司教領を視察しよう

 この国の王権は世俗領主だけを認めているわけではない。いくつかの有力な宗教団体のトップを「司教」の地位に据え、領地に関する特権と義務を与えてきた。


 「髑髏の聖痕」の当代の教主も司教として領主を務める以上、本来なら司教座都市と呼ばれる領内で最も発展した大都市に司教邸を構えるのが普通だ。しかし、祖霊信仰に端を発する「髑髏の聖痕」の教義にのっとって教主は司教邸を辺鄙な隠れ里に移したらしい。




 川の渓谷を見下ろす断崖にへばりつくようにそびえる司教座都市。その周囲に同じく絶壁にしがみつくように小さな村がいくつか営まれている。高所のせいで町並みは霧に覆われ、南部の晩夏とは思えないほど芯から冷える寒さだ。


 霧、信仰、断崖、そこここに巣くう洞窟群。「髑髏の聖痕」教主・ヘレネー司教領はそんなようなもので構成されていた。


 そのうえ雨天とくれば、この隠れ里の辛気くささは筆舌に尽くしがたい。




「うわホントにぼろっぼろだね!?」




 壊れかけだという吊り橋の実物を見るや、ヘンリエッタは目を剥いた。監督庁からマリオネット馬車で丸一日かけてヘレネー司教領にやってきたわけだが、怪物の口のようにがぱっと開いた渓谷のこちら側と向こう側を繋ぐにしては、太い縄で編まれた吊り橋は頼りなく、あまりに古びていた。嵐じゃなくても早晩壊れるでしょこれは。


「なっ? ひどいだろ!? 谷の向こうの村や司教様のところに行くにはこの橋を通らないといけないのにさ!」


 あの三人の子どもたちはヘンリエッタたちが来たと知ると外套をかぶって雨に打たれるのも厭わず外へ出てきて、この橋の危なさを口々に訴えてきた。村の代表として選ばれた数人の大人は子どもたちに行政監督庁が出張ることになった事の次第を聞かされてから、恥じ入って小さくなりっぱなしだ。


 傘が役に立たないような横殴りの雨なので、外套を深くかぶったアイオンが早くも倦み疲れたように言う。


「こりゃ直訴に来るのも無理はねぇか……。この橋に寿命が来ないうちに早く渡ろうぜ。残念ながら司教邸は谷のあっち側らしいからな」




 ただでさえボロい橋は豪雨でびしょ濡れで、三人は肝を冷やしながらゆっくりゆっくり渡るしかなかった。


 そこを越えても、断崖の下方から司教邸のある上方へ向けては細い石階段が街に巻き付くように作られていて、これまた雨に濡れて滑りやすくなっていた。命に関わるチェックポイントが多すぎる。


 やっとたどり着いた純白の司教邸は修道院と政庁をくっつけたような造りだった。


 エントランスに当たる広間のドーム型の天井には見事なステンドグラス。晴天の日にここに立てたなら感動したかもしれないが、今日は先の見えない豪雨だ。


 到着を待ちわびていたウーレンベックが出迎えてくれて、「ヘレネー司教は礼拝堂にいらっしゃいます」と案内を申し出てくれた。


 奥の礼拝堂とやらは洞窟をそのまま利用して造られていた。むき出しの黒い岩壁の各所にろうそくが灯されている。


 中央の床だけが美しい大理石で覆われていて、顔全体を黒いベールで隠した黒衣の老婆たちが内向きに円陣を組むように並んで立っている。何を囲んでいるのかと目をこらせば、嵐の気配を含んだ隙間風に揺れる真っ赤な焚き火が見えた。そこに添えられているのは多種多様な動物の骨で作られた工芸品だった。異様なシチュエーション、異様な静謐さ。ここは瞑想の場なのだ。


「……あ、あのうヘレネー司教、お話ししていた行政監督庁の方々がお越し下さったんですが……」


 ウーレンベックが礼拝堂の領域を侵さぬように暗い廊下に立ったまま、おずおずと声を掛ける。


 しかし反応はない。


 老婆たちは瞼を閉ざして瞑想を続けている。「俗世のことが目に入らない」人たちらしいとアイオンから聞いてはいたが、文字通り過ぎないか。


 どうする? とアイオンが億劫そうに視線でヘンリエッタとイースレイに問うてくる。


 理詰め人間であるイースレイは宗教方面はとんと理解がないようで、ただ首をひねってヘンリエッタに静かな視線のパスを回してきた。うげー。なぁんか要らないことまで知ってそうだなぁ彼。


 仕方ないので、ヘンリエッタは意を決して片足を洞窟内に踏み入れた。




「!!」




 瞬間、老婆たちが囲んでいた炎がぶわっと天井近くまで噴き上がり、バチバチと火花を散らしながら四つか五つに割れる。


 狼狽した老婆たちの視線が一斉にこちらを振り返る。


「おぉなんと、こ、これは……」


 唖然として固まっているアイオンとイースレイには目もくれず、一番年長らしい老婆がヘンリエッタにベールで覆われた顔を向けた。八十歳は越えているだろう。ぱさぱさの長い白髪がベールの外へ無造作に伸びている。


「……この魔力は……あなた様のものですか」


 やっぱりこの人がヘレネーに違いない。ヘンリエッタはにっこりと愛想良くして、


「初めましてヘレネー司教、行政監督庁の者です。今ってお時間いいですか?」


「もはや人にあるまじき無尽蔵の魔力……俗界にあろうとは……いずこかで長く修行を重ねたような齢には見えませぬが……」


 ヘレネーはうわごとのように呟き、ヘンリエッタに枯れ枝のような腕を伸ばす仕草をする。あっインパクトがバッチリすぎたパターンかー。結果は上々だけど。


 アイオンたちを振り返り、


「ハイ、会話する気にはなってくれたみたいよ。こんだけ俗世離れ激しくても魔女には興味あるみたいだからこっちは任せて」


「は? おい……」


 アイオンが顔をしかめて制止しようとするのを笑顔で遮る。


「大丈夫大丈夫! とりあえず私の話は聞いてくれそうだし吊り橋補修の出資要請はきっちり呑んでもらう。その間、アイちゃんとイースレイは戻って村の人たちと橋の状況再確認して、補修の具体的な段取りとか費用とか相談して書類作っててよ。そしたらあとは司教のサインもらっておしまい。ね?」


「あ、私がヘンリエッタ様のおそばについておりますので!」


 ウーレンベックがそう申し出る。「そういうことならついててもらおうかなぁ」とありがたく厚意を受けると、不機嫌そうな沈黙を置いた後、アイオンがようやく渋々といった態度で軽く息をついた。


「……そうかよ、じゃあ好きにしろ」


「うん。ありがとね、アイちゃん」


 見るからに異常な興味を示されておいてこの場に残るつもりかと心配してくれたのは嬉しかったけど、あの死に体のおんぼろ吊り橋をこれ以上放置はできないからね。嬉しそうにお礼を言われる心当たりがないつもりのアイオンは、はぁ? と片方の眉をわずかに持ち上げて心外そうにしていた。

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