第23話 天賀谷聖良

 幼い日。俺たちの暮らしていた土地は偏狭だった。


 悪事千里を走るというが、天賀谷家が金だけはある特殊な家庭だという事実は、その土地ではほぼ常識だった。

 ただでさえ他者比較依存の傾向にある日本の中でも、俺たちが暮らしていた土地は嫉妬の気風が強かったように思う。


 表立って、公共住宅の子供と遊ぶな。そういう差別を受けたわけではない。


 聖良も言っていたように、別に俺はクラスに混じってクソガキをやる選択肢はあった。


 だが俺が3DSを片手に妖怪メダルをかき集める通過儀礼に参加しなかったのは、ひとえに妹の存在があったからだ。


 従って、彼女が言っていた内容は的を射ている。妹がいなければ混じれていた。

 特に自他の境界が曖昧な幼いコミュニティにおいて、付和雷同に順ぜぬ存在は和を乱す異分子であり異教徒だった。


 天賀谷聖良は周囲を妬みやすい少女だった。


 母親の遺伝的形質を色濃く継いだ妹は、生まれつき頭が良かった。

 それは人間的な賢さではなく、計算機や生成AIのような事実の前後確認に長けた賢さだったが、ともかく彼女は、世界が自分たちのようなイレギュラーを前にすると何もできない事実に、いち早く気付いてしまった。


 例えば両親とのふれあいクラブや、親子で参加する企画みたいなもの。母の日や父の日に感謝を捧げる催し。友情を深める名目で開催されるスポーツ大会、運動会、校内レクリエーション、地域での祭り。


 それらは全て人と人との絆が試されるものであり、客層として想定されている中に自分たちが入っていないことをとっとと気付いてしまった。


 普通の家庭には親がいるものだし、ましてや両親は年端もいかぬ子供を正論で諭したりしない。あらゆる感情を、淡々と、眉一つ動かさず、論破したりなんかしない。


 それは彼女らなりの教育だったのだと思う。

 彼女らは幼い日から感情を理性で制圧することの出来る存在だった。両親の卒業アルバムを紐解いても、彼女らの笑顔は一目で作り笑顔だと分かる。


 親族から機械と呼ばれていることを知っているが、本当に何一つ動じていない。


 そういう人間が社会的な勝利を得られたから、きっと自分なりに正しいと感じたことを娘や俺に施したのだと、今となっては想像することができる。


 だが残念ながら、聖良はそこまで理性が成長することはなかった。欲しいオモチャを買ってもらえないから、トイザらスの床で泣き崩れるような幼さを持っていた。

 だから親の信じる正しさは、聖良にとってはネグレクトに分類されるものになった。


 そして大人たちは言葉の裏に、経済格差に根付いた偏見を忍ばせていた。

 でも、あなたはお金のことで頭を悩ませる必要はないでしょう? だって天賀谷家のご両親はとても優秀な人たちで、貧苦に喘ぐことなんてない。


 だからあなたは恵まれているの。それ以上を望むのは、贅沢じゃない?


 金持ちのくせに。


 聖良が馬鹿ならよかった。だが妹は言葉の裏に敷かれた本性を見抜ける知能があった。


 ゆえに天賀谷聖良は、世の中をそねむように育った。



 聖良が小学2年生の頃、クラスでハリー・ポッターの劇をした話をしよう。ダーズリー夫妻に虐げられて育ったハリーを、聖良のクラスメイトたちは同情していた。

 可哀想だ、あってはならないと。例え養子だろうが、親は子を愛するのが義務であろうと。


 思い返せば、妹が癇癪かんしゃくを起こしたのはあれが初めてだっただろうか。


 何があったのかは胸糞が悪いだけだから、割愛する。


 事実だけを語れば、妹は保健室登校を推奨されるような顛末に終わった。

 特別支援学級入りを果たすには、労せずして全ての教科で100点を取れる妹は能力が高すぎた。


「あなたが起こした行動よ。

 憤懣ふんまんやるかたない感情は考慮に値するわ。ただし、我慢する道はあった。穏便な道を選ばなかった責任は聖良に帰属するわ。どうするべきか、今度どうしたいのか、あなたが考えて決めなさい」


 母親は一連の騒動について、それしか言わなかった。

 端的に事実だけを捉えていたため、感情で訴えても容易く受け流された。


 朝、菓子パンを食べに部屋から出てくる機会が激減した妹を前にして、俺は友人たちを切り捨てることに決めた。


 人間関係のほとんどを妹に限定するようになってから、聖良はちらほらと笑顔を浮かべるようになっていった。

 それは兄と手をつなぎながら映画の虐殺シーンを観ている歪なものだったが、ともかく聖良は笑うようになった。


 俺は幾度となく、自分の女のことを、幼稚で偏屈でプライドが高いと評価してきた。


 無理に妹を褒めたくない。

 それは聖良のことを直視していないことと同義だからだ。あいつはそういう人間だという事実から、決して逃げてはならない。


 そこから、散々語った通りだ。


 軽蔑を滲ませて妹との関係を揶揄してきた奴らを、俺は殴り倒した。

 人間に失望した。


 まだクチバシの青いガキが一丁前に絶望してんじゃねぇ。世の中にはもっと苦しんでいる人たちがわんさかいるのだから、被害者面してんじゃねぇ。


 そういう意見も理解できる。


 でも俺は失望した。失望したから殴り倒した。事実はそうなっている。


 奴らは被害者になって、妹に塁を及ばせない思惑通り、天賀谷和也は野卑なDQNとして処罰された。


 この話について、これ以上語ることはない。


 聖良は心療内科で診断を受けた方がいいって?


 いや、頑張っても普通になれなかったって言っていただろ。察してくれ。世の中にはどれだけ努力しても叶わないことだってあるんだよ。


 正しさで叩き潰そうとしないでくれ。傘持って来たりお弁当作ってくれるくらいには、優しい女の子なんだ。


 妹の周りくらい、平和であってもいいだろ。なぁ。


 ※ ※ ※


「……兄さん?」


 布団の中で聖良が呼び、俺の意識は夢の中から現実へと帰還した。


 シャンプーと、例のトリートメントの匂いが充満している。

 わずかに汗ばんだ妹の身体は、俺の腕の中にすっぽりと収まっていた。拍動は早くもなく遅くもなく、そうあるべき形のように安定したリズムを刻んでいる。


「どうした……? 暑いか?」

「うなされていたので」

「ああ……」


 昔の夢を見ていたと、説明した。


「私も殴れればよかったのですが」

「もういいだろ、その話。終わったんだし」


 聖良は鼻を鳴らして拗ねるものの、布団の中から逃れようとはしなかった。


 海でさほど遊んでいないにも関わらずこれほどの倦怠感が襲うのは、やっぱりああいうことをしたからだろうか。だとしたらエロコンテンツなんて嘘ばかりだ。普通の人間が何連戦もできるはずがない。


 まあ嘘だからこそ気楽な側面だってある。どんな時でも正論を突きつけられたら、誰だってうんざりするだろう。


「兄さん」

「なんだよ」

「……察してください。私が目を閉じたのですから、これからは即座に理解してもらわなくては困ります」


「ああ……」

「なんですか、その生返事。私はこう見えてももの凄く嫉妬深いので、軽んじられると自尊心が傷付くのですが? 面倒な女を抱いた己を恨みなさい」

「あんま抱いたとか言うな」


 線の細いおとがいを包み込むと、こちらを向かせた。


 お袋が帰ってきて、こうなったと言っても、きっと彼女は平静を保っているだろう。

 そうして普段通りの調子で珈琲を飲みながら、こう答えるのだ。

 「あなたたちが考えた末に出した結論なら、私に止める権利はないわ」と。


 親がそういうスタンスなのは幸運なのだろうか、そうではないのだろうか。


 銀色の橋が架かって、下向きになっている聖良の唇まで崩落した。

 微熱の余韻を残しながら、聖良は俺の胸に鼻先を埋めてくる。

 後頭部を撫でると、懐いた猫みたいに鼻を鳴らした。


「聖良」

「……ん、なんです?」

「生徒会やれそうか?」


「……正直なところ」妹は小さく深呼吸した。絡み合っている足に、体重がかかった。「やりたくないです。全部、放棄してしまいたいです」

「そうだな」

「……しかしながら、私の感情を理由に放棄することは逃げです」

「というと?」


 続きを促すと、聖良は胸から顔を離す。そのまませびってきたので、もう一回してやった。くすぐったそうに喉を鳴らす。汗ばんでいたので掛け布団を持ち上げると、除湿の利いた涼しい風が入ってきた。


「ある意味、こういう関係になったのも、私は兄さんへ逃げたんだと思います」


 お前がそうなったのはお前の責任じゃないんだから、別に逃げたっていい。そうやって慰めることは簡単だが、俺は沈黙を貫いた。金だもの。


「兄さんは、全部を許してくれました。

兄さんの近くにいると、その、私はとても楽になれます。

人の気持ちを考えることも、得られぬ羨望を抑圧する必要もないからです。私が兄さんさえいてくれればいいと言ったのは、そういうことです」


「嬉しいよ」

「ですが、社会はそうありません」


 冷たい口調だった。生徒会に対する甘い願望を語った際のような、諦めた口調だ。


「私達のために世界があるのではありませんから、社会の恩恵を受けるためには、ある程度の譲歩が必要です。160円でアクエリアスを買うでしょう? 原理的には同一のもの。兄さんと私だけで生きていけるのなら、それでいいでしょう。でも現実はそうじゃないんです。決着をつけねばならないものが、数多くあります。

 今日みたいな醜態を晒すこともある……と、思います」


 しがらみとは、生きてきた史跡だ。

 快刀乱麻を断つように、それらを一掃することはできない。そこには普通も異常もなく、生存の必要経費なのだから。


 聖良はやにわにはにかんだ。


「だから兄さんは、ずっと私の傍にいてください。

そうすれば、翼がなくても、人間が嫌いな生き物でも、辛うじて生きていける気がします」


 俺は答えた。


 「わかった」


※誤字脱字を修正しました。

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