下馬将軍は2度死ぬ!

@u86

下馬将軍は2度死ぬ!

 江戸時代、大衆から下馬将軍と呼ばれた人がいた。

 徳川家の将軍ではない。幕府大老の酒井忠清である。

 江戸城の大手門へ入る手前に、下馬札──身分が特に高い人以外は、ここで馬から降りることを意味する札──が立っていた。

 酒井忠清の上屋敷は、その札のすぐ近くにあり、その屋敷へ各方面から多くの贈答品が送られてきた。

 そのため江戸の民衆は忠清の死後、将軍のごとき威勢だったとして、下馬将軍と呼び批評した。

 この忠清、徳川4代将軍の家綱の後半期に、特に権勢を振るったのだが、続く5代将軍の徳川綱吉に嫌われ隠居すると、そのわずか約3ヶ月後に亡くなった──享年56歳(数え年58歳)。

 命日は1681年7月4日(=延宝9年5月19日)。

──今、探偵Uは2050年からタイムスリップをして、この時代へ移動してきた。

 彼の任務は下馬将軍──忠清──の死因を調査すること。

 弱冠25才──探偵として売り出し中──のUは、江戸時代の町人の旅姿に相応しい格好をしてきた。

 身には茶色の小袖、その上に青い道中合羽、腰には道中差──町人の護身用の小刀、肩には振分荷物。

 髪はサラサラした黒のストレートで、額を隠す程度に長かったのだが、彼は特殊メイクのチョンマゲを断った。

(ダサい······)

 江戸の界隈でチョンマゲを結わないと問題が生じる──と、時空研究所のスタッフは説得を試みたが、Uは頑として受け付けなかった。

 やむを得ず、菅笠でしっかり隠すことで両者は妥協した。もともと菅笠は旅の町人には必要なアイテムだ。

 こうして旅の町人として、江戸の市井に違和感なく溶け込むための小道具が念入りに整えられた。

 しかし、若き探偵は近世の路上へ出て、すぐに自分が目立っていることに気がついた。Uの身長──175cm──が問題だった。江戸の民衆に比べて頭1つ高い。

(いきなり目立ってるじゃねぇか······これじゃ······役人に絡まれるのも時間の問題だぞ······)

 ──とはいえ、江戸時代の警備システムについて、Uが詳しく知っているわけでもなかった。

 せいぜい歴史ドラマの知識ぐらいである。

 Uは行き交う人たちの不思議そうな視線をひしひしと感じ、かぶっていた菅笠を前に傾けて、少しでも顔が隠れるようにした。

 徐々に平静を取り戻したUは、菅笠の端から路上を歩く町人たちの顔色を窺った。

 やがて、話し掛けやすそうな中年の男を見つけると、Uは決心して近寄っていった。

 その町人へ丁重に挨拶したUは二言三言なにか聞き出し、お礼を述べて別れた。

 会話を無事に終え、1人になるとUは、安堵の息をついた。「こうやって少しづつ馴らしていけば人目も大丈夫だろう。そして間違いない──今日は延宝9年の5月18日──そして、ここは江戸の内藤新宿(※新宿区)の東の外れか」

 あとは酒井忠清の屋敷へいって死因を確認するだけだ。

 忠清の死因──病死、自殺、事故死、毒殺、斬殺──は、何1つ分かっていない。

 それというのも酒井家が忠清の遺体を、将軍の許可も得ずに、秘かに埋葬してしまったからだ。

“病死”とも“自殺”とも言われている。満56歳──楽隠居の身で、過労や栄養失調とは無縁。節制すればまだ余命があっていい年齢だ。

 しかも謎を深める事件が起きた。

忠清の死を確認するため、5代目将軍の徳川綱吉が使者を派遣したところ、酒井家は遺体の検分を断ったのだ。

 将軍の使者を断るのだから酒井家もかなりの決断をしたといえる。下手をすれば謀反の恐れありとして、改易──お取り潰し──という最悪の事態に発展してもおかしくない。

 いや──、実際に酒井家は翌6月には罰せられてしまった。家格──役職──を落とされた。

 公表では、以前に『越後のお家騒動』を裁いた忠清によるえこひいきな判決を、断罪するための措置だ。

 しかし遺体検分を拒否したことが、その1ヶ月後の酒井家への処罰に悪影響を与えたことは想像に難くない。

 なぜ酒井家はそこまでして忠清の遺体を隠すように埋葬したのか?

──2050年、東京の時空科学研究所ではタイムスリップの実験に成功した。それを利用して調査──歴史の実地調査──が若き探偵Uに委託された。

 他にも熟練の探偵はいたのだが、歴史の知識がないため尻込みをしてしまい、結果として、歴史好きのUにお鉢が回ってきたというわけだ。

 時空研究所は、Uの大胆かつ楽観的な性格を危惧し、何度もシミュレーションをして、ぎりぎり合格の判を押した。

 そして──今、Uは灰色に曇った江戸の空を見上げて立っていた。

「忠清が亡くなるのは明日······今夜中に屋敷に忍び込まないとな······」

 下馬札の前の上屋敷──ではない。忠清は隠居して登城の必要がないので、浜町の中屋敷か、大塚の下屋敷へ移っている。

 Uはあらかじめ、忠清が下屋敷のほうにいるとの、情報を得ていたので迷わず大塚へ向かった。

 ちなみに──下馬将軍の名の由来となった下馬札前の一等地の屋敷は、忠清の死後、新しく大老に就任した下総佐倉の堀田正俊の所有となり、さらに会津の保科正容へわたり、忠清の曾孫(親愛)の代になって、ふたたび酒井家に戻ってくる──が、それは探偵Uには関係ないことだ。

 Uは、昼下がりのまだ明るいうちに、酒井家の下屋敷の門前へ着いた。

 しかし、旅の町人風情が大名屋敷へ大手を振って入ることはできない。理由もなく門前をうろつくだけで危険だ。

 だが、Uはちょいと肩を上げて振分荷物を担ぎ直し、不敵な笑みを見せた。

「どんなに塀が高くても無駄さ。こっちはハングライダーがある」

 長く歩いて疲れたUは、近くの林の中へ入って切り株に座った。振分荷物の前側の荷箱から持参した弁当箱とタンブラーを出して昼食の準備をした。

 前側の包みの中には、他に忍者用の黒装束が入っていたが、それは近くの枯木の枝に投げ掛けた。

 腰を据えたUが、コーヒーの入ったタンブラーを開けると麦芽の香りが心地良く漂ってきた。

(ここでの楽しみは食事ぐらいだな······)

 江戸時代の前半期にコーヒーを飲んだ日本人はいたのだろうか、などとUは暢気なことを考えて、贅沢な気分に浸った。

 蓋をカップにしてコーヒーを注ぎ、一口飲んだ。

(美味い······やはりコーヒー豆はブルーマウンテンが1番だ······酸味が少なくて良い)

 ハムとチーズを挟んだサンドイッチも、普段より美味しく感じられた。

(パンはこんなに美味しいのに、何で日本人は明治時代まで作られなかったんだろう)

 楽観的でかつ情感の豊かなUは、しばし危険な任務を忘れて、食事を楽しむことに没頭した。

 話し相手のいないUは、野鳥を見かける度に、餌付けをして仲間に引き込もうと、サンドイッチの一部を千切っては投げた。

 餌付けを試みて歩き回っているうちに、草むらで何かが音もなくにょろりと動いた。

(うわっと······蛇か······)

 Uが気を付けてゆっくり近寄ると、蛇は慌てて消えていった。

「細かったし、茶色一色だったな。たぶんシマヘビ(※無毒)だろう······」

 しかし毒蛇──マムシやヤマカガシ──に、噛まれたら一巻の終わりだ。

 まだ江戸の町に血清医療はない。傷の上部を縛り、口で毒を吸い出すのが関の山。

 医者は漢方薬と塗り薬を使い、それでも駄目なら最後は祈祷師がくるだろう。

 Uは最悪の光景を思い浮かべて顔をしかめた。

 すぐに食事を片付けると、土が露出して乾いている──蛇の接近にすぐ気がつく──場所へと退避した。

 やがて日が暮れると、真っ黒な忍者の服に着替え、脱いだ小袖と道中合羽を入れ替わりに前側の荷包へ押し込んだ。

 道中差──町人用の小刀──は、その柄を右肩の後ろで掴めるように斜めに背負った。これで横に転がる動きができる。

 忍者装束の動きやすさに満足したUは、滑空するのに適した岡を探して、ふたたび移動を開始した。

 見晴らしの良いところへ着くと、振分荷物の後ろ側の荷包みを開け、小型ハングライダーの部品を出した。

 月の光は雲でいくぶん弱められていたが、Uは手馴れた様子で、あっさりとハングライダー組み立てた。

 その翼は、曇りの夜空にも溶け込みやすいように、青と灰色の迷彩柄に塗装されていた。

 菅笠だけは大きいので、持っていくわけにいかず、近くの枝に引っ掛けて、調査後に回収することにした。

(屋敷の方向と位置は掴んだが······暗い足場が要注意だ······間違って庭に滑り落ちたら全てが台無し)

 Uは黒一色のスニーカーの靴紐をきつく結び直し、数回、捻るように踏みしめると、見晴らしの良い岡の中腹から、ハングライダーの取っ手を掴んで、夜の町へ飛び出した。

 快適な風を数分間にわたり浴びた後、Uは無事に酒井家の大きい建物の屋根に降り立った。

 降りるや否や、急いで小型ハングライダーをたたみ、屋根にうつ伏せに張り付いた。

(門番以外に、庭にも見張りがいるようだぞ······案外やっかいだ······)

 しばらく静かに下の様子を窺い、庭の見張りや門番の気配に異常がないことを見定めた。

 Uは頭を起こし、這いながら屋根の上部へ移動すると、音を立てないように屋根瓦を1つ持ち上げた。

(スズメバチの巣だけは······ありませんように······)

 スズメバチの巣が近くにあれば、振動に怒って襲ってくる。夜陰とはいえ“黒一色の動物”はスズメバチにとって天敵の熊──攻撃目標──なのだ。

 Uは瓦をどかしながらも、時折、耳をすまして『カチッカチッ』音がないことを確かめた。もしカチッカチッが聞こえたら──退散あるのみ。スズメバチの威嚇音、警戒音だ。

 屋根の野地板を露出させたが、特に異常は見られなかった。

 携帯用の電動カッターを取り出したUは、人が1人通りれるほどの穴を開け始めた。

 30分後──作業は完了した。

「はあ、かなり時間を使っちまった······」

 予定外の苦戦にUはため息をついた。板を切る音が響くので、一瞬ごとに電動カッターを止めて、周囲を安全を確認しなければならなかったのだ。

 だが、それは終わった。

(もう“力仕事”はない······あとは潜入して見たり聞いたりするだけだ)

Uは屋根の上でぐったりと横になり小休憩をとった。

 やがて気力が少し戻ったUは、予備の食料──カロリーメイトを1本食べて栄養を補給した。

 特注で作られた黒マスク──防塵、防ガス、防ウイルス、防花粉──で鼻と口をしっかり覆うと、暗視スコープを片手に穴の中へと消えていった。

「忍者が潜んでいたら困るなあ······スズメバチの巣やアオダイショウも困るけど······」

 Uは暗視スコープを装着して屋根裏の入口周辺を入念に確認した。──所々に蜘蛛の巣があるだけで特に異常は見られなかった。

 あとは忠清の病床を見つけて覗き穴を開ければいい。病死か自殺かぐらいは分かるだろう。

(それより足音を立てないように······気を付けなければ······)

 今も足下──天井板の下──には、家中の者がいるかもしれないのだ。

 梁の上をそろそろと移動していた時、ガサッ──とUの近くで静かな物音がした。

 一瞬、ギクッと身を固めた。息を止め、ゆっくり左側を振り向いた。──が特に変わった影は見当たらない。静かに息を吐きながら右側も見回した。こちらも異常は見られなかった。

(疑心暗鬼というやつか······)Uは苦笑した。

 鼠や蛇もしくは猫が潜んでいて、そいつが音を立てた可能性もあった。

 Uは顔を正面に戻そうとした時、右目の端に何かが映った気がした。

 鼓動が早くなる。(なんだ──あれは──)

 5mほど離れた柱の横に何か小さな黒いものがある。黒猫のようにも人間の片足──膝下の部分──のようにも見えたが、まばたきした次の瞬間には、太い柱の裏へ、するりと潜り込むように消えてしまった。

(うわ、危ねぇ······忍者の影かと思ったが······逃げたということは猫か?)

 Uは静かに息を吐いて心を落ち着けた。

(ぐずぐずしてたら、こっちの精神が先にやられちまう······)

 Uは屋根裏の安全確認を中途で切り上げ、足下の部屋を皮切りに内部を窺うことにした。

 音を立てないように梁に身を横たえ、天井板に耳を押し当てた。

 下から家人たちの話が聞こえてきた。

(──は、大丈夫か?)

(──としたら、大変だぞ)

 しばらくして別の会話が聞こえてきて、通り過ぎていった

(──ならば、良いが。)

(──が起きても、冷静に対処せねば──)

 よく聴き取れないが、何かを心配している様子なのが分かった。いよいよ忠清の容態が芳しくないのだろう。

 Uは暗視スコープを外し、懐から小さな錐(キリ)を取り出すと、梁の横に小さな穴を開け始めた。

(明日まで待つ必要はない······盗み聞きしているうちに、死因を推測できるだろう)

 ほんの小さな穴が開き、かすかな光が見えた──直後、Uは背後に重い気配を感じた。

(やばい······本物だ······)

 振り向かなくても体にゾワーッと悪寒が走った。暗視スコープを付け直す隙はないと直感した。指で穴を抑えて光を完全に封じ、静かに上体を捻った。

 裸眼で見た屋根裏の中はまったくの闇だった。

(いるのか?······分からないが······たぶんいる)

 このまま長く対峙するのはジリ貧だが、手探りで動くのはもっと危険だ。

 Uは闇に顔を向けながら、穴を抑えている指先を捏(コ)ねて、錐で発生したおがくずを穴に捩じ込んだ。

 穴はほぼふさがり、指を離しても光はほとんど漏れなかった。

 Uは静かに、背中の道中差──小刀──を抜いた。片足を軽くほぐすように蹴ると何かが弾んで天井板の上を転がっていった。

 あとは目が闇に馴れるまで時間を稼くのだ。

 10分後──Uには1時間にも感じられたが──目が暗闇に完全に馴れた時、辺りには誰も見当たらなかった。

(変だな······間違いなく殺気を感じたが······俺を見つけておいて放置して去るはずもないし······)

 慎重に腰を落とし暗視スコープをとり、装着した。

──いた!

 10mほど奥の梁の上に小柄な人影が、柱に隠れるように倒れていた。

(さては転がした煙玉がうまく届いてくれたか······)

 Uは幸運に感謝した。

 無煙の麻酔ガスを発生する新技術の煙玉は有効範囲が狭かった。──が、屋根裏という密室が効果を高めたようだった。

 特製マスクが防ガスの役目を果たしていたので、Uには麻酔ガスの影響は出なかった。

 道中差を背中の鞘に収めると、Uは懐から細縄を取り出し、忍者をぐるぐる巻きにして、口に猿轡を噛ませた。

(おそらく見張り番の忍者だろう······こいつが戻らないと屋敷中が騒ぎになる······あと1時間を探索の限度にしよう)

 それからは次々と場所を変えて天井板に聞き耳を立て、梁の横に小さな隙間を開けては覗き込んだ。

 書院、居間、複数の座敷、さらには台所まで確認した──が、病床も病人も見当たらなかった。

 玄関や湯殿は見るまでもない。そんなところに病床を敷くわけがないのだ。邸内に点在する長屋、詰所、小屋、厩舎なども同様で、危篤の老公の寝所にすることはあり得ない。

(寝ている病人がいない······忠清は起きているということか······)

 起きている人物でUが確認できたのは、新藩主の酒井忠挙(タダタカ)──この時はまだ改名前の忠明(タダアキラ)だが──、藩士、茶坊主、下人、女性、子供だった。

(それにしても不自然だ······この屋敷には危篤の病人に対する悲壮感がない······忠清は本当にここにいるのか?)

 慎重に梁を移動し、天井裏に耳を押し当て、穴を開けて覗いているだけで、またたく間に1時間が経過した。

 ついにUも負けを認めざるを得なかった。

(撤退しよう──。これ以上は危ない)

 捜索をあきらめたUは、思考を止めて呆然と立ちつくした。その屋根裏へ書院の会話が洩れてきた。

「──というわけで、万一の時は藤堂殿からご助力を得られることになっておる」

「それは分かっておりますが、もし大樹(※将軍)からの見舞いの使者がこられたら──」

「いやいや──隠居の身で亡くなったのだから検分もござるまい」

「されど、他のご老中や縁者から葬儀の立合いを申し込まれることは必定──」

「──身内だけの葬儀を強く望んでいると伝えるしかあるまい」

 何も考えずに会話を耳にしていたUは、ふと、声の1つに、藩主と同等かそれ以上の権力者の口調を感じた。

(おや、何だろう······この大物感は······)

 Uは急いで穴から覗いてみた。しかし──、藩主の忠挙、家老らしき藩士2人、用人らしき藩士が1人、そして頭巾をかぶった茶坊主1人がいるだけだった。

 覗き穴から顔を離し、気持ちを切り替えると、わずかな穴を埋めて光の侵入を消した。スコープを付け直し、屋根裏の出口へ向かった。

 途中、縄に巻かれたままの忍者の無事を確認した。

 出口の手前までくると、穴からは弱い光が射し込んでいた。その光を見て、Uは立ち止まった。

 潜入、対決、退散、生還、未来、無念、ここまでのあらゆる思いが交錯した──。

(あっ······あれっ······あれが忠清という可能性はないか?)

 Uは、あるシナリオが浮かび、愕然とした。

 ──かつての権力者だった忠清は、将軍綱吉からずっと警戒されていた。その巨大な権力を削るために、酒井家の過失は常に狙われていた。忠清が一時的な病状を理由に大老を解任されたのも、その一例だ。

 忠清が大老職を降りたあと、酒井家はさらに公私にわたって他家とのつきあいをとりづらい立場になった。

 “忠清が亡くなったことにすれば、将軍綱吉からの狙い撃ちも収まるのではないか?”──と、酒井家が考えても不思議ではない。

 幕閣として仕事をするには、他家との綿密な情報交換が必須であり、四六時中、過失を見張られてたら、とても俊敏果断な言動ができない。

 忠清の死によって、綱吉からの敵視が解消されれば、酒井家は平常運転に戻れるし、忠清は自領の厩橋(※現:前橋市)で、正体不明の楽隠居として第二の人生を楽しめる──。

 これら一連の流れが、わずか数秒でUの頭の中をよぎった。

(すると······あの頭巾をかぶった中老の茶坊主こそ······忠清······)

 なるほど外部の者に、遺体を確認されては困るわけだ。

 そこで急遽、火葬して灰を埋葬してしまったことにした。土葬なら下手をしたら掘り返されて確認される恐れがある。

 Uは考えがまとまるや、いよいよ身の危険を感じた。

(だいたいの状況は読めた、あとは急いで退散だ······)

 出口の穴の手前でスコープと特殊マスクを外し、懐へ入れ、屋根の外へ上半身を出した。

(あの茶坊主······もっと確認しとくんだった······)

 苦笑いを浮かべたUの喉元に冷たいものが当たった。

「動くなっ」

 油断したUの喉元へ、くノ一(女忍者)がクナイを突きつけていた。

「動くなっ──そのまま動くな──よし、ゆっくり上がれっ」

「分かった」Uは素直に指示に従った。

「そのまま、うつ伏せで動くな、──よしっ、両手を後ろに回せ、もっと、しっかり回せ」

 後ろ手に縛られたら、もはや脱出は不可能だ。

 Uはおとなしく後ろに手を回して、相手の縛るのを待った。

 くノ一はUの背中に片膝を乗せて抑えつけた。クナイを持って用心しながら縛るのは、当然のことだった。

 Uは相手の両手がどちらも縛ることに使われるのを狙っていた。そして縄を強く巻きつけようと膝の抑えが上下した瞬間、Uは上体を捻じって起こし、相手の膝を押し上げた。

「あっ、あっ、こいつ──」

 両手が縄を掴んでふさがっていた女忍者は、バランスを後ろへ崩した。

 くノ一は、急いで上体を前にかがめて膝で抑えつけようとした。

 すかさずUが自分の上体を勢い良く反対に戻すと、くノ一は頭から前へ投げ出され、両手を屋根についた。

「あっ──」

 四つん這いになった女は慌てて態勢を立て直した。わずかな秒間──1、2秒──、Uは素早く横転し距離を開け、手に絡んだ縄を取り払った。さらに飛び下がって中腰になった。

 クナイが飛んでくることを予期したUは、小刀を抜くよりも先に、両手を胸の前に出して構えた。──が、相手はクナイで身構えたままだった。

 Uは相手がすぐには投げないと見て、ゆっくりと自然体に立って、伸ばした手を弛めた。

 くノ一は事態の急変に戸惑った様子だったが、クナイを片手に充分に膝を曲げ、防御を強く意識して構えた。

「······」

「······」

 数秒の間、無言で見つめ合った。

 無意味な沈黙に、耐えきれなくなったのか、くノ一は苛立つようにいった。

「逃げたければ、逃げたらどう?······もう屋敷中に知れわたってますけど」

「──なら道を開けてくれ、俺は女と戦うつもりはないんだ」

「へっ、舐められたもんだねぇ──あたしも」と、くノ一。

 Uは改めて相手をしっかり観察した。

 声音の感じから歳は20代前半ぐらいだろうか、小柄ながら、鍛えて引き締まった筋肉が、黒装束にぴったりと密着して盛り上がっている。

 凛々しく向かい合う姿勢は訓練の賜物(タマモノ)だろう。覆面のため表情は分からないが、二重瞼の眼はUを凝視し、出方を窺っているのが見て取れた。

(なるほど······実戦には不慣れのようだな······)

「俺は敵ではない」Uは、くノ一に向かって力強くいった。

「え──?それなら下へ降りて、用人のかたへ話したほうが良いですよ。本当なら、許してもらえるんじゃないですか──?」

 一転、態度を軟化させた女忍者だったが、言葉には嘲笑が混ざっていた。

「君にだけ話しておきたいんだ」Uは近づいた。

 たちまち女の態度は元の硬さへ戻った。「残念ですが、騙されません。今すぐ下に降りて家中の者の指示に従いなさい」

「じゃ、その荷物、まとめるから──手伝ってくれるかい?」

「荷物はこちらで処理する。下へ降りなさい」

 Uが振分荷物に近づこうとするのをくノ一は防いだ。

 Uはいった。「おっと──その荷物を蹴り落とすと危険だよ、中に凶暴な毒蛇が2匹入ってるんだ。逃げ出したら──」と振分荷物の包みの片方を指した。

 女は振分荷物を手にとろうとしていたが、それを聞いてその荷箱を凝視した。

 その間、Uは闘争などなかったかのように折りたたんだハングライダーを抱えた。

「それを降ろしなさいっ」

「心配はいらない、これは武器じゃないから──、それとその箱の中身は、小袖と道中合羽に今変えたから、もう触っても大丈夫」

 蛇が入っているといった──振分荷物の片方の──荷箱には、初めから小袖と道中合羽と軽食用の小物しか入ってなかった。

 女は疑わしそうにUをジロッと睨んだ。

「それじゃ、君の命令に従い、下へ降りるとしますか──」と、Uは微笑をたたえていった。

「逃げるの?」女はUの笑顔を見て、今後の展開を読み取った。

「これで一緒に飛んでみる?2人の重みは支えきれないだろうけど、塀の外ぐらいまでなら飛べるんじゃないかな──」

 本気なのか冗談なのか、Uは女忍者にハングライダーでの2人乗り飛行を持ち掛けた。

「どうしよう······あんたに逃げられたら、あたしの責任だ······」

 若い女はオロオロし始めた。すぐにUは助言した。

「俺を捕まえたまま一緒に飛んでるところを見せれば、見張りの人たちも健闘を認めてくれるんじゃないか?」

 Uは、女忍者が無言なので、さらに言葉を加えた。「それに俺は幕府の密偵じゃない──だから心配しなくていい」

「ほんと?公儀(※幕府)の間者(※密偵)ではないの?証拠は?」

「証拠はない──けど、徳川綱吉も堀田正俊も、俺にとっては大嫌いの部類なんだ!」Uは叩きつけるようにいった。

 歴史好きのUの頭には、徳川綱吉は『生類憐れみの令』を強行した暴君で、堀田正俊は反骨精神が強くて礼儀を欠く人物──というイメージがあった。

 女はそれを聞いて、サッと左右に目を向けた。誰もいないのを確認した。

「あんたって──乱暴ね、お偉いかたを名前で呼び捨てにするなんて──誰かに聞かれたらどうするの?」

「聞かれて何か問題あるのかい?」

「え──」

 くノ一は呆れて、微笑んだ。

「──でも、何となく分かった。あんたは私たちの味方なのね」

「そうさ──」Uは大見得を切った。

Uの認識では、酒井忠清も大嫌いの部類──贈答品をたくさんもらう悪代官のイメージ──に属していたのだが、そのことはいえなかった。

 女が敵対心を消したようなので、Uも気が楽になった。

「さて準備は良し──その振分荷物は置いていっても良いけど、コーヒーの容器を残すのはマズいな、それをとってもらって良いかな?」

「でも毒蛇──」

「その弱虫の蛇は、小袖と道中合羽に変えたよ──僕の変化(ヘンゲ)の術でね」

 それでも、くノ一は荷物を見つめているので、Uは進んで拾い上げ、さらに屋根の縁から庭を見下ろした。

 屋根の下では見張りが2人、あたりを見回していた。

 Uは女忍者にいった。「飛ぶからしっかり腰に掴まってるんだぞ?飛び出すまでは俺が横に抱えていくから」

 女はUの大胆な態度に混乱して頷いた。

 しかし、すぐに身を引いた。「ちょっと待って、やっぱり──止めときます。あなたのこと、まだよく知らないし──」

「そうか──、すると、ここでお別れか」

「──でも、次に町中とかで会えたら、少し好きになれるかも」

くノ一は思わせぶりなことをいって、Uをからかうようにくすくすと笑った。

「君にまた会えたら嬉しいな」Uは顔を赤らめ、喜びに浸った。

「そうだ、忘れるところだった──君の仲間が屋根裏で寝ているから、あとで起こしてあげてくれ、縄に縛られてる」

 縛ったのは自分ではないかのような説明をして、酒井家の屋根から颯爽と飛び出した。

 快適な気分で夜風を切った。仕事を果たし、敵対した異性とも関係を改善できた······。Uは遠く離れた青田に着陸して、菅笠を忘れていたことを初めて思い出した。

「あーあ、もう面倒だから忍者のまま、夜のうちに戻ろう──」

 Uは暗視スコープを懐から出して、裏道を探して歩き、内藤新宿へ向かった。

(下馬将軍······2度目の人生は、茶道や絵画でも楽しむのかな······それとも供を連れて勧善懲悪の旅でもするのだろうか······)

 本道の町木戸を避け、随所で裏道を抜け、大きく迂回した。内藤新宿の東──その近くの林の中に、タイムスリップの装置は隠してある。

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