかたの世界に祝福を』

「はぁ⁉」


 パーウォーの言葉に、ヘルメスは思わず叫んでしまった。パーウォーが口にした――海の魔法使い――の称号。


 それは歩く災厄、百花の魔法使いと同様……いや、それ以上に名の知られた魔法使いの一人。

 いわく、人に恋した人魚の恋を成就させた。曰く、絶対防御の海獣レヴィアタンと一騎打ちして勝ち、使い魔としてこき使っている。曰く、百花の魔法使いの育ての親で、その迷惑千万な魔法使いを世に解き放った。

 そんな嘘みたいな伝説の存在、それが海の魔法使い。


「アンタ、それ本気で言ってんの? 偽物だったとしたら、さっきの名乗りと誓いの言葉――」

『ちょっと、なんで偽物前提なのよ! 失礼しちゃうわね。魔法使いの誓いの言葉は、くつがえせない契約よ。他人の名前なんか使えるわけないでしょ。そんなことしたら、その魔法使いからどんな報復が来るやら……想像もしたくないわ』


 魔法使いが契約を結ぶ時、最後に口にする文言。今回の場合は――泡沫の世界に祝福を――。この誓いの言葉を口にしたが最後、その契約は破棄することができなくなる。普通ならば依頼者から代償を受け取った後、魔法使いが自らの名に懸け宣誓すると契約が結ばれるのだが。


「……本当に、本当に本物の海の魔法使い? 人間が偽物で名乗ってるんじゃなくて?」

『疑り深いわねぇ。いい? もしも人間が魔法使いをかたったりなんかしたら、その瞬間、とーっておきのお仕置きがいくわよ。もちろん、魔法使いが他の魔法使いを騙っても同じ』


 ヘルメスは少し逡巡しゅんじゅんした後、「わかった」とうなずいた。

 この状況を打開する策がないというのもあったが、なによりもリコリスの体調が心配だった。今はなんとかヘルメスにしがみついているが、このまま逃げ続けることはもはや不可能。ヘルメスは腹を決め、パーウォーに賭けることにした。


「わかった。アンタを信じる」

『りょーかい。じゃ、案内するから、ワタシの言うとおりに進んでね』


 パーウォーの案内で、真っ暗な荒野をひたすら走る。けれどヘルメスとリコリスの右目の痛みは治まるどころかひどくなる一方で、それはクルーデーリスが近づいてきているという何よりの証拠だった。


「パーウォーさん、全然引き離せてないんだけど!」

『いいからそのまま、全速前進!』


 パーウォーの言葉に従い加速装置アクセルを回そうとしたヘルメスだったが――目の前に現れた光景に、大慌てで制動装置ブレーキの方を力一杯握った。

 盛大な砂煙を巻き上げながらメギストス三号は断崖絶壁の手前、拳一つ分残してギリギリ停止した。


「あっぶな……って、パーウォーさん! 危うく死ぬとこだったじゃないか‼」

『つべこべ言ってないでさっさと進みなさい。言ったでしょ、全速前進だって』

「ふざけんな! 目の前、崖じゃんか。なんだよ、逃げるって死んで逃げろってことかよ‼」

『馬鹿言わないでちょうだい。このワタシがそんな契約結ぶわけないでしょ。いいから跳びなさい! ほらっ!』

「いや、でも……」


 崖に向かって跳べと言うパーウォー、ためらうヘルメス。仮にもあの有名な海の魔法使いが、何の算段もなしにそんなことを言うとはヘルメスとて思ってはいない。けれど、何の説明もなしにいきなり崖に向かって跳べと言われても、「はいわかりました」と素直に従えるほどヘルメスは能天気でもない。

 どうしようかと、崖と背後の荒野を交互に見るヘルメス。その時、遠くで灯りがちらつくのが見えた。次いで徐々に近付いてくる馬の足音と車の排気音。

 後ろを見れば青い顔でぐったりとしたリコリス、さらにその後ろにはクルーデーリス率いる追手部隊。ヘルメスは今度こそ覚悟を決めると、少しだけ引き返し、崖のきわから距離を取った。


「あー、もう! 信じてるからな、海の魔法使い‼」


 叫ぶと、ヘルメスは加速装置を回した。今まで地面だった場所は一瞬で空へと姿を変え――そしてクルーデーリスたちが追いついたまさにその瞬間、ヘルメスたちは夜の闇の中に溶けて消えた。


「死んだら化けて出てやるからなーーー!」

『はいはい』


 直後、ヘルメスたちを包んだのは柔らかな浮遊感。そして、ヘルメスの目の前の景色は一変した。真っ黒な夜の空と海だったものは、一瞬で濃い桃色の霧におおわれた荒野のような場所に変わっていた。

 ヘルメスはこの不可解な状況はひとまず置いておくことにし、後ろのリコリスを確認する。


「リコリス、大丈夫?」


 ヘルメスの呼びかけに、リコリスが小さくうなずいた。ようやく痛みから解放されたリコリスは、ヘルメスの背中に額を預けたまま大きく息を吐きだす。

 リコリスの無事を確認すると、ヘルメスは改めてあたりを見回した。前後左右、どこを見ても霧、霧、霧。桃色一色の世界。そして所々、木のように生えているのは、どう見ても珊瑚さんごだった。ここはまるで、水だけがない海の底のよう。


「パーウォーさーん。聞こえてたら返事してー」


 ヘルメスはメギストス三号に跨ったまま、大きな声でパーウォーを呼んだ。ここへ連れてきたのはパーウォーなのだから、このヘルメスたちの状況も当然把握しているはずだと。


「聞こえてるわよー」


 霧の向こうから野太い返事が返ってきた瞬間、ざぁっと桃色の霧が晴れて一筋の道ができた。現れたのは、珊瑚色のドレスをまとったパーウォー。そしてその背後には、ボロボロの大きな朽ちかけの船。

 リコリスを降ろすと原動機からザラマンデルを呼び戻し、ヘルメスは愛車をひいてパーウォーのもとへと向かった。


「いらっしゃーい。待ってたわよぉ、ヘルメスちゃん」

「ちゃんづけすんな!」


 さあ飛び込んで来いとばかりに両手を広げたパーウォーに、ヘルメスはムッとした顔でつっこんだ。


「やだぁ、ヘルメスちゃんてば、つ・め・た・い。パーウォー、傷ついちゃう」


 しなを作り、よよよとわざとらしい嘘泣きをするパーウォー。それを見たリコリスは真に受け、オロオロと心配そうな顔でパーウォーとヘルメスを交互に見た。


「リコリス、心配する必要ないから。やめろおっさん、気持ち悪い。だいたいおっさんがそんな仕草しても、むかつくだけだぞ」


 リコリスに優しい笑顔を向けたそのすぐ後に、一転して半眼で呆れの視線をパーウォーに投げるヘルメス。そんなヘルメスの隠す気もないあからさまな待遇の差に、パーウォーは「ヘルメスちゃんのイジワル!」と頬を膨らませた。


「だから、おっさんがそれやってもかわいくないから。ほんと、気持ち悪いだけだから」

「…………アンタ、ほんっと口悪いわね」


 パーウォーは恨みがましい目でじとっとヘルメスを一瞥いちべつした直後、「ま、いいわ」といつもの笑顔に戻った。


「とりあえず、お茶でも飲みながらお喋りしましょっか」


 ヘルメスは砂埃まみれになってくすんでしまった愛車を船のすぐ横に停めると、リコリスと並んでパーウォーの後に続いた。

 船底の亀裂から入った船の中もやはりボロボロで、どう見てもそれは沈没船だった。


「パーウォーさん、こんなところに何が?」


 怪訝そうに眉をひそめるヘルメスに、パーウォーはふふんと得意気な笑みを返す。


「ここは玄関のひとつ。本当のワタシの家はこっち」


 ぱちんと、パーウォーが指を鳴らす。するとヘルメスたちの目の前、朽ちて抜けてしまった廊下に、淡い光を放つ魔法陣が浮かび上がった。パーウォーが魔法陣の中に入り手招くので、ヘルメスとリコリスも恐る恐る足を踏み入れる。


「二名様、ごあんな~い」


 二人が魔法陣に入ったのを確認すると、パーウォーは指を鳴らした。すると次の瞬間、三人はまったく別の部屋の中に立っていた。驚き固まる二人に、パーウォーが得意げに胸を反らす。


「どう? ワタシのすごさ、少しはわかったかしら」


 鼻歌でも歌いだしそうなほどご機嫌なパーウォーに、ヘルメスはぽかんとした顔でうなずいた。


「うん。本当にすごいよ…………この部屋の、趣味」

「うん、すごい!」


 桃色に白い縦線ピンクストライプの壁、桃色のたっぷりとしたカーテン、白と桃色の猫足家具、そして天蓋付きの白い大きなベッドと、天井から吊り下げられたキラキラと光るシャンデリア……

 部屋の中は桃色と白とキラキラひらひらであふれかえっており、ヘルメスは目がちかちかしてきて思わず目元を指で押さえた。リコリスの方は頬を紅潮させ、目を輝かせて見惚れている。


「まったく、これだから乙女心を解さない男は。ねぇ、リコリスちゃん」


 契約の時もそうだったが、名乗っていないのに名前で呼びかけられ、リコリスは警戒するようにヘルメスの背に隠れた。


「リコリス、大丈夫だよ。ちょっと見た目とか趣味はアレだけど、悪い人じゃなさそうだから」

「ヘルメスちゃん、アンタ本当に一言多いわね。ま、いいわ。じゃ、改めて自己紹介するわね。ワタシは海の魔法使いパーウォー。ヘルメスちゃんとは昨日知り合った仲よ。ちなみにリコリスちゃんの着てるそれ、選んだのワタシ」


 リコリスの服を指さし茶目っ気たっぷりにウインクしたパーウォーにリコリスは目を見開く。そして頬を紅潮させると、「ありがとう」と恥ずかしそうに口にした。


「ふふ、どういたしまして。さ、二人とも座って座って。今、お茶持ってこさせるから」


 二人を猫足のソファに座らせると、パーウォーは指を鳴らした。すると白い扉を開けて出てきたのは――


「ぬいぐるみ!?」

「くま!」


 ティーセットを乗せた銀の盆を持った茶色のクマのぬいぐるみと、焼き菓子が入ったかごを持った白いクマのぬいぐるみ。さすがにお茶を淹れるのは無理なのか、二匹はテーブルにそれらを置くとお辞儀をして帰っていった。

 リコリスは二匹が出て行った後、肩掛け鞄からそわそわとレプスを取り出す。しかしいつもと変りないレプスに少しだけ肩を落とした。そしてその一部始終を隣で見ていたヘルメスは、顔を背け笑いをこらえていた。

 その間にテーブルにはお菓子の入ったかごとお茶が並べられ、パーウォーもようやく向かい側のソファに腰を落ち着けた。


「さて……じゃ、本題に入りましょうか」


 にっこり笑うと、パーウォーはヘルメスをまっすぐ見つめた。

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