領主の裏切り

 王都を出発してから二日目の夕方に、草原の果てにゴタルムの街並みが姿を現した。

 天をくように聳えるオセムリカ山脈が間近に迫り、その山裾と草原が接する所に、堅牢な石造りの建物が集まっている。ユィトカ峡谷は、その街並みを超えた向こう側、オセムリカ山脈の手前に深く切れ込んだ谷底にあるので、赤竜の背に立っていても、ここからは見えない。

 ひとまず最初の目的地まで来る事が出来て、ほっとしたようにくつろいでいたルィヒの表情が、ゴタルムに近づくにつれて、徐々に険しくなり始めた。

 門の上ではためく灰青はいあおいろの旗に施された精悍せいかんな狼の刺繍が見て取れる距離まで近づいた時には、ユージンも、はっきりと異変に気づいていた。

 門の正面で、飾りのついた杖をつき、背筋を伸ばして立っている初老の男が領主だろう。だが、彼は〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉を出迎えるにしては多すぎる衛兵を──しかも、全員が弓や剣で武装した衛兵を伴っていた。

 ルィヒは素早くユージンと目配せを交わすと、見張り台から身を乗り出した。そして、ありったけの声を張り上げて、

「領主殿!」

と呼びかけた。

「わざわざお出迎え頂き、感謝する。今から小竜でそちらへ向かうゆえ、すまないが、衛兵達と一緒に、少し下がってもらえるか」

 領主が手を振って応じると、ルィヒはユージンの耳元でささやいた。

「わたしが小竜で飛んだら、カルヴァートに文を送れ」

 ユージンは頷き、見張り台から下りると、廊下を駆け抜けて伝書鳩を飼っている小部屋に向かった。

 鳩小屋の前にある文机で、今の日時と、ルィヒが危険を知らせるように命じた旨を記した文をしたため、それを小さな筒に入れて鳩の脚につけた。

 鳩を放つために窓から顔を出すと、頭上でいかずちのような羽音がとどろき、次いで、門のいる方から男達の低いどよめきが聞こえた。

 小竜は個体によって、体の大きさにばらつきがある。ルィヒは領主達の目を引きつけるために、とりわけ大きい個体を呼んだのだろう。

 そして、ルィヒの狙いどおり、彼らはみるみる迫ってくる小竜に気を取られて、ユージンが伝書鳩を放った事にはまったく気づいていないようだった。

 鳩を飛ばすと、ユージンは再び見張り台に戻り、ルィヒが呼んだもう一頭の小竜にまたがって、ゴタルムの門めがけて滑空していった。

 門の前に着き、ルィヒとユージンが小竜から下りるやいなや、衛兵達がもはやうわべだけの歓待を取り繕う事すらやめて、一斉に剣の柄に手をかけながら二人を取り囲んだ。

 ルィヒは、冷たい笑みを浮かべて言った。

「これはまた、ずいぶんな歓迎だな」

 領主が口を開き、暗い表情で話し始めた。

「〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉殿。どうか、我らに従って頂きたい。殺せぬ事は百も承知だが、むやみに痛めつけたくはない」

「誰に向かってものを言っているか、考えよ」抜き身の剣が自分に向くのも構わずに、ルィヒは領主に詰め寄り、彼を睨んだ。「イゼルギットは知っているのか?」

 義理の娘として迎えた王女の名を出されて、領主はかすかにたじろいだ様子を見せたが、きっぱりと首を振った。

「あの子は一切、関わっていない」

「ほう? ならば貴様ら、ラァゴーに唆されたか」

 当代の王の名を、まるで逆賊でも呼ぶようにぞんざいに言い捨てたルィヒを見て、衛兵達はぎくっと体をこわばらせた。

「あれは賢い娘だ。自分の目が届く所でこんな企みが進んでいて、気づかないはずがない。だが、王の後ろ盾があるのなら、話は別だ。適当な理由をつけてイゼルギットをゴタルムの外に出し、その間に一気に準備を進めれば、事が露呈する確率は格段に低くなる。……今回のようにな」

 ルィヒは、腰の短剣に手をかけた。

「王家に連なる者、二人を罠にかけて、よもや無事で済むとは思っていまいな」

 その言葉でユージンも短剣を抜き、体の前に構えた。

 衛兵達は、ごくっと唾を飲み込んでルィヒを見つめている。

 その目に、攻撃にかかろうとする時の緊張だけではなく、得体の知れないものを忌避するような嫌悪が混じっているのを見て、ユージンは暗い思いが胸に沈むのを感じた。


──ゴタルムは、難しい土地だ。


 ここに来る途中、赤竜の中で聞いたルィヒの言葉が耳の奥によみがえった。


──表向きはクィヤラートに融和したとはいえ、汞狼族は深い谷底に住み、人と交わろうとはしない。彼らの文化も統治の仕方も、明らかになっていない事の方が多い。……しかし、〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉の護衛として戦士を遣わす時にしか、人前に姿を現さないという事は、やはり、我らの祖先がした事を、許してはいないのだろうな。


 カルヴァートがたった一人で故郷に帰った事も、ある意味、ルィヒの推測を裏付けていた。

 もしも、汞狼族が〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉に選ばれて共に旅をする事を真の名誉だと感じているのなら、さとの者にもひと目会ってほしいと考えるだろう。歴代の〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉がどんな性分しょうぶんの娘であったかはわからないが、少なくともルィヒは、それをつっぱねるような性格ではない。

 彼らの住む土地が、人間の足ではとても下りていけないような険しい谷底にあるとはいえ、汞狼族の者達が地上に出て行く事は可能なのだから、それすらしないというのは、我々は決して〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉を妄信的に崇めはしない、という意思のあらわれでもあるように思えてならなかった。


──クィヤル熱に罹らない汞狼族からすれば、わたしなんぞ、ただ老いず、死ににくいだけの、薄気味悪い存在だからな。むしろ、早くいなくなってくれた方が、人間が死にやすくなってありがたいと思っているかもしれないよ。


 満天の星を見上げながら、ルィヒは冗談めかした口調で呟いたが、その瞳には深い悲しみが宿っていた。

 強靱な戦士団を持つ汞狼族の動向に四六時中目を光らせていなければならないゴタルム領主の心労は、並大抵のものではないだろう。だからこそ、末永い王家の庇護を約束する証として、イゼルギットが養女となったのだが、彼女と領主の間ではぐくまれた絆は、彼の策謀を食い止めるせきとしては不十分だったのだろうか……。

(いや……)

 ユージンは、眉をひそめた。

(もしかしたら、本当に国王が一枚噛んでいるのか?)

 ただ一人、国王の名を呼び捨てに出来る王族きっての長命者という立場を利用して鎌を掛けたのかと思ったが、ルィヒはラァゴーが背後にいる事を確信しているのかもしれない。

 そもそも、イゼルギットと領主を養子縁組させる決断を下したのも、ラァゴーのはずだ。計略の主導者が国王だと思う事が出来れば、王家をあざむく罪悪感に悩まされる事もない。

 生涯をかけてゴタルムを治めなければならないという重責。──そこに、国王から、ルィヒを捕らえて差し出せば、目もくらむような褒美を取らせるという話を持ちかけられたとしたら?

 ほんの一瞬、ユージンの集中が途切れた隙を、手練てだれの衛兵は見逃さなかった。

「彼に手を出すな!」

 衛兵の動きに気づいたルィヒが叫んだ時には、ユージンの背後から短弓の矢が放たれていた。

 ユージンはとっさに体をねじって矢を避けたが、その時に生じた死角から別の衛兵が彼に組みつき、両腕を後ろにねじり上げて地面に押し倒してしまった。

 ユージンは痛みに呻きながらも急所をかばおうとしたが、それよりもわずかに早く、剣の鞘で側頭部を打たれて昏倒こんとうした。

「貴様ら……!」ルィヒは怒りにぎらつく赤い瞳で、領主を睨んだ。「これがどれほどの無礼にあたるか、わかっているのだろうな」

 領主は悪びれる様子もなく、落ち着き払った口調で答えた。

わたくしどもが考えなしにそんな行為に踏み切るやからではない事は、イゼルギットから伝わっているものかと」

 ルィヒは、唖然あぜんとした。──それは、ラァゴーの関与を示すには十分すぎる一言だった。

 気を失ったまま、後ろ手に縛られて引きずられていくユージンを、ルィヒはただ見つめているしかなかった。

 今、ここで剣を抜き、小竜を操って衛兵達を制圧する事は不可能ではないだろう。だが、それは、小竜から無条件の信頼を寄せられている〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉として、許されざる行為だった。

赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉に恭順を誓わせる取引材料になる、と判断されれば、ユージンは殺される事はないはずだ。

 ルィヒは唇を噛んだ。

赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉の捕縛を試みた者など、一人として過去にいなかったから、彼らは知らないのだろう。──自分は本当に不死なのだ、と。

 骨まで削れるような深い傷を負っても、見えざる神の指がり合わせるようにたちどころに塞がる。手足を切り落とされれば、残った体から新しいものが生えてくる。ルィヒの体は、生まれた時から、そういう風に出来ていた。

 実際にその場面を目の当たりにした男達が、どんな興味を抱くか……。それは、考えたくなかった。

 ルィヒは目をつぶって、ゆっくりと、気持ちの昂ぶりが引くのを待った。

(ユージンという人質がいても、わたしの行動を、ある程度制限しておく必要がある。……毒が使われる可能性が、高いな)

 ルィヒは静かに目を開き、領主を見上げた。

 そして、彼の前に膝をつくと、剣帯をほどいて地面に置いた。

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