燃ゆる白百合、右手を添えて

レイノルズ

第1話 雨と時計と金属と

冷たい雨の吹き付ける、寂しい夜だった。


月の煌々とした光は雨雲に覆われて、濃い闇夜が周囲を煙のように漂っており、ぼんやりとした街灯の光だけが、人のいない石畳の道の上で灯されている。


濡れた木々の陰影は、静かな水たまりの鏡に映されていて、さっと吹いた風のせいで、淑やかに揺れる。


人の気配はまるでない。雨の音色に色づいて、静寂の夜が調和を奏でている。

そして、その調和に、淑やかな手を添える、一つの音色がある。


——チック、タック、チック、タック、と。

鳴り止まぬ懐中時計の針の音が、深い闇夜に溶けていく。一定のリズムでの狂いなき音色が、繰り返し繰り返しこだまする。どれほど雨足が強まろうとも依然として音は明瞭であり、確かな質量を持って、雨降る夜の静かな空気に冴えわたる。


……雨足は弱まることを知らないらしい。

身も凍えるような寒さの雨が、一切の容赦なく降り注ぐ。薄暗い駅前の街灯や木々、そして石畳の道に、溢れんばかりの雨が降る。そして雨は、ベンチに凭れながら暗い表情で俯く彼女にも、降りかかる。


白と黒とを基調にしたメイド服は上から下までが雫に濡れてぐっしょりとしており、後ろに括られた長い黒髪や、ほっそりとした手先、そして血色の薄い横顔が、仄かな明かりに照らされながら、艶やかに濡れていた。そして、そんな彼女の力ない右手に握られているのは、狂いなき音色の懐中時計であり、緩やかな音が耐えず響いている。


懐中時計は、まもなくの午前二時の訪れを示そうと、時計の長針をゆっくりと昇らせている。あとほんの数十秒で、短針がⅡの文字を指すという瞬間。


その瞬間を、彼女はぼんやりと見つめていた。しかし、不意に、今日という日に起こったあの出来事が鮮明に思い浮かんだために、瞳から滲ませた涙を振り払おうと、彼女は顔を冷たい手で覆うことになった。溢れんばかりの涙が、彼女の頬を雨粒と共に肌を伝う。


その感覚を憎らしくも、忌々しくも思いながら、カーミラは再び、今日のあの出来事について、頭の中で反芻するのだった。



カーミラはこれまでメイドとして住み込みで屋敷に仕え、懸命に働いていた。

屋敷での主な仕事は部屋の清掃であり、それを朝日が昇ってから沈むまでの間、ただ淡々とこなしていく日々であった。


屋敷の主は豪勢を極めた貴族であり、その彼が持つ屋敷の部屋の総数はかなりのものであった。だから一日中掃除用具を持って駆けまわり、塵ひとつ残らないようにと清掃に勤しむことが、カーミラの日常であった。


主人である貴族はかなり人使いが荒く、暴言を吐くことに躊躇をしない人であった。自分の思惑通りにならない事があると、その怒りの矛先を使用人に向けることは珍しくもない。ほんの些細な、目くじらを立てる事さえ憚られるほどの、小さな粗相をしでかした使用人に向かって、大勢の前で即刻解雇を言い渡すことさえあった。それも、一度や二度ではないのだから、相当数の人数がこの屋敷を去っていったのだ。


カーミラはその解雇された使用人の一人とは仲が良かったから、去る前にいくつかの通り一遍の慰めの言葉だってかけてあげたことがあった。しかし、例えどんな綺麗ごとを口から吐いても、心のどこかではホッと胸をなでおろす気持ちがあった。


私ではなくてよかった、という自己中心的な感情が、心の底に渦巻いて、時折ニヤリとほくそ笑む。


私にではなかったことへの安堵の感情と、そんな自分を置き去りにして去っていく仲間。休暇を貰ったらどこに行く、と軽やかにそう聞いてきた親友さえも、もう今はいない。


自分に影響がなければ結局のところはすべて他人事であるのだという思考が頭にこびりついてから、もう何年も経ってしまった。


カーミラは慣れてしまったのだ、誰かが去っていくということに。


その証拠に、いつも唱えているのだ。

私は人格者でない、ただの使用人にすぎないのだと。

私にとって一番重要なのは、仲のよい親友でもなく、ましてや両手に収まりきらないほどの金でもなく、一日の満ち足りた暮らしなのだから、と。


そんな思いを秘めたカーミラは、その暮らしが崩れないように苦心しながらも、つつがない日々を細々と続けていた。身寄りのない自分自身に波風がたたないよう、いつも穏便に、そして職務に忠実にしていた。たとえどれほどの激務があろうとも、必死になって食らいついてきた。手が荒れて指の節々に細かな傷ができようとも、妥協などを決して許さなかった。屋敷のためとあらば、主人の意向とあらば、影となって下支えをするつもりで職務に励んだ。


しかし、本心では屋敷の主人の人柄を痛いほどに知っていたために、心の底から、彼を軽蔑していた。だが、決してそんな剥きだしの感情を露わにすることは決してない。


屋敷での清掃中、カーミラは常に氷の仮面を身に着けているかのようにして振舞っていた。それが彼女の生きるための処世術であり、余計なことをしないための予防策でもあった。


職務中は常に機械的であり、目の前のことをただ愚直に続けていくのみである。


屋敷で働き始めた当初は粗相をしたことによって立場が危うくなったり、血液のようにうごめく激情を押し殺すことに悩んでしまったりもしたが、それもすべてが過去の出来事。


毎日の食事が保証されて、夜はゆっくりと休める部屋がある。それがどれだけ満ち足りたことか、カーミラはよく理解していた。


このまま頼りのない外で息も絶え絶えに暮らしていくよりも、この屋敷で生活をする方がよっぽどいい暮らしができる。そう信じて疑わず、しばらくはこの生活が続くものだと、確信していた。


だが、その生活が脆いガラスのように崩れ去るのは、あまりにも突然であった。


「カーミラ、君は私になにか言うことはあるかね?」


そう切り出したのは主人からの信頼が厚い執事のアルフレッドからであった。夕日の光を受けながら、窓際で遠くを眺めるようにして佇んでいる。


彼に呼ばれて使用人たちの休憩スペースとして使われる一室に来たカーミラは、身に覚えのないことを問われ当惑しながらも、「いえ、なにも」と答えた。


アルフレッドはくるりとこちらに顔を向けた。心底がっかりしたというような表情が、赤みがかった光に照らされる。それと同時に彼の金属の針のような、ひんやりと、そして鋭い視線が、カーミラの瞳を刺すようにして投げかけられる。まるで嘘はお見通しだ、というかのように。


カーミラは本当に身に覚えがなかった。


必死になって今日の事、昨日の事と遡って思い出そうとした。が、それらしいミスをした記憶もなければ、後ろめたい事をした覚えもない。何かの勘違いではないかと、縋るような思いで、カーミラはアルフレッドを仰ぎ見た。


アルフレッドは失意の混じったため息を吐いた。まるで凍り付いたかのように、一室が静まり返る。


カーミラはうなじに嫌な汗が流れるのを感じつつ、ただ祈るようにして、彼の続く言葉を聞くしかなかった。どうか、最悪の結果にはなれないように、と。


しかし、アルフレッドは一切の温情の余地なく、カーミラに向けて言い放った。


「カーミラ、君は今日限りでクビだ。さっさと支度をして屋敷から出ていきなさい。」



その言葉は冷酷なまでに冷え切った鐘の音のように、カーミラの胸の内で響き渡った。予感していた、最悪の結果である。


まさか冗談ではないのか、夢を見ているのではないかと、現実逃避の空想が、まだ言葉の意味を直視できないカーミラの内で膨らんだ。


しかし、アルフレッドの冷酷な視線がなおもカーミラに対して注がれていると感じた時、その幼稚な考えは、まるで針を刺された風船のように割れて萎んだ。


「え、ちょっと待ってください。なんで私が……なにか職務に問題があったのなら、すぐに直します。改善します。気に食わないことがあったのなら謝ります。だからどうか、それだけは」


極めて弱弱しい口調で呟いていたカーミラの言葉をかき消すように、アルフレッドは「先ほど」と語気を強めて話を始めた。


「主人が私の元にやってきて、相談をしてくださったのじゃ。しまってある金庫の金がなにやら減っている気がするから調べてくれ、とな。そして帳簿と金庫の金を確認したところ、確かに金が減っていたのじゃ。ワシもこれには大層驚いて、主人に急いで報告を入れると、主人はその事実に大層お怒りになられ、犯人は必ず八つ裂きにしてやると息巻くほどじゃった。その時に主人は言ったのじゃ。あの金庫のある部屋で掃除をしていた人物が怪しい、そいつが犯人であるのではないか、と。」


カーミラはハッとした。確かに私は一週間、その金庫のある部屋の掃除を何人かの使用人と共にしていた。しかし、金庫の金が盗まれたことなど、全くもって身に覚えがない。ならば猶更、自身の潔白を示さなければ。


「私、そんなことは知りま——」

「黙れ!貴様のような奴の戯言など、一言たりとて聞きとうないわ!!」


カーミラの小さな抵抗は虚しくもアルフレッドの怒声によってかき消される。


「まあ、先ほど別の使用人の一人を問い詰めた所、そやつが犯人であった。言い分を聞いてみると、魔が差したということに一点張りじゃよ。しかし、そやつも馬鹿じゃよな。主人にそのような甘い言葉が通じるはずもないのに……今頃三枚おろしにでもされていたりしてな」


ちらりとアルフレッドはカーミラの方を見た。笑えということなのだろうか……。

しかしアルフレッドの表情には全くもって色がなく、その貼り付けたような無表情が、かえって恐ろしさを際立たせている。そして何か言いたげなあの瞳の光だけは、刃物のように鋭く輝いていた。


「そやつが馬鹿なら、カーミラよ。貴様もよっぽどの馬鹿じゃな。まさか金庫から金を盗もうとしておる者に気づかず、呑気に掃除などしておるような奴なのじゃからな。」


アルフレッドは嘲笑を含んだ表情を見せると、冷淡に一言。


「盗人に気の付かないような人物は即刻解雇じゃ。カーミラ、今すぐこの屋敷から出ていきなさい」



アルフレッドから解雇命令を伝えられて、およそ一時間後が経った。その時にはもうすでにカーミラは荷物の入ったトランクケースを持って、屋敷の外へと出ていたところであった。


カーミラに心配やねぎらいの声をかけてくれる者はいなかった。自身がこの屋敷から解雇されたのだという事実が、現実味を帯びてつきつけられる。


外はすっかり暗くなり、そこここで街灯の明かりが幻のように浮かんでいる。雨の降りそうな湿った空気が立ち込めているためか人はまばらである。


今後どうするかという考えはない。それよりも今、この胸を締め付けて止まないのは、主人の意見一つで崩れ去った自分の生活の未練であった。


もし金庫の金を盗む人物に気づけていれば、もし掃除する部屋が別であったなら、今頃はまだあの屋敷で働いて、温かな布団の中で眠りについていたのかと思うと、不意に涙が込み上げてきた。


涙を拭こうと手を顔の前にあげて、不意に視界に入ってきたのはボロボロになった手の姿だった。擦り傷だらけになりながら、何とか一日を生きるためと割り切って働いてきた証が、そこにまざまざと表れていた。脳裏に浮かんだ記憶の数々と、それに付着したどす黒い感情が、思考の歯車にへばりつく。


一体私はなんのために働いてきたのだろう。そんな自問自答の迷宮で彷徨いながら、カーミラはフラフラと町に向かって歩き始めたのだった。



そして、夜は午前2時という時刻を迎えた。屋敷を出てから4時間が経過している。


色の薄い唇から白いため息を漏らすと、カーミラはパチンと懐中時計の蓋を閉じた。


この懐中時計は親に貰った形見であることを、カーミラはしみじみと思い出しながらも、もう大事にする必要はないのかもしれない、と乾いた笑いを浮かべた。


明日からの仕事もなければ行く当てもない。そしてなによりも、明日を生きようという気力さえ、カーミラには残っていなかった。


そんなカーミラの頭に不意に立ち昇ってきたのは、自殺という考えだった。


悲観という悪魔に手を引っ張られたカーミラが、遂には自分の命さえも軽々しく見てしまうといった思考をしてしまうのは、当然のことだった。


午前2時になったら、命を絶つことにしよう。

その考えが魅惑的に見えてしまったが最後、彼女は自身の決意を強く固めた。

そしてカーミラは死を待つためのベンチから腰を上げると、トランクケースを持ってすたすたと闇夜に向かって歩き始めたのだった。

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