第10話 Aster Garden 1

 赤信号を待っていると、向かい側の通りで男子高校生が、杖突きのお爺さんを連れて横断歩道を渡っていた。彼と同じ制服を着ている僕は、その様子をただ眺めているだけ。


 この街に越してきてから、およそ二週間。道端でよく見かける人助けの光景にも慣れてはきたけれど。いざ自分が助けるとなれば、まだまだハードルが高く感じられてならない。


 上手く助けられなかったらどうしよう。失礼だと思われたらどうしよう。——そんな懸念が困っている人を見かけるたびに思い浮かんで、罪悪感を抱きつつも見ないふりをしてしまう。


 自分はいま急いでいるんだ。もちろん助けられるなら助けるさ。でも、今回は自分も状況が良くないんだから仕方がない。なんて言い訳を心の中でぶつぶつと呟きながら、居るに堪えないその場から足早に去っていく。それは、いわば街の外側における暗黙の処世術。


 この世に悪意が存在する以上、善意を行動に移そうとする度に、自分の社会的地位がおびやかされるのは仕方のないことだ。善意も悪意も、目で見て判別できるようなものじゃない。だからこそ、心停止で倒れている女性に遭遇したなら、放っておくのが男のセオリーなのである。


 だけど、この街でそれをしてしまえば、正気を疑われてしまうだろう。


 僕だって人助けをしない主義ではない。だが、いつでもするのかと言われれば、そうでもない。結局は状況次第で、この胸の良心が恐怖心に対抗して勢い付いたときくらいだけ。そんな僕は正真正銘、外の慣習が未だ身体に染みついたままの人間だった。


 僕はこの街で暮らし続けてもいいのだろうか。神の落涙も道徳研修も、その効果が僕には全く表れていない気がする。


 研修期間中、周りの誰もが次々と怨霊に様変わりしていく中で、僕はひとり肩身の狭い思いをしながら研修をやり過ごしてきた。いつ教官が僕の不具合に気が付いて、糾弾しに来るか分からない。そんな恐怖と隣り合わせの時間を、僕は過ごしてきたのだ。


 不安になって自主的に受けた検査によれば、神の落涙は間違いなく、僕の身体に作用しているらしいのだが。本当なのだろうか。全く以って実感に乏しい。


 横断歩道を渡りきったお爺さんは、高校生に向かって頭を下げる。彼らが丁度別れたところで、目の前の信号が青になった。


 慣れない通学路を歩きながら、僕は視線を足元に落とす。歩道には、吸い殻一本さえ落ちてはいなかった。そういえば、この街に来てからは一本たりとも見た記憶がない。道端の側溝にも、バス停のベンチにも落ちてはいない。コンビニに並んでいるのは見かけるので、吸う人がいない訳じゃないと思うけど。きっと各々、マナーを心得たうえで楽しんでいるのだろう。


 こんな些細なことからも、人々がお互いを思いやって暮らしている、そんな心意気が伝わってくる。良い街じゃないか。何を不安がる必要なんてあるのだろう。充実した高校生活を送るのに、この街は最高の舞台になるはずだ。期待して大丈夫。


 自分にそう言い聞かせてみるが、そんな暗示も虚しく、僕の内心は暗いままだった。

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