(3)――「ら、ライがおかしくなった!」

 ある日のこと。

 気がつくと、少年はひまわり畑に居た。

 じりじりと肌を焼く夏の日差し。雲ひとつない真っ青な空。息も詰まるような暑さ。そして、視界いっぱいに広がるひまわり。人影はなく、辺りは不気味なほど静まり返っている。

 周囲を一望できる、小高い丘の上。

 そこに一本だけ生えた木の側に、少年は座っていた。

 少年は、目前の光景を吟味し、その赤い瞳を細める。

 自分はついさっきまで、別の場所に居たはずなのに――と。

 しかし不思議なことに、直前の記憶が見当たらない。なにか薄い膜を張られたように、ぼんやりとしている。

「おいお前、そこでなにをしている?」

 不安で蹲る少年に、ふと声が降ってきた。

 見上げると、そこには魔女が居るではないか。

 少年がそれを魔女と一目で判断できたのは、彼女が魔女然とした格好をしていたからに過ぎない。

 つば付きのとんがり帽子。口元から足先まで全身をすっぽりと覆うローブ。そして、片手に箒を持っているとなれば、百人が百人、彼女を魔女と思うだろう。それだけの話だ。

「……ネリネ?」

 ほとんど顔も見えない状態の魔女を見て、少年は零すようにその名前を口にした。

 途端、張られていた膜を突き破り、これまでの記憶が流れ込んでくる。

 暗闇の森に封じられているはずの、心が読める不死身の魔女。

 少年の命の恩人であり、少年自らの手で殺すと誓った魔女本人だ。

 森の封印は強固で、魔女でさえ破れないものだと、少年は聞かされていた。それが何故、暑苦しい格好をして、真夏のひまわり畑に居るのか。

「なんだお前、私を知っているのか」

 怪訝そうに言った魔女は、少年をじろりと見回し、小さくため息を吐く。

「昔、どこかで会ったか? お前のように美しいものを、この私が忘れるはずないと思うのだが……」

「え?」

 少年は、思わず言葉を失った。

 魔女とは、つい先刻も彼女の殺害に失敗し、さんざ人の殺しかたについて講義を嫌々受けたばかりであるというのに。

 どうして目の前に居る魔女は、少年そのものを知らないような態度をとるのだろうか。

 魔女が少年を知らない。

 たったそれだけの事実が、少年の胸を強く抉る。

「そうがっかりするな。私の記憶力は人並みなんだ、一人や二人、忘れることもある」

 少年があまりに愕然としていたのか、魔女は憐れむように言う。

「お前、名はなんという?」

 そして、少年と出会った日と同じ問いを投げかけてきた。

 悪い夢でもみているようだ。

 少年はそんなことを考えながら、一縷の望みを賭けて口を開く。

「ライ。僕の名前は、ライだ」

 それは、魔女自身が少年につけてくれた名だ。

ライLie? 変わった名だな。誰がそんな名前をつけたんだ?」

 しかし魔女は、少年の名を耳にしてもなお、初対面の体を崩さない。

 芝居ではなく、彼女は本当に少年を知らない様子だ。

「あんただろ……」

「うん? なにか言ったか?」

「なんでもねえよ」

 わけがわからず、少年は膝を抱える。

 長い間忘れていたほうが不思議なほどの煢然けいぜんとした思いが、少年の内側を占拠する。

「お前、迷い子か?」

 魔女は、再び小さくため息を吐いたかと思うと、少年の隣に座った。

「迷子じゃない」

「どこから来たか、覚えているのか?」

「……暗闇の森」

「ふうん? 知らん場所だな。ここから遠いのか?」

「……」

「しょげるなしょげるな。せっかくの美しい顔が台なしだぞ?」

 そう言って少年を宥める魔女の瞳は、少年がよく知る優しいそれだ。

 だからこそ、余計にわからない。

 ネリネにしか見えないこの魔女は、一体誰なんだ?

 そんな疑問が、少年の頭の中でぐるぐる回る。

「大丈夫だ、安心しろ。私がお前を、必ず元居た場所に返してやるからな」

「……うん」

 言動も仕草も、少年の知る魔女そのものだ。

 それなのに彼女は、少年のことを知らないと言う。

 わけのわからない状況を打破しようと、少年は魔女に問いかけることにした。

「あんた、他人の心が読めるよな?」

 少年からの問いに、魔女はひどく驚いたように目を見開いた。

「ほう、私はお前にそこまで話していたのか。しかし、うむ、お前になら話していてもおかしくはないか」

 ぶつぶつとなにか考え始めた魔女に、少年は、

「いいから。答えろよ」

と、割り込むように言った。

 その様子が面白かったのか、魔女は軽くからからと笑う。

「読めない。それはまだ習得中だ」

 その答えに、今度は少年がきょとんとする番だった。

「生まれつき読めるんじゃないのか?」

「生まれつきは、この不死身の身体だけだ」

 お前はもう知っているかもしれないが、と魔女は続ける。

「気味の悪い化け物と非難され、ついさきほど街を追い出されてきたところなんだ」

 言いながら、魔女は帽子を取り、口元まで覆っていたローブを僅かにはだけさせる。

 そこに隠されていたのは、ひどい火傷だった。

 傷は、まだ新しい。

「……」

 少年は、知っていた。

 手足がもげようと、一週間後には新しく生え変わっているような治癒力を持つ魔女だが。裏を返せば、一週間という時間を要するということを。

 この火傷は、恐らく数時間前に受けたものだろう。

 自身の身体の扱いが雑で傷の耐えない魔女を知っている少年は、そんな風に彼女の傷を分析する。同時に、理屈はわからないが、この魔女がネリネ本人で間違いないことも確信した。

「とはいえ、今回は早々に街を追い出されて正解だったかもしれない」

 魔女は、少年の真っ白な髪を撫でながら、続ける。

「お前のように美しいものと出会うことができたのだからな」

 それに、と魔女は、視線を少年からひまわり畑に移す。

 その瞳には、空の青とひまわりの黄色が映り込んでいた。

「これほど見事なひまわり畑は、長いこと生きているが初めて見た。人間も、たまには良いことをする」

 酷い火傷を負った顔で、恍惚とそう言う魔女を見ていると、少年は嫌な胸騒ぎがした。

 まるで、そのまま解けて居なくなってしまいそうで。

「――ネリネ!」

 少年は思わず魔女の名を叫び、彼女の袖を掴んだ。

「大丈夫、私はここに居る。これまでも、これからも、ずっとな」

 にいっと笑みを深めて、魔女は言う。

 これは、魔女が本心を隠そうとするときにする仕草だ。

 そこまでわかっても、少年には魔女の本心まではわからない。

 少年には、心を読む術がない。

「私はどこへも行けない。それは、ライ、お前が一番よく理解していることだろう?」

「それは、暗闇の森のことを、言ってるんだよな……?」

 少年の問いに、しかし魔女は答えない。

「お前と会えて、本当に良かった。どうやら私は、化け物扱いされて森なんぞに閉じ込められていても、存外楽しめているらしい」

「なっ、まさか、僕の心を読んで……?!」

「習得中、と言ったはずだ」

 言いながら、魔女は少年の腕を掴んで、共に立ち上がる。

「さあ、元居た場所へお帰り」

 魔女はそのまま、少年を軽々と上に向かって放り投げた。

 投げられた少年の身体は、そのまま空へと向かって上昇していく。

未来そっちの私に、よろしくな」

 魔女の姿が、一本の木が、ひまわり畑が、遠のいていく。

 遠くなって、小さくなって。

 そして。

「……」

 気がつくと、少年は書庫で仰向けに倒れていた。

 瞼の裏に青空とひまわり畑がこびり着いているような錯覚を覚えながら、少年はぐるりと周囲を見回す。

 ここは、暗闇の森の中にある魔女の家――その書庫だ。

 掃除をする為に書庫へやって来た少年は、書架の埃を払う為に踏み台を使い、上の段へと手を伸ばしたが、バランスを崩して転倒してしまったのだ。反射的に手を伸ばしたとき、指先が触れたのだろう、少年の周りには本が数冊落ちている。ちょうど、普段は閲覧を禁じられている書架だったようだ。

 あのひまわり畑や火傷を負った魔女は、頭を強くぶつけて見た夢か幻だったのだろうか。

 そんなことを考えながら、少年は身体を起こす。

 刹那、どたどたと大きな足音を立てながら、血相を変えた魔女が書庫に姿を現した。

「大丈夫か、ライ?! すごい音がしたぞっ?!」

「……」

 少年の身を案じる魔女の顔に、火傷の跡はない。

 しかし、少年に向ける眼差しは同じだ。

「おい、本当に大丈夫か? 私が誰か、わかるか?」

「……ひまわり……」

「ら、ライがおかしくなった! ……ん?」

 動転する魔女は、しかし少年の側に落ちていた一冊の本が目に止まると、ああなんだ、と納得したように肩を竦めた。

「懐かしいものを見ていたのだな」

 一冊の本をひょいと手に取った魔女に、少年は首を傾げ、

「それ、なんなんだ?」

と、魔女に尋ねた。

「これは、日記のようなものさ」

 懐かしむようにページを捲りながら、魔女は言う。

「この森に封じられる前の記憶だ。そうそう、このひまわり畑は特に美しかった。だから、ライに見せたくなったのだろうな」

「そんな、まるで記憶が自我を持ってるみたいな言いかたするなよ、ややこしい」

「なにを言っているんだ、ライ。魔女の記憶が自我を持つのなんて、日常茶飯事だぞ?」

「へ、へえ……」

 魔法に関する知識に疎い少年は、曖昧な相槌を打って誤魔化した。

「私を殺してこの森を出たら、一度行ってみると言い。この記憶は随分と前のものだから、現存している保証はないがな」

「……ふうん」

「んん? なんだ、ライ。お前、私と一緒に見に行きたいのか?」

「なっ?! 微塵にも思ってねえよ、そんなことっ!」

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