深き窓辺、最前線。

山城渉

始まり、それは終わり。

「信頼を視るのは簡単よお」

 たおやかに靴紐を結び直したルーは、樹海の賢者らしき振る舞いで杖を揺らした。大木にもなるホワイトエーバーから作られたそれは、いましがた不自由になった彼女の足の代わりとして申し分ない強度をしている。

 彼女の足元には、既に何人もの住民が寝巻きのまま倒れていた。更に周囲には、彼らが手にしていた武器が散らばっている。

「残念ねえ、お見通し」

 背後に迫っていた剣士をひらりと躱して、杖の先が石畳を叩く。すると、地面に散らばっていたアニワラの穎果が勢いよく弾け、剣士を襲った。

 剣士が痛みに呻いて臥伏せるのを見てから、彼女は私の方へとつま先を向けた。

 ひとまずの脅威は去ったようだった。

「うふふ。アニワラは暗い所で刺激を受けると破裂するのよ」

「平気かね、ご深窓」

 店屋台に近づいてくる彼女に問いかける。

 手押し車を土台とする屋台はルーの商売道具であり、彼女が市街にくりだす際の私の定位置でもあった。ルーが一から制作したせいか造りは精巧とは言い難く、私が引いて歩くのにも少々コツがいる。

 杖を握りしめた彼女が嬉しそうに顔を綻ばせたのが、ランタンにほのかに照らされて見えた。

「まあ。心配してくれるの」

「……お転婆も程々にしたまえ、全く」

 私は眉間に皺を寄せた。

「内部破壊の魔法だな、毒の臭いだ」

 私の視線が自身の脚へと注がれていることに気がついたルーは、分かりやすく目を逸らす。

「角を使えばすぐに」

「だめよお」

 ルーの首が、飛んでいきそうなくらい左右に振られる。

「そんなことしない、治るもん。ちょうどほら」

 彼女は屋台の中に入れられたいくつかの鉢植えに手を延ばした。取りつけられていたランタンが揺れて、我々の影がぶれる。

「ウムの芽ジュースに」

 鉢に傷がついていないか確認しながら、ルーの細腕が的確な物を選び取っていく。

「樹海の泉で育てたリュワの根」

 なにも生きている植物だけが彼女の商品ではない。

「それからセルバニエを乾燥させて粉末にしたもの。あらあ、ちょっと贅沢?」

「呑気なことを言うんじゃない」

 ぱちくりと大きな瞳を瞬かせて、また彼女はおっとりと笑んだ。ルーが纏う清涼な空気は、平時の彼女となんら変わりはない。目が合えば、あらこんばんは、などと言いだしそうな表情だ。今宵、彼女は、この街に住む半数以上へ沈黙を贈っているというのに。

 私はルーの足を見るために頭を垂れた。彼女が受けたのは、笑って済ませられる程度の損傷ではないと思うのだが。

 しかし、額にルーの手がふわりと添えられる。見上げると彼女の視線は制止の意味を孕んでいるようだった。

 私はそっぽを向いた。

 ルーは眉尻を下げて笑って、持っていた杖を傍に立てかけ、屋台に身を預けた。木造が軋んで、少し傾いた。

 彼女の靴紐がまた解けかけていた。

 正しい量を正しい順に。ルーの鮮やかな調合技術には目を見張るものがある。私は彼女の手捌きを両目で捉え、しばし見惚れた。

 足踏みして、早逝の落ち葉を蹄が鳴らす。

 私に応えるかのように、ルーは頷いた。

「ええ、さすがにちょっと寒いわねえ。もうマッルドツリーは蔦を落とした頃かしら」

「帰ったら見に行くといい」

「なら北側。ウィシシゴシとメルの蕾もついでに……そうそう、あとツ・フェウの茨も」

 彼女が目を細めた。

「エウクレースが換羽を始める前に。うふふ」

「まだまだ先だよ」

 不満気に羽ばたいてみせると、ルーはまた、しなやかな褐色の手で私の鼻筋を撫ぜてきた。もう片方の手は小さな棚の戸を引き、凝った装飾のガラス瓶を取りだしている。

 彼女は調合した解毒薬をこれに丁寧に移した。

 奇妙な赤土色の薬はわずかに濁っていた。

 ルーは一気にそれを呷った。

 そして咽せる。躊躇いが無さすぎたようだ。

 私は静かに笑った。と同時に、彼女の足元にあった、あの嫌な気配がたちまちのうちに消え去っていくのが分かる。

「大した手腕だ、ご深窓」

「ううん、ちょっと変な味」

「ゴールデンピテは?」

「ああ、搾ってない。それでかも」

 顔を顰めた彼女は鉢を元の場所に戻す。

「今日はいらないと思って、置いてきちゃったの。風味づけって大事ねえ」

 のほほんとした表情でルーは思案に耽っていた。

 微かな鉄の臭いがした。

 私は頭を上げ、耳を動かした。

 石畳を慌ただしく駆けてくる者がある。かなりの数だ。

「お客のようだ、ご深窓」

「あらあ」

 他人事めいて、ルーは屈み、靴紐を結びなおした。

 彼女が起きあがり、杖を手にした時には、街の衛兵たちが屋台を囲みきった後だった。物々しい雰囲気の中でも、ルーはどこかのほほんとしていた。

「樹海の賢者さま」

 隊列をかき分けて、ある一人がスラリと前に出る。

 それは、ルーと同じくらいの歳に見える女性だった。明け方近いこともあってか身なりは十全とはいえない。しかし彼女には、凛とした気品が感じられた。

 彼女の金色の髪と紺碧の瞳が松明に照らされ露わになる。

 私は合点がいき、わずかばかり目を伏せた。

「あらまあ」

 ルーはといえば、私のいる方向とは反対に首を傾げた。

「これはこれは」

 数秒程押し黙ったのち、ルーが膝を曲げた。

「ご機嫌あそばせ、緑の国の青い鳥」

 私は、そのルーに、幾度目か分からない初恋を抱く。

 あまりに麗しい所作であった。舞い降りた天使のような純潔さだ。

 その美しさに目を奪われている様子を見せていたのは、衛兵たちだけでなく、眼前の彼女もまた同様だった。

 ルーが彼女を見上げる。拳二つ分程、ルーの方が小さかった。

「この街を、あなたが?」

「左様です。お初にお目にかかります、樹海の賢者さま。わたしはディルと申します」

 そう言って彼女はルーに負けず劣らずの、流麗な仕草で礼を返した。

「どうかこれ以上この街に危害を加えるのはやめて頂きたく存じます」

「まあ!」

 のんびりしたルーの声が響いた。

「まあまあまあ」

 ルーのくすくす笑いに、ディルは眉根を寄せる。

「だめよ、先に約束を反故にしたのはそっち。樹海には侵攻しない。樹海の物をお望みなら、あたくしが手配する。そうだったでしょう?」

「それに関しましては深くお詫び申しあげます。わたしの力の及ばぬところ、誠に心苦しい限りでございます。ですが、だからといって直接街へ危害を加えるというのは」

「樹海を踏み荒らしておいて、この街は踏み荒らすなというのね」

「無関係の住民や冒険者たちにまで制裁を与える必要などないはずです」

「あらあ。樹海にいらした方たちは、そこで息づくものを無差別に傷つけていったけれど」

 事もなげにルーが言ったのを、ディルは信じられないといった様子で聞いていた。

 唖然とする彼女を尻目に私は尻尾を揺らした。

 私が突然動いたことに驚いたのか、衛兵たちがざわめく。

「……人とそれ以外は別物です、樹海の賢者さま」

「いいえ」

 キッパリと彼女は首を横に振る。

「流れる時間は同じ、同じ命よ。樹海を侵した。この事実が、緑の国においてどれ程の意味を持つか。知ってもらわなくては、ちゃあんと」

 ルーが一歩踏みだす、損傷している右の足だ。そしてから、彼女は未だ倒れている人々の方を指した。

「あたくしは甘んじて、一撃」

 彼らを指した手をしなやかに裾に添え、彼女がそれをたくしあげる。

 ディルが、衛兵たちが、息を呑んだ。

 それが淑女にあるまじき挙動だったからではない。

 ルーの右足、膝から下が、鬱血したように赤黒く染まっていたからだ。皮膚の下で筋肉も骨も損壊しているのが明らかな痛々しさだった。靴の中は窺い知れないが、おそらくはつま先まで同じ状態だろう。

 当然といえば当然である。彼女が先程飲んだのは、あくまでも解毒薬にすぎないのだから。

「ま、まさか、これは……内部破壊の」

「それが彼らへの敬意です、ディル」

 ディルがやっとの思いで紡いだであろう言葉にも、彼女は淡々と答えてみせる。

「これが自然の理です、青い鳥よ」

 ルーの、なんら違わぬ調子で笑んだのが、彼女の背中越しでも分かった。衛兵たちは鎧兜を身につけていたが、情けないくらいに皆一様に、驚愕で身をすくめさせていた。

 私は得意になって口角を上げた。

 内部破壊の魔法。

 人体に向けて放つことが禁じられた、特殊魔法。万国において共通の認識として取り決められた、珍しい禁則だ。

 ルーの右足を見れば、理由は言わずとも分かるだろう。

 そんな魔法をかけられてなお、想像を絶する痛みの中でなお、柔和な物腰を崩さずにいられるルーに対して、彼らは畏怖すら覚えているようであった。

 流石は私の宝石アメトリンである。

 私は青ざめているディルを見た。彼女の顔を伝っているのは、冷や汗だ。

「オオネコ……」

 誰かが、思わずといった拍子で口走った。聞くや否や、衛兵たちに動揺が広がった。

 張り詰めた空気がさらに息苦しくなる。

 ルーが一変して冷ややかな視線を飛ばした。

「まあ」

 その鋭さに、ディルの体が強張った。

「緑の国が誇る夜警師団ねえ。なぜ、その名を、今?」

 誰かが口を開くよりも先に答えは示されることとなる。

 樹海からパッと明るい光が閃いた。突如として訪れたことであった。

 かと思うと、大きな爆発音が轟く。私たちがやって来た方角、ちょうどルーが拠点にする辺りだ。

 焦げた臭いが立ち込め、私の頭にカッと血が上った。

「エウクレース」

 諌めるようなルーの呼びかけがなければ、我を失っていただろう。

 私は今すぐにでも飛んでいきたい気持ちを抑え、屋台を引いて、彼女の元へ歩み寄った。

 ルーはいつもののんびり顔で振り返り、私の額をいつもと変わらぬ調子で撫でた。彼女の瞳は、樹海から上がる爆煙をじっと見ていた。絶望も失望もない、ただ澄んだ泉のような眼差しで。

「緑の国は」

 ディルが慎重に、言葉を選びながらという感じで辿々しく話す。

「樹海への不可侵の掟を……撤廃、致します」

 それから、眉尻を下げてルーを見た。

「樹海の賢者は、反抗の恐れあり……樹海内の拠点を破壊し、賢者の身柄は王城へ、との通達です」

「……あらあ、そう」

 彼女の唇は変わらず、ゆったりと言った。

「では、オオネコが、あたくしのおうちに?」

「はい」

「つまり、あたくしは誘きだされてしまったのねえ」

「…はい」

「今夜の取引は、そのため?」

「……申し訳、ございません」

「あらあ、いいのよ」

 ルーはけろりと言ってのけた。

「あたくしを留守にさせ、オオネコをそちらに向かわせたのは、あなたの采配でしょう。わざわざそんなことしなくとも済んだはず。なのに、そうした」

「それは……あなた様が必要以上に傷つかぬようにと」

「だと思った! ふふ、優しい心の持ち主だわ、ディル」

 ルーのその態度に、彼女を始めとし、皆が安堵の表情を浮かべているのが見えた。

 特に衛兵たちは顕著だった。

「ふん」

 私は不愉快を隠すことなく足を踏み鳴らした。

 オオネコが、国が後ろ盾についていると考えれば、彼らが勝ち誇ったような顔を禁じ得ないのも理解はできる。至って気に入らないが。

 ディルが改めて告げた。

「樹海の賢者さま。あなたを拘束させて頂きます、よろしいですね?」

 ルーが片足を軸にくるりと身体をターンさせ、再びディルと向かい合う。

 ディル、彼女からは青い鳥にしては珍しく力強い印象を受ける。彼女程の威容があれば、人間など容易く服従させられるだろう。埋まることのない拳二つ分が、彼女をわずかに強気にさせているのは明らかだった。

 この街を任されているのも納得がいく。

「だが」

 私は歯列の奥から唸った。

「まだまだ原石だな」

 ルーは爆発を見ていたのと同じきらめきで、ディルを捉えている。

 そのまま彼女がゆっくりと瞬きをし、俯いたのを、ディルは気の毒そうに眉根を寄せて見つめた。

 ルーが息をつき、再びディルを見上げた。私の目には、彼女の動きは素早く映った。

 そしてたった一言。

「残念ね」

 ルーが頭を、私とは反対の方向に傾けた。

「聞こえるかしら?」

 彼女が言い終わる前に、地響きが襲いかかってきた。今しがた轟いた爆発音と比べものにならない程の振動と共に。

 同じ方角だ。

 そう思った私が、樹海へ注意を戻した時には既に、巨木と見紛うような蔓が樹海を突き抜け、白んだ空に黒い影となって現れきった後であった。

 のたうち、蠢く影の有り様は、まるで海の奥深くよりいできた怪物のようである。

 衝撃で巻き起こった突風が、まとめられていたルーの長髪を解いて靡かせた。

「信頼を視るのは簡単よ」

 ルーは背後の壮絶な景色に目もくれず、代わりにそちらへ釘づけの彼らに言った。

 私は巨大な蔓を見やった。

 太い蔓から枝分かれした先に、何か絡まっている。最初は実か種かだと思っていたが、違う。あれは人だ。大きく塊に見えるものは彼らの騎乗していたユニコーンだろう。

 国直属の衛兵部隊ともなれば相当な手練揃いのはずだが、蔓に捕まった彼らはもはや子供に遊ばれるおもちゃのようにしか見えない。少し愉快であった。

 ディルと共にいた衛兵たちもまた、それを眺めていた。眺めることしかできないのだろうが、ともかくその光景を前に絶句していた。

「それとも」

 止まない地鳴りの中、ルーが人差し指を立てた。

「聞こえていたかしら?」

 彼女は私に目配せした。

「言ったでしょ。ゴールデンピテ、置いてきちゃったのよ」

「あの風味づけ? 確かに正解だったかもしれないな」

 統率の取れたオオネコの猛攻を、うねりながら返り討ちにする蔓を凝視したまま、私はそう返事した。

「私の知っているゴールデンピテとは色々と違う気もするが」

「人見知りだから」

 ルーと私は同時に樹海へ視線をやった。

「あたくしのいない内に知らない人がたくさん、それもこんな時間に、それも急に押しかけてきたから。びっくりして虐殺しちゃったんだわあ、きっと」

 彼女がのんびり説明する間も、怪物のような蔓は兵士をちぎっては投げちぎっては投げしている。

「まあ、どうしましょう」

 そうは言っても、ルーに慌てた様子は一切なく、頬に手を添えて、大変ねえ、と呟くばかりであった。

 彼女はうっかりしているようでいて、底の知れない女である。

 もしかすると、この事態すら彼女には想定内なのかもしれない。そう思うと、背筋を冷たいものが走った。

 ゴールデンピテを置いてきたのは、果たして思惑通りか否か。

 私はまた一つ、ルーの魅力を改めて知った。

「樹海の賢者!」

 遠くから、ほとんど絶叫のような怒号が、飛んできた。

 樹海の奥からであった。

 地響きに混じって、蹄の音が大きくなる。

 私は耳を絞った。

「オオネコだ」

 まだ大勢いるらしい。

 樹海から飛び出してきた隊列が、勢いを落とすことなく街へと進出し、隙間なく私たちを取り囲む。兵士は数にして百は下らなさそうだった。

「まあ、ユニコーンがたくさん」

 ルーは間延びした声で言った。

 そんな彼女を目敏く睨した男が、正義の刃を振りかぶるようにして、こちらに敵意を向けてきた。

「貴様だな、我らオオネコの勇敢なる仲間を屠り、国の宝である民までをも苦しめているというのは! 緑の国の庇護下にありながら、この罪深さ、恥を知れこの魔女め!」

「庇護だと? 恐ろしくて手がつけられないが有益なので権利を主張している、の間違いだろう」

「なんだ!?」

 ユニコーンに跨っていた先頭の兵士が、目を白黒させて言った。

「有翼のユニコーンが喋っている! 貴様の使い魔か!?」

 私は目をぐるりと回した。これだからユニコーンは嫌いだ。

 兵士たちが奇異の眼差しで私を凝視してくる。なんと居心地の悪い。

 私が前脚をしきりに地面に擦るので、威嚇は伝わっているはずだが。

 彼らから私を守るように、ルーの手が添えられた。変わらぬ温かさだ。

「あたくし、魔法はちっともできないの」

「黙れ魔女め! 樹海の賢者だなんだと祭り上げられて、自惚れているのだろうが!」

 兵士の身なりは他よりも豪奢に見えたので、彼が師団長なのだろうと予想がついた。

「我ら、王国直属の夜警師団オオネコこそが貴様を拘束し、我らが国王の前へと引きずり出してやる」

 師団長が合図を出すと、出てきた兵士が二人、ルーの腕をそれぞれ掴んだ。

 私は怒りに任せて角で貫き殺してやろうかとも思ったが、ルーに優しくこちらを見つめられてしまったので、やめにした。

 彼女に考えがあるのなら、私が下手にしゃしゃり出る必要はない。

「覚悟しろ!」

「ま、待ってください!」

 兵士の輪の中からディルが躍り出ると、私たちの前に立ち塞がった。

「どうか、穏便にお願い致します、この方をむやみに傷つけるようなことは……」

「おお見よ、我らの青い鳥ではないか」

 師団長はいそいそと身だしなみを整え、咳払いをした。

「敬意を!」

 彼の号令に合わせ、オオネコがぴたりと揃った敬礼を披露した。

「ご心配には及びませんよお嬢さん、今は夜。我らの時間です」

「いえ、けれど」

「王国直属軍たる我らの勇姿を、その目に焼きつけてご覧に入れましょう」

「いえ、それでも」

「お嬢さん、信じてください。あなたを危険に晒すことはありません、絶対に。安心してそこで見ていればいいのです」

「ありがとうございます、ですが」

 ディルは食い下がり続けた。

「手荒な真似はどうかお控えください」

「はは、青い鳥ってのはなんでも対話でどうにかできるとお考えだ!」

 簡単に彼女が引き下がらないと見るや、師団長は態度を一転させた。

「いいか、お嬢さん。世の中そう甘くない。オオネコはこの魔女が留守だったせいで兵を失った、面子も。恥かかされたんだ! 力には力だ、そうだろう、同胞!」

 彼が全体に向けて吠える。

「今更おしゃべりで解決できる問題じゃないんだよ、これは! 樹海の危険さを、この魔女の危険さを、コイツを殺らなきゃならねえってのを、一番よく分かってんのは誰だ?」

 師団長が拳を掲げた

「んなもん決まりきってる! 我らオオネコだろうが! そうだろ!」

 士気の高まった兵士たちが雄叫びを上げた。

 彼らを昂らせるにうってつけの素晴らしい演説である。その扇動力だけは評価してやってもいいと思った。

「いいえ、いいえ。そうではないのです」

 ディルは感情的になっている師団長に、冷静に話しかけた。

「お聞き入れください。この方に勝とうと思ってはいけません」

 師団長が眉間に皺を寄せた。

 聡い女性だ。私は感嘆の息を漏らした。

 これ以上の被害を出させないこと。それが最善手であることを理解している。ルーに手荒な真似をとると、どうなるのかも。

 しかし師団長は、彼女の発言が気に入らなかったようだ。

「お嬢さん、青い鳥だからって、何言っても許されるわけじゃあねえぜ、今のは聞き捨てならねえ!」

 馬上の彼は激昂し、

「多勢に無勢、女一人に負ける方が難しいぜ! オオネコを舐めてもらっちゃあ困る! なんならこんな女、俺様一人で簡単に制圧できるってことをなあ!」

 騎乗していたユニコーンをルーに向けて突進させた。

 長く鋭利な角の先端が彼女の脳天へ届きそうになった時、ディルがユニコーンの頭に体当たりした。

 彼女は身体を精一杯広げて、ユニコーンの頭にしがみつく。

「なにしやがる!?」

 頭部への衝撃で半狂乱に陥ったユニコーンは、ディルを乱暴に振りほどいた。彼女の体は投げ出され、街と樹海の境目に建てられた塀に激突した。

 辺りを沈黙が支配した。

 私まで不安に駆られる。

 ディルはうずくまって、じっと動かなくなってしまった。

 致命傷にはならないと思うが、しばらくはあのままだろう。

「なんてこった、青い鳥よ!」

 師団長が大仰に天を仰いだ。

「我らが王国の青い鳥に悲劇をもたらした魔女は、やっぱり許しておけねえ!」

 彼は拳をわなわなと震わせる。

「全軍に告ぐ! 我らオオネコは、樹海をぶっ壊し、魔女をぶっ殺すことに全ての力を注ぐ! 我らが王のため、王国のため、そして可憐で勇敢だった、かの青い鳥のため! 我々は戦い、勝利を捧げようじゃねえか!」

「うおおおおーっ!」

 オオネコの闘志は最高潮に達していた。

 呆れてものも言えない。

 始終を見ているくせに、なぜその方向に舵をきれるのか、なぜその波に乗れるのか、私には彼らのことが到底理解できなかった。なんなら一生、理解などできない方がいい。

 胸焼けを錯覚させるくらい、場の空気は熱狂していた。

「──────」

 切り裂くようにして、澄んだ音が鳴った。

 脳に細い糸が通ったのに近い感覚、高い音だった。

「ふう」

 ようやく息が吸えるようになる。酔い覚ましにはぴったりだった。

 師団長が狼狽していた。

「な、なんだなんだ」

 彼が興醒めと文句を垂れるかとも思ったが、そこまで頭脳は回らないらしかった。

 私もまた突然のことに思考が追いつかず、かの風切音は、ルーが口笛を吹いた音だったのだと気がつくまでに、随分とかかった。

 オオネコの兵士たちが各々の武器を握る力を強め、きょろきょろと街を警戒している。

「ご深窓」

 私は意図を問おうと口を開く。

 発端の彼女は一人、落ち着き払っていた。

「エウクレース」

 私を呼ぶ彼女の瞳孔は、自身を捕らえている両脇の兵を順番に示していた。

「どかしてちょうだい」

「お安いご用だ」

 私はニヤリとした。

 むさ苦しい声ばかり聞き、ちょうど暴れたくてうずうずしていたところだった。

 兵士に突撃し、その体を角に引っかけて、首をぐるりと使って放り投げる。今しがた師団長のユニコーンが、ディルにしたように、

 ルーは両手が自由になると、首から下げていたオカリナを口にした。

「──────」

 今度は街じゅうに、耳を劈く高い音が響き渡る。

 口笛と同じ音程だった。しかし、ずっと大きな音だった。

「だからなんだ、これ!」

 耳を塞いだ師団長が大声で怒鳴る。

 再びの音波に脳を揺さぶられた兵士たちは何事かとルーを見たのだったが。

 彼女は、素知らぬ顔で靴紐を結び直していた。

 しばしの静寂。

 蝶結びを整えて、彼女が体を起こした。

「信頼を視るのは簡単よ」

 ルーが言い終わるか終わらないかのうちに、人々の悲鳴が一斉に上がった。街のあらゆる所からだった。

 近くの宿屋から飛び出してきた亭主が言った。

「た、た、助けてくれえーっ! うちの、うちに置いてあった鉢植えが、突然!」

 そこまで言ったところで、亭主は宿屋から延びてきた枝のような影に巻きつかれ、宿屋の中に飲み込まれてしまった。

 私は聞こえてくる阿鼻叫喚に集中した。

「いやーっ、やめて、うちの子を返してえーっ!」

「あ、あああ、あああ! 溶けちまう、溶けちまう!」

「ひいいい、食わないでくれえーッ!」

「来るな、来るな、来るなああ!」

「きゃああー! 痛い、痛ぁい、死にたくない……」

「ふむ」

 どこも大惨事のようだ。

 だがまあ、見世物にして儲けるため、見栄を張りたいがために、ルーの危険も鑑みず、より珍しい木だのより美しい花だのを競うようにねだっていた民たちだ、同情の余地は私にはない。ルーの経験した危険が、持ち主に返っただけのことだ。

 とは言っても聞いてて気持ちのいいものでもないので、私は耳を寝かせた。

 ディルの話していた、街に暮らさず、ただ訪れただけの旅商人や冒険者のことを考えると、少々気の毒だった。

 しかしまあ、どうせ皆いつか死ぬのだ。

 誰かが時や運命を加速させることがあるのだとしたら、それは間違いなく自然の摂理であり、その代弁者たる樹海の賢者…ルーである。ならばいいか、と私は思い直す。

 私がそんなことを考えている傍で、兵士たちは団長の名らしき単語を口々に叫んでいた。

「団長!」

「街が襲われています!」

「民を助けなければ!」

「部隊への指示を!」

「被害を食い止めましょう!」

「団長!」

「団長!」

「くそっ、どうなってやがる」

 師団長は愚痴をこぼした。

「簡単な仕事のはずだったろうが、だーっちくしょう」

 頭を振った彼は、己にも言い聞かせるかのごとき勇ましい声を腹から響かせた。

「第三、第四部隊は市民の救護に回れ! 第二部隊、避難経路確保! 第五部隊は伝令だ、王都へ直行、状況報告! 第一部隊はここで魔女に対処! いいな!」

 その号令で一斉に、オオネコが街に散っていく。

「一体何をした、この薄汚い魔女が!」

「あらあ、あたくしはただあの子たちを起こしただけよ。怒らせたのは彼ら」

 ルーは肩をすくめると、師団長のユニコーンの脚に飛びついた。

「それよりも、この香ばしい匂い……あなたねえ? 樹海へいらしたのは?」

 彼女の指がユニコーンの蹄を裏返す。小さな実のようなものが挟まっていた。

「これはデマメ。樹海の産物よ。粘性があって、ひっつくと取れにくいのよお」

 ルーが蹄をちょんちょんと触ると、ユニコーンが嘶いた。彼女に気遣われたことに腹を立てたようだった。気位の高い連中なので、か弱そうな人間の女に助けを乞うなどそもそもできないだろうが。

 ユニコーンが前脚を高く上げる。それから間髪入れずにルーを蹴ろうと暴れたが、彼女はさっさと身を躱した。

 私は彼女を信じているので、危うい状況になったとて気を揉むだけにしようと決めていたが、ルーを害する気があるのなら、二度とそんなものを抱けないようにしてやろうかという気持ちも膨らんでいく。

 応戦しようと思う前に私の脚は前へ踏み出していた。ちょうどユニコーンの体勢が大きく崩れ動いたのが見えた。

「うわっ、こら、落ち着け! 師団長のユニコーンたるお前がそんなんでどうする!」

 師団長がユニコーンの身体を押さえつけていた。

 私の怒りを抑制しようと試みる際のルーとは対照的な対応だった。ユニコーンの気性にもよるが、あれでは逆効果に思える。

 宥めすかそうと必死に耳の側で叫び、なんとか首元にしがみついていた師団長だったが、ユニコーンが後ろ脚で立ち上がったことで、ついには落馬してしまった。

「うわあっ!」

 彼は強く背中を打った。

 起き上がれずにいる師団長へ、ルーが歩み寄っていく。

「あの蹄鉄の跡。うふふ、そうじゃないかと思ってた!」

 彼女は師団長を追い詰めた。名探偵が推理を披露するように。

「あなたたちね、オオネコ。先日、街の住民と一緒になって樹海を傷つけて去ったのは。この街には騎馬隊はいないから、不思議だったの」

「だ、だったらなんだ」

「その話、ディルには通した?」

「まさか! あんな甘ったれに話が通用するわけないだろ!」

「通じるかどうかではなく、通したかどうかを聞きたいんだけど」

「貴様のような危険人物がいて、危険生物がうじゃうじゃいる土地だぞ、樹海ってのは!」

 師団長が腰に差していた剣を抜いた。

「我々が戦わなくては、自分の身が、民の身が危険に晒される! 感謝されこそすれ、責められる筋合いはねえ。当然の行いだね!」

「まあまあまあ! それでは見せてもらいましょう、その当然の行いとやらを」

 ルーが両手を叩いた。

「我がともがらよ、現れよ」

 彼女の唱えた言葉に呼応して、街路樹が動き始める。根をまるで人の足のように動かして、それらがじりじりとルーの元へ集まっていく。

 ルーと私を囲むオオネコ、そしてそれらのさらに外側を囲む街路樹といった構図になった。

 師団長がユニコーンの手綱を握り直しながらルーを睨めつけた。

「なんだ、今の呪文は、何をした!?」

「呪文? いいえ、あたくし、魔法はちっともできないの……あら。これ、さっきも言った気がする」

 兵士の一人が、距離を詰めてくる街路樹の群れを恐れ、火球をぶつけた。

「炎魔法。ちょっと憧れちゃう」

 ルーは瞳に羨望の光を湛えた。

 火球をぶつけられた街路樹たちの動きが鈍る。

「いいぞ、その調子だ、魔女の使いなぞ焼き払ってしまえ!」

 馬上に返り咲いた師団長が兵士を鼓舞し、あらゆる色の炎が街路樹を襲う。

 そして勢いを盛り返したオオネコの兵たちが再びルーを捕らえようと試みているのを、私が間を割って阻止した。

 ルーの首根っこを咥え、背に乗せる。

「手のかかる宝石アメトリンだ」

 蹴散らし、角で刺突し、薙ぎ払い、時には店屋台を振り回して盾にし、武器にし、その損傷をも厭わない。

「大変、お店が」

「直せばいい」

 遠くでどよめきが起こった。

 私はオオネコの隊列の、さらに外側を注視した。焼け焦げた街路樹の表皮が炭のようになり、内部があかあかと燃えているのを。

「ああ、隣人樹。そういえばあれも、樹海のものか」

 私は長細い巨人のようなそれらを眺めて独りごちた。

「どうもこの街は樹海のものを見せびらかすのが好きらしい」

「あらあ、好みは自由よお。お望みのものを全て用意するのも、なかなか楽しかったし」

「そのたびに洒落にならないくらい危ない目に遭ったろう」

「ふふ、それでこそ樹海じゃない」

 隣人樹たちは行く手を阻む兵士たちを容赦なく殺戮していく。お返しとばかりに、体に着火させ。

「炎が効かないぞ!」

「構うな、より高度で強い魔法で対抗しろ!」

 師団長をはじめとしたオオネコの包囲網が、外側から崩れ去っていっていた。

「相手が炎を使うなら、属性有利の水で鎮静を図れ!」

「ほう、阿呆かと思ったが。意外にも機転の利く男だ」

 まともなことを言うので、思わず賞賛を贈ってしまった。

 激流が隣人樹の一団を飲み込む。

 ルーはつまらなさそうに囁いた。

「だって戦いが華だもん、殿方というのは」

 正面から向かってくるユニコーンを蹴り飛ばす。

 隣人樹らを襲っていた水がひくと、兵士たちは驚愕した。隣人樹の形態が変化していたからだ。

 指の骨のごとく長細かった外見が水を溜め込んだ皮袋のようになり、溶鉱炉を彷彿とさせる真っ赤な内部は見る影もない。

 隣人樹の樹冠から大量の水が放射され、兵士を押し流す。

「なんだこの化け物は!」

「受けた属性に応じて変化するぞ!」

「だ、だが、炎よりはマシだ、流されるだけ……」

 そう言っていた兵士たちだったが、隣人樹の放った水が、ただの水ではないことに気がつくことになる。

「いや待てこの水、抜け出せない!」

 辺りを満たした水が、まるで時間が遡っているかのごとく、逆流していく。

「まずいぞ、水の塊に戻ろうとしてる!」

「早く逃げろ!」

 だが抵抗もむなしく、水の流れは一つの大きな球となって、彼らを閉じ込めた。その間も、隣人樹の本体たちは枝と根を人間の手足のように使い、兵士たちを殺していた。

 彼らがここまで凶暴化しているのは、ルーを友と認めているがゆえである。

 溺れた兵士たちが力なく街路に叩きつけられる頃には、私やルーを取り囲んでいたオオネコはほとんど壊滅していた。

 街一帯の物音が静かになっているのも、この場と同じことが起こっているからであろうことは簡単に予測できた。

「くそ、魔女め!」

「あたくし?」

 師団長の殺気を受けて、ルーは心外だと言わんばかりに顎に指先を当てた。

「あたくしはただ、ともがらを呼んだだけ。怒らせたのはあなたたち」

「うるせえこの極悪人が! 植物なんかに頼ってねえで正々堂々勝負しろ!」

「まあ。これが樹海の賢者の正々堂々なんだけどなあ」

 彼女は唇を尖らせた。

「いいわ」

 ルーが短く言って私から降りた。

「ではあなたの言うその正々堂々、受けて立ちましょう」

「ご深窓」

「まあ、心配してくれるの」

 引き止める私の翼を、彼女はくすぐった。

「ありがとう。大丈夫よエウクレース」

「そう言われてしまっては……私は君を見送ることしかできない」

 ルーは私を抱き寄せた。

「武運を」

「本気で言ってるのか、馬鹿なのか? オオネコの師団長だぞ、俺様は!?」

「だってそれをお望みなんでしょう」

 師団長とルーは、互いに一歩ずつ間合いを縮めた。

「一番得意な武器はなあに、師団長?」

 私は、引きずる彼女の右足を見ていた。

「魔法はやめてね、あたくしちっともできないの」

「はは、心配すんな、俺様もだ!」

 師団長は手にしていた槍をルーに向けて投げた。絢爛な装飾が施された、彼特注のもののようだった。

 受け取った彼女もそれを察したらしく、首を横に振って突き返す。

「これはあなたが持つべき」

「いいや、貴様が持て。そりゃ俺様の一番得意な武器じゃねえからよ」

「あらあ。そうなの?」

「そうとも!」

 師団長が手綱を引いた。

「俺様の一番は、コイツさ!」

 ユニコーンが嘶く。

 私は仰天して何も言えなくなってしまった。

 なんて阿呆だ。

 己の手に最も馴染んでいるであろう装飾槍をルーに渡した時、私は彼が騎士道精神というものを少しでも持ち合わせているのかと期待したものだが。

 負傷した人間と、馬上の人間で。槍と、角で、戦おうというのか。

「いくぜ魔女、使い魔にお別れしな! ソイツの角で新しい槍を作って、お前の干し首を吊り下げるのが楽しみだ!」

「まあ、悪趣味!」

 ユニコーンが助走をつけてルーに突進する。彼女が躱したところで、馬体が素早く翻り、息つく間もなく二撃目を繰り出す。

 なるほど一番と豪語するだけあって、扱いには長けているようだった。

「邪魔が入らないようにお願いね、エウクレース!」

 ルーには珍しく、高揚したような声色だった。樹海で手強い相手とまみえた時のような。

「人の武器なんて久しぶりだわ!」

「違いない」

 苦笑を浮かべ、私は隣人樹に加勢する。戦う気力を持つ者はもうほとんど残っていなさそうだが、それでも時折、師団長の方へ向かおうとする兵が出るので、それらを蹴り飛ばすのだ。適当なところにやっておけば、とどめは他の草木が刺すだろう。

 私はほとんどルーから目を離すことができなかった。

 樹海の知識を以って樹海の未知に挑むのが彼女の常である。

 本人の言う通り、彼女は人間の用いる武器など何年も触っていない。

 だというのにあの身のこなし。

「全く、何度私を恋に落とせば気が済むのかな、私の宝石アメトリンは」

 ユニコーンの長い角がルーを捉えたかと思うと、彼女は間一髪でそれを避け、右脚に槍を突き刺した。師団長のものではなく、ユニコーンの後ろ脚であった。

「公明正大と参りましょうか、師団長!」

 ユニコーンが痛みに呻き、失速した。地面に倒れた体のまま、憎しみを込めた目で彼女を見据えている。

 同時に、体勢を崩したユニコーンから投げ出された師団長は、ただただ驚いた様子で喚き散らしていた。

「なんだってんだお前!? 女のくせになんで扱える!?」

「あら、言ったでしょ、あたくし、魔法はちっともできないの」

「女にまでそんなこと教えんの、王侯貴族だけだぞ!」

 師団長の瞳に今までとは違った畏れが宿る。

「ま…まさかお前、そうなのか? 緑の国の? ちょっと待てよ、なんでそんなヤツが樹海に」

「残念ね、おしゃべりな殿方。お茶会のほうが向いていてよ?」

 容赦のない軌道で、ルーが師団長の心臓を貫いた。

 彼はぎゃ、と言って喉から血を吐いた。

 鍛え抜いたであろう屈強な肉体が、ぐらりと下へ倒れ込む。

 ルーは郷愁に耽るような面持ちであった。

「まあやだ、昔に戻ったみたいだわあ、今の言い方! 最悪!」

 彼女の靴紐は解けきっていた。

 決着を見届けた私は、ルーの元に戻った。推進力が嘘のように落ちているのは、引いている店屋台にだいぶガタが来ているからだった。

 ルーは師団長から槍を抜き、丁寧に彼自身に握らせる。

「これで、正々堂々と負け、よ、師団長。うふふ。それにしても、久々に人と戦ったわねえ。あたくしは樹海の方がよっぽど好き、やっぱり。一方が生きて、一方が死ぬのは同じ。でも、結末は早すぎ、筋書きは一辺倒。つまんない」

 彼女は満足げに、埃を払った。

 挑発のようなその態度が、ルーを見る師団長の視線を、強い怨恨に染め上げる。

「この……っ」

「だから、あたくし、魔法はちっとも…」

「化け、物」

 師団長はそれを最期に事切れた。

 ルーが首を、私がいるのとは反対の方向に傾けた。

 夜明け前の冷ややかな風が街を通り過ぎていった。

「……」

 ルーの表情は読めなかった。

 彼女は、わざわざ師団長の傍に屈み込む。服の裾がまた汚れた。

 呼吸がかすかに乱れていた。

 そして、二度と閉じることのない彼の濁った瞳と目を合わせ続けた。それがどんな心境から来るものかは、私には計り知れなかった。

「なにも観葉植物じゃあないの、樹海の子らは。人に優しくしてくれているだけ。敵意を向けられれば、牙を剥くわ。すぐにでも」

 そこで一度口をつぐみ、ルーが意味ありげに、私を一瞥した。

「寛容植物なの」

「くっ…」

 私が漏らした息に、ルーの胸が高鳴ったのが耳に入った。

「…だらない」

「なによう、おもしろかったでしょお!」

「はいはい」

 適当に頭を上下させると、彼女は頰を膨らませた。冗談のおかげで、調子はすっかり戻ったらしかった。

 私は周囲の気配を探った。

 しかし、もう、立ち上がれそうな者はいなかった。

 隣人樹が己の足で樹海へ帰っていく。鉢に囚われていた多くの木々、草花も。

 街は壊滅していた。

 静かだ。人間が、負けている。

 私は息を吸い込み、いささか充足した気分になった。

 そしてルーにウインクした。

「種は蒔いてあった、ということかな。ご深窓」

「まあ、お上手! うふふ」

 彼女は悔しげに私の鼻筋を撫ぜた。

 惨殺現場を背景にして行われるとは到底思えないやり取りであることは、我ながら承知している。

 それでも私はルーが愛おしい。

 ルーが靴紐を結び直しにかかる。

「…………ひどい」

 風に紛れて、ぽつりと聴こえた。

 私がそちらを見ると、ルーもそれに倣った。

 街を見渡しつつ、明確な恐怖の眼で呆然と私たちを見ていたのは、ディルだ。彼女が見ていたというのは正確には、ルー一人をであったが。

 意識が戻ったようだ。

 ルーは優雅に手を振った。

「あらあ、お加減はいかが?」

「あ、あなた様は」

 ディルは悲壮を顔に滲ませる。

「一体、どれだけの人を傷つけるおつもりなんですか」

「さあ? あなたたち次第」

 献立を問われたかのような受け答えである。

「だって、そうでしょ?」

「罪のない民を」

「黙する命は往々にして後出し。自然は平等にして不公平」

「傷つけて」

「何れの過去も消えることはなく」

「彼らは、日常を、奪われて」

「心の在処を知るのは心を知るものだけ」

「それでも……」

「天秤が釣りあうまでのその一瞬こそ、世界を征く時の表れ」

「それでも生きていたのです、皆!」

 ディルの悲痛な叫び声が、街路に響き渡る。

「一人の尊厳ある人間として!」

 涙を堪えることもせず、彼女はルーと交わる視線を決して逸らすまいとしていた。怒りと哀嘆にその身を焦がしていた。

 ディルの激情でびりびりと打ち震えた身に、ぱちくりと目を瞬かせ、ルーはのんびり頷いた。

「……ええ、そうねえ、ごめんなさい、よく聴いていなかったけれど」

 ルーは倒れ伏す人が積み重なってできた山を振り返った。

「彼らの生が良いものであることを、あたくしも祈っているわ」

「は、はあっ?」

 ディルが素っ頓狂な声をあげる。

「なに言ってるんですか、あなたが、あなたのせいで彼らは」

「人の良し悪しというのは、隠者のあたくしは疎いものだけれど、彼らの生が良いものであるならば、ええ。それは良いことだと思うわあ」

「ふ、ふざけないでください」

「まあ。あたくしはいたって真剣よお」

「どうしてそんな嘘をつけるのですか!」

「時の中で生きるとはそういうことよ、青い鳥」

「あなただって!」

 ディルが彼女を押さえつけ、ウェーブのかかったルーの髪を乱暴に掬う。

「この髪! その瞳!」

 彼女の示すルーの髪は、腰の辺りから毛先にかけて、陽に透ける雲のごとく、美しいブロンドであった。

 彼女を見据えるルーの瞳は、今までに私が見たどんなベリーよりも美しい碧をしていた。

「緑の国に住まう、金色の髪に青い瞳を持つ娘」

 ディルは堰を切ったように話し始める。その声は震えていた。

「王国に幸運を運ぶ、歓びの青公女。わたしと同じ、間違いなく、あなたも!」

 ルーの笑顔はぴくりとも崩れなかった。

「わたしたちは、善き国づくりの一翼となるべく、民に祝福を、幸福をもたらす役目がある、そのために選ばれし者です!」

「ふふ、素敵ねえ」

「あなただってその一人だったはずです! だというのになぜです! それが、なぜ、なぜこんな!」

「あらあ、情けをかけてくれるのね、ディル? その答えに、あなたが納得できるような何かがあると」

 必死に訴えかけるディルの目に願いを請うような光が表れていたのを、ルーはにこりと一蹴した。

「残念、切らしてるところなの」

 ルーが屋台を気にする素振りを見せたので、私は耳を前後に振った。

「それ以外の全てなら、在庫は揃ってるんだけど……いいえ、そうだわ。ゴールデンピテも無いんだった」

 彼女はバツの悪そうな顔をした。

 不思議なことに私には、ルーの言葉はどれだけ嫌味として聞こうとしてもできない。おそらく彼女と語ったものは皆、同じことを感じるだろう。

 その只中にあるであろうディルが、喪失感を漂わせながら首を左右に振った。

「……かわいそうです、あなたは。かわいそうな、ひと」

 とめどなく溢れる彼女の涙を、ルーは拭った。

 瓦礫の中から、数人が這い出てくる。

 私は目を凝らした。

 オオネコではなかった。ディルに付き従っていた街の衛兵だ。

 よろよろとやって来て、くずおれそうになりながら、それでもまだディルを守ろうと前に出る。

 この街の者は間違いなく、彼女という青い鳥を愛していたのだと。私は内心、彼らの健闘を労うことにした。

 ディルの瞳に再び涙が浮かんだ。

「も、もういいんです、みなさん…休んで、どうか、安静に」

「素敵なシュヴァリエ」

 それは、ルーの心からの賛美だったのだろう。

 彼女は冗談を好むが、反面、人を揶揄うという行為はしない。嘲りもない。彼女の言葉に含みは一切なく、あるとすればそれは本心のみである。

 しかし、そういった彼女の言動は、相手の神経を逆撫ですることもあるのだ。

 純真無垢とはよく言うが、私に言わせればルーは純真無粋なのだ。

「あなたという人は!」

 ディルは眉を上げ、ルーのことをキッと睨めつけた。そして彼女を突き放すと、決意に満ちた目でルーを見下ろす。

 ルーのほうは左足だけで器用に退がり、屋台にもたれてバランスをとっていた。

 ディルが涙を拭い、断固とした態度で言い放った。

「あなたには受けるべき義務があります」

「あらあ、何を?」

「あなたがこの街に与えただけの報いを!」

「あたくしがこの街に与えただけの報い?」

 矢継ぎ早に反復したルーの双眸に影が落ちた。

 反射的に私はまずいと感じた。

 全身の筋肉が強張る。

 彼女に対して、それは禁句だった。

「だめよ。天秤は、釣りあっては」

 それまで乱れることのなかったルーの笑みが揺れ、止まる。

 まるで凍てついたように。

 次の瞬間、ルーの手には杖が握られていた。

 彼女が咄嗟の内に手にしたそれは、屋台の端に立てかけられ、戦闘の騒乱の中で行方知れずとなっていた、あのホワイトエーバーの杖だ。そんなところにあったとは。

 私ですら、存在を忘れかけていた代物だった。

 彼女が突然動いたことでつられた衛兵たちもルーを追う。満身創痍もどこ吹く風と、臨戦体制をとった衛兵は続々とルーの元へ走りだし、その反動でディルは後ろへ後ろへと追いやられていく。

「ディル」

 その名をルーは呼んだ。

「あなたの受けた幸運はたった一つだけよ」

 一抹の寂しさを纏っていた。

「悪意に犯された循環の内に生まれなかった。ただ、それだけ」

 ハッとしたディルが再び衛兵たちより前に出てこようとするが、その目論見は彼女を護らんとする鎧たちに阻まれた。

 ディルが叫ぶ。

「通して!」

 衛兵はディルの行動にひどく困惑し、統率が乱れた。

 注意が逸れたその隙にルーは、人の倒れ伏す方へと駆けていった。右側が上手く動かないせいで足がもつれ、武器を何本か蹴飛ばしていたが、お構いなしだ。

 彼女の辿る先は、剣士相手に立ち回りをしたあの場所だった。彼らと対峙した際に弾けたアニワラによって、石畳が欠け脆くなっている箇所。

 それがルーの狙いだった。

 彼女は杖を振りかざし、力強くそこを貫く。石材の下の土壌が顔を出した。

 穴に向かって迷いなく杖を突き刺したルーの顔は、師団長を殺害した時よりもよっぽど真剣だった。

「待って!」

 追ってくる衛兵とディルの方を振り仰ぎ、彼女は空を指差した。

 彼女の指先を追ってみると、明けた空色に浮かぶ月であった。

「その地にあってはなんの変哲もない。樹海の土とは異なる土に触れ、残月にしばらく晒さない限り」

 見る間に杖が太くなり、石畳を盛り上げんばかりの勢いで根を張りだす。

「こほん。樹海の樹木、第八十四章、後期創生代の大樹。月を残した全ての空を覆い尽くす程の成長欲を持つことが名前の由来。枝や樹皮の繊維は厚く硬い。葉は明け方の空の色、円形に近い。常緑樹。病気に強い。再生ともいえる驚異的な成長力を持ち併せ、折れた枝から根を生やすこともできる。特筆すべきは、この樹木が根を張った地下の組成がいかなるものであったとしても、樹海が適応できる土へと変化する点である」

 彼女が言う間にも石畳はどんどん持ち上がり、杖だった部分はもはや幹と呼ぶに相応しく、枝分かれして伸び、葉をつけるその速度は尋常ではない。

「それが、朝ゆく月の補集合ホワイトエーバー

 ルーは太く長く成長を続ける枝へと腰掛け、損壊した右足をぶらぶらさせた。

 樹木が成長する程に、彼女の身体も遠くなっていく。

 ルーは街を見下ろしてから、その視線を同じ高さに位置する城に移した。難攻不落と名高い、切り立った山の頂に建てられた王城は、緑の王国の象徴でもあった。

 彼女が靴紐を結び直す。人の山と目が合った。

 ルーの口元は笑んでいた。

「侵略に最適」

 呼応するかのように、樹海が大きくなっていく。大きくなっていくように見えているのは、樹海そのものが近づいてきているからである。

「おおっと」

 地面が脈打ち、樹木が私ごと取り込まんとしてくる。

 その怒涛の成長速度と勢いに、とうとう店屋台の崩壊が間際となり、ホワイトエーバーに巻き込まれるのを危惧した私は空へと翔けた。がたがたと屋台が軋む音、体が風を切る音の中に時折、人間の悲鳴のようなものが混じっていた。

 ちらと見下ろすと、彼女の足代わりだったホワイトエーバーの杖は、薄雲を通しても分かる程に見事な巨木へと成長を遂げていた。ルーを置いてきたが、まあ彼女のことだ、大丈夫だろう。

 眼下ではホワイトエーバーの成長に合わせて、緑が広がっていっていた。

 私は上空から、一つの街が樹海に飲み込まれるのを静観した。

 そう、信頼を視るのは簡単だ。せっかちな彼女は、手っ取り早く命を秤にかけるのだ。

 東の空がいよいよルーのブロンドに近い眩さを放ち始める。

 私は、羽ばたかせていた翼を水平に傾けて、ホワイトエーバーの樹幹に向かって徐々に滑空していった。

 私が嘶いてみせると、樹海にそれがこだました。

 しばらくして、笛の音色が返ってくる。ルーの首に下がっている、オカリナの音。

 出所を探るために耳をしきりに動かしながら、木立の中を見渡した。

 木々の隙間を漂う無数のシャボン玉を見つけるまでに、そう時間はかからなかった。

「平気かね、ご深窓」

「まあ! 心配してくれるの」

 降下していくと、ルーが無邪気に手を振ってきた。

「見て。ホワイトエーバーの樹液って、こんなこともできるのよお」

 彼女は再びシャボン玉をふうと吹いた。

 地に降り立ち、店屋台を壊さないように徐々に速度を落とす。

 呑気な彼女に呆れると同時に安堵が訪れ、私は鼻から息を抜いた。

「やれやれ。お転婆も程々にしてもらいたいものだ」

 見ると、樹木の根本には枯れ木のように干からびた骸があった。足元に転がっていた鎧やら盾やらの破片を蹄で軽くつつくと、ボロボロと跡形もなく崩れた。

 美しい鳴き声が樹海に響く。

 ルーの周りを飛び回る、青い鳥のものらしかった。

「あなたの生が良いものでありますよう」

 彼女が青い鳥に告げると、鳥は踊るように軌道を取りながら、樹海の中へと消えていった。

 私はそれを見送る。ゆっくりと。

「いいのかね」

「あらあ、何が?」

 ルーはきょとんとした。

 私が眉を上げてみせても、彼女には通じなかった。

「ねえ」

 辺りを見渡したルーが、いつになくそわそわしながらこちらを見る。

「新顔がたくさん増えたと思わない?」

「それが樹海の侵蝕だからね」

 樹海に蝕まれた新たな土地には、未知の草木が芽生えるのだ。それらは完全なる新種であり、全くの謎である。

 膨大な量のその凡てを正しく深く理解するがゆえに、人々はルーを樹海の賢者と呼んだ。侮蔑と皮肉、畏怖を込め。

 そしてそんなものは、彼女の飽くなき探究心と、樹海との信頼関係の前にはなんの意味も成さないわけである。

 それがこの街の成れの果てだ。

「日が出ればもっと増えるわよお、きっと」

「往々にしてそうだったからね」

「ああもう、初日ってなんでこんなにワクワクするの!」

 まだ見ぬ本草を編纂することを、彼女は心待ちにしている様子だった。

「取り急ぎ、目についてるあの子と、それから…あそこの花も見慣れないなあ、暗いから? あらまあ、あっちの胞子みたいなのはなにかしら? ああ、待ちきれない、どんな出会いが待ってることでしょう!」

「植物は逃げないよ、根を張るのだから」

「でも時は流れるわ。枯れるし、朽ちるし、変容する」

 楽しそうにルーは笑った。

 私はそんな彼女を愛おしく思う。

「さあて、おうちをつくり直さなくっちゃ」

 頰に手を当て、彼女は息をついた。

「まずは、お留守番の子たちをお迎えに行くでしょお。それから材料に設計に…お洋服も家具もみんなだめになっちゃってるかしら…でも北側の様子も見に行きたいし…新しい子を探すのはもちろん最優先でやりたい……ううん、どうしたらいいと思う、エウクレース?」

 そう言いながらも、シャボン玉を飛ばしている。

 左右を交互に揺らした足先で、靴紐がまたもや解けかかっていた。

「それらを今日だけで済ませられるわけなかろう、全く」

「あらまあ」

 ルーは目をぱちぱちさせた。

「なら後回しでいいわねえ、全部」

 彼女が笑みを絶やすことはない。

「天秤は釣りあわないもん」

 見上げてもそこに空は見えない。ただ木々の生い茂るのみである。

 夜明けであろうと、鬱蒼とした樹海の中では店屋台のランタンが唯一、頼りなくぼんやりと周囲を照らすくらいのものだった。ガラスケースの中で、倒れないよう固定された天秤が皿をゆらゆらさせていた。

 樹海は広がる。自然が望むまま。

 ルーはただそれをわずかばかり、加速させているだけだ。

 短気な私の宝石アメトリン

 私は深く息を吸った。

 街であったものを踏み躙るかのごとく、樹海は鎮座する。

 そうして新しい命が芽吹くのだ。彼女の空白を埋めるため。

「賢者の身柄は王城へ」

 生長した樹葉に覆われ見えなくなろうとも、彼女は城の方向を見据えていた。

「うふふ、ええ、もちろん…お手は煩わせませんわ、国王様」

 浮遊していたシャボン玉を、彼女の指が追い、そして爪弾く。

「あたくし自ら出向きましょう」

 稀代の悪女の目覚めであった。

 緑の国に、朝陽が昇る。

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深き窓辺、最前線。 山城渉 @yamagiwa_taru

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