第2話 石橋の深く

夜道に浮かぶ朧げな街灯を頼りに、カーミラは歩みを進めていた。

幸いにも雨が降りしきる夜中であるからか、人と出会うことはなかった。


女性が一人で傘もささずに夜道を歩いているのだ。もし誰かに見つかってしまえば声をかけられるのではとカーミラは心の片隅で怯えていたが、そんなことを咎める人は現れなかった。


やがて見えてきたのは、闇夜にぽつんと佇んでいる石橋であった。


石橋の入口と出口、そしてその中央には、街灯らしき明かりが腰辺りの高さで光っているのが見える。まるで星明かりを溶いたような光がひどく幻想的であり、その空間が憂鬱な雰囲気に満ちていたようだと、カーミラは感じた。


雨が降ったせいなのか、水の勢いよく流れる音が足元からしたたかに聞こえてくる。

カーミラは橋の欄干から顔を覗かせ水面を覗いてみるが、明かりが弱いのか、川は墨のように黒いだけである。


カーミラはゆっくりと歩を石橋の真ん中まで進める。

一歩、また一歩と、進んでいく。


その足取りは、段々と、そして緩やかに、死へと向かっていく。緊張のためか、ずっと雨に濡れていたせいか、足は震えている。うまく進んでくれないのは、なぜだろうか、と考えた時、カーミラの固まった決心が少しだけ揺らいだ。


本当は自分、一体なにを求めていたのだろう、と。

そう深く悩みこむカーミラの足が、不意にピタリと、止まった。直後、カーミラの瞳は大きく見開かれた。


誰もいないと思いこんでいた橋の真ん中に、誰かがいるのだ。中央に光っていたと思っていた明かりこそが、その誰かが持っていたランタンの明りだった。


必死に悩み苦悶していたカーミラは、その人物が目の前に現れるまで、そうとは気づかなかったのだ。


誰か自分以外にも人がいるのだと意識した途端、カーミラは先ほどまでの熱意が急速に鎮火して、頭の神経が凍り付くように冷えていく感覚を覚えた。


「こんばんは」


唐突に告げられた言葉は、ひどく柔らかい、女性の声だった。ランタンの光がカーミラの方へと向けられたが、カーミラはいきなり人に会ったことの恥ずかしさか、顔を背けた。


「あら、貴方……傘はどうしたのよ、こんな雨の中でびしょ濡れになって。」


カーミラは心の内であたふたし、必死になってなにかそれらしい理由を取り繕うとしたが、返す言葉はなかった。「ああ、本当ですね。」とうっすらとした笑みを浮かべながら、か細い声で呟くほかない。


雨の中で傘もささずに歩いていれば不審者と思われるのも当然か、とカーミラは自虐めいた笑いを零す。その、憂いを帯びた横顔に、そっと影が落ちる。傘の骨組みを覆う皮が、カーミラの頭をうずめる。影の女性がカーミラに寄って、傘の中へと入れたのだった。


「貴方の家はどこなの?もしよかったら、送ってあげるから。」


女性の口調はとろけるほどに優しく感じられた。しかし、帰る家なんてどこにもないのだという現実が重くのしかかる。


「いえ、あの…………ないんですよ。返る場所なんて。」


ぽつり、ぽつりと雨粒のように吐いた言葉に、女性は何も言わない。カーミラはせきを切ったようにして言葉を続けた。


「私はもう、帰る場所なんてないんですよ。今まではメイドとして、屋敷でひたすら働いてきたんです。他人から後ろ指の刺されることのないよう、精いっぱいやってきたんです。ですけど、屋敷の主人から職務の怠慢を指摘され、即刻解雇を言い渡されました。だから、帰る場所なんて、もう……」


最後はもう、嗚咽交じりの言葉であった。雨音が、その姿を、声をかき消すように、一段と強くなった。


紅潮した頬に伝う雫が、雨粒なのか、涙なのか、それはカーミラ本人にしかわからないことだ。でも、その雫を払うようにして、真っ白な肌の右手が頬に伸びてきたのは、まぎれもない事実であった。


彼女からの手が赤く色づく頬に触れた時、カーミラは初めて、ランタンからのぼんやりとした光に照らされる、彼女の姿をはっきりと見たのだ。


それは、雪のように白い身体の、整った美しい顔の、女性であった。まっすぐにカーミラを見据えた瞳の奥からは、包み込むような温かさが感じられる。


「大丈夫ですよ。いろいろとお辛いことがあったのでしょう。もう、大丈夫ですよ。」

彼女はゆっくりとそう言うと、カーミラの背中に手を回して、ゆっくりと、しかし強く抱擁した。カーミラもそれに応えるようにして、名も知らぬ彼女の胸元で泣いた。


「私の名前、まだ言ってないよね。」


そうぽつりと言葉を吐いた彼女は、カーミラの耳元で囁いた。


「私の名前はミランデよ。」

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