4.迷いの森のお姫様

 ミオソティスの目の前で楽しそうに微笑む青年――彼こそがミオソティスの探し人、極夜国ノクス第五王子オルロフその人だった。

 突然の邂逅に、ミオソティスは頭の中が真っ白になってしまっていた。そしてオルロフの方は、名乗った途端動かなくなってしまったミオソティスに多少の不安を覚え、とりあえず声をかけてみる。


「おい。お前、俺に何か用があったんじゃないのか?」


 腕を組んでにこにこと見下ろしていたオルロフだったが、あまりに何も反応を示さないミオソティスが段々と心配になってきた。腰をかがめ、固まっている少女の顔を覗き込む。


 透けるような白い肌に影を落とすのは、さらりと流れる絹糸のような濡羽色の髪。小さな顔に嵌る右目は藍玉アクアマリンのような薄青、対して左目はしっとりとした闇色の石。そしてその頭を支える華奢な首や手足は、とてもではないがオルロフを暗殺などできるようには思えなかった。

 目の前の少女が心を飛ばしているのをいいことに、オルロフはその姿をまじまじと観察する。


 と、その時、突然ミオソティスの両手がオルロフの顔を掴んだ。そしてそのまま、互いの鼻と鼻が当たりそうなくらいの距離にまで引き寄せる。


「なっ⁉ 何をす――」


 ミオソティスの淑女らしからぬ奇行に面食らい、慌てて離れようと後退ったオルロフだったが……


「わっ、このバカ!」


 オルロフの顔を掴んだまま離さないミオソティスのおかげでバランスを崩し、そのまま諸共地面に倒れこむことになってしまった。しかもその際、オルロフは反射的にミオソティスを庇ったため受け身を取ることも出来ず、地面に背中を強かに打ち付けることになった。


「不思議……。同じ黒い石でも、黒曜石オブシディアンや私の黒玉ジェットとは全然違う。初めて見た。これが、黒色金剛石ブラックダイヤモンド


 ミオソティスはオルロフの腹に馬乗りになりったまま、彼の右目に嵌っている守護石を夢中で眺めていた。彼女が思わずと手を伸ばしたその時、下から怒りを押し殺したような低い声が響いてきて。


「おい……いい加減にしろよ、お前。とにかく今すぐ、さっさと俺の上からどけ」


 その声ではっと我に返ったミオソティスは、今、自分がどこにいるのかということにようやく思い至った。途端、熱狂的な興奮は極寒の恐怖へと反転し、それはミオソティスの白い肌をさらに白く青く染め上げた。


 王族相手に軽口をたたいた挙句、許可なくその体に触れ、しかも押し倒してしまった。


 ミオソティスはそのあまりにも非礼すぎる自分の行動に、ああ、終わった。と思った。

 石人は基本的に、とても楽天的でおおらかな種族だ。しかし相手は王族。人間たちのように苛烈なものではないが、石人たちにも一応階級意識というものはある。でなければ、貴族や爵位など存在していない。


「お、王子殿下とは存じ上げず、数々の非礼、誠に申し訳ございませんでした」


 ミオソティスは転げるように飛び退きオルロフの足下に平伏すると、震える声を必死に抑えながら謝罪した。

 初めて自分の力が効かない相手に出会い、完全に舞い上がってしまっていた。しかも長年の引きこもり生活のおかげで、ミオソティス本人には自覚がなかったのだが、他人との適切な距離感がうまく掴めなくなっていた。そこへ夢中になると視野が狭くなるという悪癖が加わり――結果、出来上がったのがこの惨状。

 そもそも、忘却の力が効かなかった時点で気づくべきことだったのだ。けれど喜びのあまり、ミオソティスは考えることを放棄してしまっていた。


「よい、ゆるす。おもてを上げよ」


 オルロフの言葉にミオソティスは感謝の言葉をのべ、さらに深く、まるで地面にこすりつけるかのように頭を下げた。そんなミオソティスの姿にオルロフは眉間にしわを寄せ、いかにも不機嫌といった面持になる。


「おい、いいからさっさと顔を上げろ。さっきまでの狂戦士ベルセルクのような勢いはどうした」

「どうかご容赦を。わたくしのような無作法者、王子殿下に合わせる顔もございません」


 頑として顔を上げないミオソティスに痺れをきらしたオルロフは、平伏ひれふす彼女のそばまで来ると地面に片膝をついた。


「いいから顔を上げろ! 俺はそういう堅苦しいのは苦手なんだ。ほら、もう全然怒っちゃいないから。な? だから頼む、顔を上げてくれ」


 オルロフはミオソティスの肩を掴むと、ほぼ無理やり彼女の上体を起こした。ミオソティスとしても、王子から頼むと言われてしまっては逆らうことなど出来るはずもなく。不承不承顔を上げた。するとそこには、無理やり作ったであろう少々ぎこちないオルロフの笑顔。

 その不器用な笑顔を見た瞬間、ミオソティスは胸の真ん中がぎゅっと締め付けられるような、今まで経験したことのないような感覚に襲われた。


「お、王子殿下の寛大なお心に、ふ、深く感謝いたしております。本当に――」

「わかったわかった。わかったから、その無理やり感あふれる言葉遣いはやめろ。お前には似合わん。それに俺は、さっきまでの阿呆みたいな喋り方の方が好きだ」


 ――好きだ。


 たったその一言に、ミオソティスの心臓は大きく跳ね上がる。

 しかもそのまま早鐘のような鼓動を刻み始め、ミオソティスはなんだか急にそわそわと落ち着かなくなってきた。そんな自分の体調の変化に戸惑いを感じ、こっそりとオルロフを窺い見れば目が合ってしまい、ミオソティスの心臓はまたもや締め付けられるような感覚に襲われて。しかも今度はのぼせまで加わり、ミオソティスの心はあっという間に恐慌状態パニックに支配されてしまった。


「お、おい。どうしたんだ? 青くなったり赤くなったり。もしかして、具合が悪いのか?」


 怪訝そうなオルロフから、ためらいがちに手が伸ばされる。けれどその手は、ミオソティスに届くことはなく……


「ごごご、ごめんなさい。じゃなくて、も、申し訳ございません。その……えっと……」


 まるで火中で爆ぜた栗のように、ものすごい勢いでミオソティスが後ろに飛び退すさったからだ。


「おい、本当に大丈夫か? お前、さっきからおかしいぞ。いや、おかしいのは最初からか?」


 オルロフの失礼な軽口に、けれどミオソティスはそれどころではなく。

 さきほどからミオソティスの心臓は壊れそうなほど忙しなく鼓動を刻み、彼女はもう何を言っていいのか、どうすればいいのかわからなくなっていた。

 完全に頭が真っ白になってしまったミオソティスは突如オルロフに背を向けると、そのまま濃霧立ち込める森に向かって全力で走り出した。そしてオルロフが止める間もなく、ミオソティスはそのまま森の中に消えてしまった。


 その場に一人残されたオルロフは、一体何が起きたのか理解できないまま、ただミオソティスが消えた森をぽかんと眺めていた。



 ※ ※ ※ ※



「どうしようどうしようどうしよう‼」


 恐慌状態のまま森から逃げ帰ってきたミオソティスは、ベッドの上で羽毛布団を頭からかぶり、ひたすら「どうしよう」を繰り返していた。


「どうしようどうしようどうし――」

「ティス!」


 呼び声と同時に、ミオソティスの目の前が明るくなった。何事かと振り向けば、そこには泣きそうな顔で羽毛布団を抱えているアルビジア。


「ジア? どうしたの、そんな今にも泣きそうな顔して。何かあったの?」


 見当違いの心配をするミオソティスに、アルビジアの顔がくしゃりと歪む。


「何かあったのはティスの方でしょ! 森から帰ってきてから変だよ。一体、何があったの?」


 アルビジアの問いに、今度はミオソティスの顔が歪む。


「ジア……ジア、どうしよう。私、大変なことしちゃった」


 やっとのことでそれだけ言うと、ミオソティスは子供のようにわんわんと泣き始めてしまった。普段、滅多なことでは人前で泣くことなどしないミオソティス。我慢強い姉のそんな姿に、けれどアルビジアは何も言わず、ただ震える姉をぎゅっと抱きしめた。



 ひとしきり泣いたあと、ミオソティスは森であったことを洗いざらいアルビジアに話した。その顛末てんまつに、アルビジアは深いため息をもらさずにはいられなかった。


「だいたいの話はわかったわ。大丈夫よティス、安心して。公式の場ではないし、他に人もいなかったのでしょう? 殿下も赦してくださるって仰ったのだし、そんなに思いつめることないと思うわ」

「でも! 本当は赦されてなんてなくて、私だけじゃなくて、家にまで累が及んだら……」


 真っ青な顔で訴えるミオソティスにアルビジアは吹き出すと、笑いながら呆れ顔を返した。


「ないない、それはない。あのね、ティスは人間の本に影響され過ぎなの。きっと王様たちに直接会ったことないからそんな風に考えてしまうのかもしれないけれど、あの人たち、ティスが考えているような御立派で堅苦しい人たちなんかじゃないわよ」


 アルビジアはさらにおかしそうに笑うと、ミオソティスを安心させるように、「大丈夫だから」と何度も繰り返した。そうやって何度も何度も言われていると、社交界で活躍するジアがそこまで言うのなら本当に大丈夫なのかもしれない、とミオソティスにも思えてきた。未だ不安はぬぐいきれないが、ミオソティスの心は先ほどより少しだけ軽くなっていた。


 ようやく笑顔が戻ってきたミオソティスを見て、アルビジアは「じゃあ本題だけど――」と何が楽しいのやら、満面の笑みでミオソティスの両手を握りしめる。


「どうしたらオルロフ殿下の御心を掴めるのか、私も一緒に考えるから。頑張ろうね、ティス」

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