19.私を忘れないで

 自分の手さえ見ること叶わぬ闇の中、ミオソティスは一人揺蕩たゆたっていた。

 いな、実のところは、目を開けているのか閉じているのかもわからなかった。何しろ視界は黒一色。何も見えず、何も聞こえず。指一本動かすことのできない現状は、もはや体が存在しているのかどうかさえわからなかった。


 なぜ自分はこんなところにいるのだろう? ミオソティスは考えたが、その思考さえすぐにもやがかかる。眠い、眠い、眠い。泥のような眠気がべっとりとミオソティスにまとわりつく。こんなところにいてはいけない。そう思うのに、ミオソティスの手足は少しも動きやしない。

 眠い、行かなきゃ、ここは大丈夫、行かなきゃ、ここで眠りたい――

 思考は千々ちぢに乱れ、どこかへ行かなくてはという焦燥感と、ここにいれば大丈夫という安堵感がゆらゆらとせめぎ合う。


「やらなきゃいけないことが……あったような……気が、す……る…………」


 とても大切なことを忘れているような気がして、ミオソティスは無性に悲しくなってきた。やっと自覚したのに、もう伝えられない。


「何を? 私、誰に、何を伝えたかったんだろう?」


 考える。けれど、考えようとすればするほど眠気は強くなり、ミオソティスの思考はほろりほろりとほどけてゆく。


「何だったのかなぁ…………眠くて……何も、わから……ない」


 ゆらゆら、ゆらゆら、揺蕩う。温かな闇の中、ゆらゆらと。



 ※ ※ ※ ※



 オルロフがミオソティスに口づけをした瞬間、青い花がまばゆく光り輝き始めた。そのあまりの眩しさに、部屋の中にいた者は光が収まるまでまぶたを閉ざすことを余儀なくされた。

 そして光が収まった今、皆の目に飛び込んできたのは、ミオソティスのかたわらに倒れ込むオルロフの姿だった。


「カーバンクル! これは一体どういうことなの⁉」


 アルビジアはカーバンクルの喉元を両手で掴み、激情のおもむくままに激しく上下へ揺さぶりながら詰問した。


「ちょっ、やめ、ぐぇ……説明、しますよぅ、だから――」

「当たり前よ! 二人にもしものことがあったらアンタ、生きたまま縛りあげて蛇の巣に放り込むわよ」

「ひぃっ‼ やめて、ほんとやめてくださいよぅ。あの兄さんには、ちょいとお嬢さんを迎えに行ってもらっただけですよぅ。ちゃんと目覚めますって。………………多分」

「多分?」

「いえ、絶対です! それと逃げないですから、ちょっと力を緩めてくださいよぅ」


 泣きながら懇願こんがんするカーバンクルを容赦なく締め落としてから放り投げると、アルビジアはベッドに駆け寄りひざをついた。


「ティス、あなたが目を覚ますの、みんな待ってるよ。だからお願い……帰ってきて」


 冷たいミオソティスの手に触れ、アルビジアは泣かないように必死で笑顔を作りながらささやいた。そしてそのまま首だけを動かすと、すぐ隣で寝台に突っ伏すようにして意識を失っているオルロフを見る。


「ヘタレ王子、どうかティスをお願いします。そして必ず、必ず二人で無事に帰ってきて」



 ※ ※ ※ ※



 温かな闇の揺り籠の中、ミオソティスはうとうとと微睡まどろんでいた。

 なぜここにいるのか、何をしなくてはならなかったのか、そして自分の名前は何といったか。そんなこと全部、もう今はどうでもよかった。ただ、このぬるま湯のような心地よさの中で、ずっと眠っていたかった。


「…………ス」


 声が――。誰かの声が、ミオソティスを眠りの沼底からすくい上げようとしている。

 心地よい眠りを邪魔する声。わずらわしいはずのそれが、ミオソティスにはなぜだかとても心地よいものに感じられて。


「……ろ。……ソ……」


 心地よい微睡まどろみ、ゆらゆら。心地よい声、うとうと。ミオソティスは、今、とても幸せな気分だった。


「ミオソティス!」


 誰かを強く呼ぶ声。それを聞いていると心臓がぎゅっと掴まれるような、なんとも言い難い感覚がミオソティスを襲う。だからそんな気持ちを呼び起こす声の主を見てみたくて、ミオソティスは重くてたまらないまぶたを必死に持ち上げた。


「やっと起きたか、この寝坊助が」


 誰もいなかったはずの暗闇。そこに今、青の淡い光をまとった青年がいた。彼は心底ほっとしたというような顔でミオソティスを見下ろす。

 ミオソティスの頬に添えられたごつごつとした大きな手、硬そうな黒い髪、意志の強そうなまっすぐな眉。そして普段はきつめの黒い双眸そうぼうが、今は優し気に細められていた。

 知っているはずなのに、とても大切なはずなのに。霧に覆われたミオソティスの頭は、目の前の青年を思い出すことができない。


「……だれ?」


 ミオソティスは小首をかしげ、青年に問う。すると青年は悲しそうに顔を歪め、一瞬だけ泣きそうな顔をした。そんな青年の姿に、ミオソティスの胸も痛む。痛くて、苦しくて、切なくなる。


「ごめんなさい。何も、思い出せないの。ねえ、あなたは……だれ?」


 ミオソティスがもう一度問うと、青年は手に持っていた薄青の花を無言で差し出してきた。

 一つ一つはミオソティスの爪よりも小さなその花は、けれど何かを、強くミオソティスの心に訴えかけてきた。それが知りたくて、ミオソティスは身を寄せ合う小さな花をじっと見つめる。


「俺は花には詳しくないが、この花だけは知っている。あれから、調べたんだ」


 ミオソティスも知っているような気がした。思い出せないけれど、とても大切な花だった気がする。


「思い出せ。これは、お前の花だ。そしてお前に捧げる、俺の心」



 ――物好きだな。で、一体どんな大層な花が見たいんだ?


 ――私が見たいのはね……



「……勿忘草わすれなぐさ。私が見たかった花。私の、名前ミオソティス



 そして黒一色だった世界は、瞬く間に勿忘草色に塗り変えられた。



 ※ ※ ※ ※



 ミオソティスが目を開けるとそこには、今にも泣きそうな顔の妹と、すでに泣いている母と、必死に涙をこらえる父がいた。三人は目覚めたミオソティスに「おはよう」ではなく、「おかえり」と言いながら順に抱きしめる。ミオソティスはなんだか少しこそばゆかったが、笑いながらそれに応えた。


「おはよう。……ところで、なんでみんな私の部屋に集まってるの?」


 ミオソティスは寝たままの状態で不思議そうに首をかしげる。するとそこへ突然、「よかったですよぅ」という声が割って入ってきた。


「お嬢さんが無事目覚めてくれて、本当によかったですよぅ。危うく私、蛇の餌にされるところでしたよぅ」


 そう言いながらベッドによじ登ってきたのはカーバンクル。彼はミオソティスの顔のそばに腰を下ろすと、「初めましてぇ」と、どこか間の抜けた挨拶をした。


「どーもぉ、百花の魔法使いの使い魔のカーバンクルと申しますよぅ。このたびはうちのご主人が、とんでもなく迷惑をおかけしましたよぅ」

「ええと……なんだかよくわからないのですが。でも、心配してくださったみたいで、ありがとうございました」


 カーバンクルに礼を言うと、ミオソティスはアルビジアに手伝ってもらいながら上体を起こす。

 ふと、左目に違和感を覚え、ミオソティスは慌てて自分の顔に手をやる。と、そこになくてはならないはずのものがないことに気づき、ミオソティスは愕然とした。

 

「眼帯‼ どうしよう、私、目開けてる! 守護石……だめ、みんな、忘れちゃう!」


 恐慌状態に陥ったミオソティスは必死に左目を隠しながら、「お願い、忘れないで!」と悲痛な声で叫んだ。彼女はそのまま目を閉じ耳を塞ぐと、「忘れないで」と何度も何度もうわごとのように繰り返す。大切な人たちに忘れられてしまう――その恐怖でミオソティスは視野狭窄しやきょうさくおちいり、今やその大切な家族の声さえ届かない状態になっていた。

 と、その時。うずくまるミオソティスを、大きな影が包み込んだ。影の主は問答無用でミオソティスの頬を大きな手で挟むと、そままま強制的に顔を上げさせる。

 突然の暴挙に虚を突かれたミオソティスだったが、それでも目だけは決して開けまいと固く閉ざしていた。


「落ち着け、この粗忽者そこつものが。まったく、さっきから何さらりと俺の存在を無視してるんだよ。嫌がらせか?」


 聞き覚えのあり過ぎるその声に、ミオソティスは慌てて目を開ける。そして視界いっぱいに飛び込んできたのは、見慣れた不遜な笑顔。瞬間、ミオソティスの体から一気に力が抜け落ち、勿忘草色の瞳から透明な雫がこぼれた。


「なん、で? なんでオルロフ様が、ここに?」

「なんで、とはご挨拶だな。それが助けに来た王子様に言う第一声か?」

「ええと、ありがとう……ございます?」

「疑問形なのは気にくわないが、まあ良しとしよう。ほら、もう大丈夫だから泣くな」


 ミオソティスの涙を指でそっとぬぐうと、オルロフは笑った。それはいつになく優しい微笑みで、先ほどの不遜な笑みとは全く違うそれに、ミオソティスの心臓が跳ね上がる。

 しかもそんな跳ね馬のような心臓に追い打ちをかけるかの如く、オルロフは頬に添えた手はそのままに、ミオソティスの目をひたと見つめると言った。

 

「心配するな、俺がいる。だから家族にも誰にも、お前が忘れられることなんてない。いいから落ち着け、安心しろ、ありがたく思え。なんならあがたてまつっても構わないぞ」


 前半まではとてもドキドキしたのに、後半にいくにつれいつも通りになってしまったオルロフの言葉に、ミオソティスは吹き出してしまった。やっと笑ったミオソティスを見てオルロフも笑うと、ゆっくりと名残なごり惜し気にその手を離した。


「ちょっと、そこの二人! あなたたち、一体いつまで家族の目の前でいちゃつくつもり?」


 アルビジアの呆れた声で、ミオソティスとオルロフはようやく二人きりの世界から帰ってきた。真っ赤になってしまったミオソティスと開き直って睨むオルロフ。そんな二人にアルビジアは心底疲れたような深いため息をつくと、半眼でオルロフを睨み返した。


「ここからは、家族水入らずの時間をくださるかしら。王子様」

「手短にな。俺もまだこいつには用がある」

「こいつって……嫌だわ、もう自分のもの扱い? そういうのは、厄介ごと全部片付けてからにしてくださる? ヘタレ・・・王子様」


 王子相手に嫌味を浴びせるアルビジアに、ミオソティスと両親はいつ止めようかとハラハラと見ていた。しかし最終的に言い負かされたのはオルロフで、彼は悔しそうにアルビジアを睨むと押し黙ってしまった。


 そして勝ったアルビジアはスッキリした顔で振り向くと、改めて「おかえりなさい」と言ってミオソティスを抱きしめた。

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