箱庭の薬術師

ぷにちゃん

異世界生活スタート

第1話 交換条件

 闇を裂くような、しかし小さな悲鳴が、穏やかな午後の日差しが差し込む店内に響いた。突然のことに驚いた従業員や、お茶を楽しんでいた人の視線が発生源の私へと向けられる。

 それは自分の声ではあったが、あまりに普段の声とかけ離れたそれに、私は持っていた受話器を落とした。拾わないといけないと……頭の片隅で思ったが、思考は一瞬で頭から掻き消えすぐさまバイト先の喫茶店カフェを飛び出した。



 驚いた店主マスターの制止する声には目もくれず、私は一直線に走った。

 電話から聞こえたのは母親の苦しそうな涙声。それに加えて電話の後ろから聞こえる慌しい声。それだけ聞けば、母親が私に何も伝えてこれなくても、言いたかったことは十分に伝わった。

 喫茶店カフェのある細い通りを抜けて、大通りに出てすぐさまタクシーを捕まえる。今は運転手の「どちらまで?」なんて声は待っていられない。乗り込むと同時に目的地を告げて、私は動悸が激しくなった体を落ち着かせる。

 真っ黒ではなく、若干茶色がかった腰まで伸ばしている髪は走ったせいでボサボサに乱れ、服装に至ってはバイトのまま。黒地にフリルのエプロンがあしらってあるお洒落な制服。少しヒールのある靴で走った為、足が少し痛む。



 運転手は、そっと目を閉じてただ後部座席に座っているだけの私に声を掛けることはしなかった。恐らく私の告げた行き先が大学病院だったからだろう。加えて誰が見ても焦っている私。事情を察してくれたのか、前を走る自動車を追い越して目的地へと急いでくれた。

 大学病院に着いた際、一番入り口に近い場所へと止まり私を気遣う声を掛けてくれた。



「お代は後でもいい、とりあえず早くいってやんな!」

「おじさん…っ! ありがとう、すぐもどります!」



 急いで病院に駆け込み、受付を目指す。



「あの、妹は… 楠木くすのきはなはどこにいますか!?」



 私の勢いに気おされたのか、一瞬受付のお姉さんの表情が崩れるが、そんなのを気にしている余裕は無い。「すぐに確認します」と、立ち上がろうとした時に後ろから声が掛かった。振り返ると、そこには妹を担当している看護師の高木さんが立っていた。



「緊急手術室よ、案内するからついてきて!」

「……はいっ!!」







 ◇ ◇ ◇



 今までにこれほど、神様に祈りを捧げたことがあっただろうか。

 何か困ったことがあっても、私は努力で乗り越えてきた方だと思う。



 でも。



 今日は、祈りを捧げさせて下さい。

 そしてどうか、どうか、私の願いが叶いますように。

 私の全てを捧げても良い。



「だから神様… どうか妹を、花を助けて下さい……」





 私の消え入りそうな小さい声が、薄暗い病院の廊下に響く。それは誰かのお葬式の様で、死神でも出てくるのではないかと怯えてしまう。

 備え付けられた椅子に座り、その横にあるドアには『手術中』と赤いランプが点灯している。

 私の横には、お父さんとお母さんが同じく腰掛けている。2人ともぐったりして、ずっと俯いている。時折通る看護師に視線を送り、手術が無事に終わることを祈るしか出来ない。

 こんな時、医者でも何でもない自分の無力さを悔やむ。いや、悔やんだところでどうしようもないことは分かってはいるのだけど…。



 現在、妹が緊急手術を受けている。





 今、私が居るのは大きい大学病院。

 妹の花が4年前に病気を患い、入院した病院。



 最初は、私も両親もただの風邪だろうと思っていた。市販の薬を飲み、様子を見ていた。しかし、花の病状は一向に良くならなかった。異変を感じた両親は、花を病院へと連れて行った。

 しかし、医者の診断結果は残酷なものだった。花の病名は“不明”だった。

 頭を検査しても、血液を検査しても、原因が分からないと。そう医者に突きつけられたのだ。予想としては、新種のウィルスか何かかもしれないということだった。しかし、根拠となる確証はない。



 その時17歳だった私は、その運命の残酷さに絶望した。13歳の妹が突然の入院。

 学校が休みの日は、一緒に買い物に行き、料理をしたりする。テスト前になれば、私が勉強を教えることもあった。

 そんな私たちを見て両親は「年が離れてるのに、まるで双子みたいね」と笑ってくれていた。けれど、その笑顔が絶えなかった日常は砂で作ったお城の様に一瞬で崩れてしまった。砂浜で行き来している波の音が、近所の公園で遊び回る子供の声が…… 嘲笑いに聞こえる。



「……突然、容態が急変したそうだ。恐らく呼吸器官に支障が出ているのではないかと、そう医師から聞いている。手術の終了時刻は……未定だそうだ」

「……きっと、きっと花は大丈夫よ…?」



 ずっと沈黙を守っていたお父さんが、花の状況を告げた。

 続いてお母さんが、私を気遣って安心するように背中を撫でてくれた。それに甘えて、私はぎゅっとお母さんに抱きつく。声を殺して、泣いて少しでも心を落ち着かせる。

 うん。大丈夫。お姉ちゃんが妹の無事を信じないで、どうするんだ。



「あ、そうだ…」

「どうした?」

「タクシーにお金払ってない… 運転手のおじさんがお代は後でいいから先に行って来いって言ってくれたの」



 腕時計に視線を落とせば、時間は17時。バイト先の喫茶店カフェに電話が来たのは16時すぎだったはず。となると、移動時間を引いても30分近く待たせてしまっている計算だ。



「結構時間が経ってるな… ほら、これを持って行きなさい」



 差し出されたのは5千円札が1枚。急いでバイト先から飛び出した為、私は何も持っていなかったことに今更ながらに気付く。そんな様子を見てか、お父さんの顔が少し綻んだ。

 慌てて立ち上がり、すぐに戻るからと、その場を後にする。







 ◇ ◇ ◇



 病院の入り口へ戻ると、タクシーのおじさんが缶コーヒーを飲みながら待っていた。私に気付くと手を上げ、笑顔で迎えてくれた。



「ほら。ひどい顔してるぞ」

「えっ… あ、ありがとうございます……」



 温かいミルクティーの缶を、私へ渡してくれた。

 おじさんは、私に何も聞いてこない。「大丈夫だったか?」と、もし問われたなら、私はきっと返事が出来ずに泣いてしまう。

 今はただ、無言でいてくれるのはおじさんの優しさなのだと思い、甘えることにした。



 ミルクティーを飲み、おじさんにお礼を言ってその場を後にする。

 最後まで何も聞かず、笑顔で見送ってくれた。私も、そんな気遣いの出来る大人になりたいなと、思った。





 また正面の入り口から病院へと入り、エレベータへ向かう。

 しかし、着いてみると車椅子の人が何人も順番を待っているところだった。手術室は3階。それならば歩いても問題ないだろうと判断して私は横の階段を登る。





『ねぇ、願いを叶えてあげようか…?』



 ちょうど、2階を通り過ぎて3階の手前に差し掛かったくらいであろうか。

 どこからともなく、声が響いた。いや、廊下や階段に響いた声では無い。私の頭に直接、声が響いたと言った方が分かりやすいかもしれない。



「だ、誰……?」

『ん。“神サマ”ってやつかな』

「えっ…!?」



 鳴り響いたその声の主は、神であると告げた。

 念のため辺りを見渡してみるが、人の気配は無い。



「どういうこと……?」



 私は素直に疑問を呟く。

 神様であると… そんなことが、あるわけないことくらい知っている。



 けど。

 もし本当に、神様ならば?

 もし本当に、妹を助け出せるのであれば?



『さっき、祈ってたデショ? 「私の全てを捧げても良い、妹を助けて」って。だから、交換条件だよ。君の全てと引き換えに妹を助けるという願い… 叶えてあげる。どうする?』



「あっ…!」



 まさか、まさかまさか!

 本当に願いを叶えに、神様が私の元へ来てくれたと言うのか。それはもう、奇跡なんてレベルではない。言葉では、言い表せない程の……歓喜。



「助けて、妹を助けて!! 私はどうなっても構わないから…!」



『うん。いいよ、叶えてあげる!』





 それが本当に“神様”なのか、私には確認することなんて出来ない。けれど、万が一、億に一でも、その可能性があるのならば。私は全てを投げうる。

 明るい『いいよ』という神様の言葉を意識しながら、花のことを思い出す。そして手の痛みを感じて、自分の手をぎゅっと握り締めていたことに気付く。

 だってもう、花の先が長くないことくらい……手術をしても助かる見込みがほぼゼロだということくらい、ちゃんと、知ってる。



 だから、助けて下さい。



 私は祈るように、ただその場に立つ。

 そっと目を閉じ、花のことを思い浮かべる。

 4歳年下の妹は、現在17歳。13歳で病気が発覚し入院。それから、あまり外へ出ることが出来なくなった。いつも外で友達と遊んでいた花にとって、それは辛いの一言では表せなかっただろう。変わりに、家の中でも出来るゲームをして時間を潰した。そして17歳になった現在、ちょっとしたゲーマーにまでなってしまったのはすぐ出てくる唯一の笑い話だろうか。

 あまりにもゲームをしすぎて、怒った父親がコンセントを抜いてしまい花と大喧嘩したことも今では楽しい思い出だ。

 花。笑ってる…笑顔の花に、もう一度会いたい。





「楠木さんっ……! 手術が、無事終わりましたよっ!!」



 廊下の中央、微動だにせず立つ私に、看護師の高木さんが涙を流しながら駆け寄ってきた。

 無事に、終わった……?



「ほ、ほんとう……?」

「ええ、本当よ……!」



 いきなりの言葉に、私の思考はすぐに反応をしてくれなかった。

 ただ、分かったことは1つ。花の手術が無事に、終わったということだけ。

 その事実だけ、分かれば良い。

 途端、涙があふれ出した。安心したからだろうか、嬉しいからだろうか。溢れ出す涙を止めるすべは知らないが、高木さんも同様に泣いていた。



 すぐに花のところへ行かないと、そう私は足を踏み出した。





 しかし、踏み出した先は夜よりも深い、一面の闇世界だった……。

 突然のことにバランスを崩し、私はその場に倒れこんだ。前も、後ろも、下も、天井も、全て一面真っ黒であった。



「ど、どういうこと…? 高木さん?」



 この一瞬まで一緒にいた高木さんの名前を呼ぶが、返事は無い。

 あたり一面、何も見えないこの世界に、今は私一人だけ……?



「やだ、恐い…… お父さん、お母さん…っ!」



 身体の全身が恐怖を覚え、自分をぎゅっと抱きしめる。

 これはいったい何の冗談だろうか。

 それとも、花の無事を知って安心した私は気絶でもしてしまったのだろうか。そうであれば、これは夢の世界と結論付けることが出来る。

 しかし、その時私の耳に届いた“声”が、現実であったことを示した。



『ようこそ、ひなみ』



 背後から聞こえたそれに、ゆっくりと振り向く。

 聞いたことのある、声。そう、これは…… 神様の声だ。



 振り向いた先には、男の人が立っていた。

 暗いのに見えるのは、男の人が光っているからだろうか。それとも、私の目がおかしくなってしまったのだろうか。

 甘い栗色の髪は肩につかないくらいの長さで、着ている服は西洋をイメージさせる。身体にフィットした深いオレンジの服に、裾が短い上着を羽織っている。花の言葉を借りるとすれば、ゲームの中の人、であろうか。ゲームキャラクターの戦闘服の防御性に関しては、デザインが重視されているのか横で花がプレイするゲームを見ていて疑問に思うことが多々あった。

 そして、私の持っている言葉では言い表せない。いや、一言今風にいうなればイケメンというのだろうか。そのきらきら輝く宝石のような瞳は、まっすぐに私を捉えていた。



「あなた… 神様?」

『君がここへ来てくれたこと、心から歓迎するよ』





 私の問いかけに、“神様”はにこりと頷いた。

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