幸せのコーヒー

なぎ

コーヒーっておいしいよね

 あれはまだ、誠二が大学の近くのアパートに、一人で住んでいた時のことだった。

 部屋が大学に近いということもあって、誠二の部屋にはよく友人たちが来るのだが、その日はちょうど、午前中の中頃に、祐也が訪ねていくことになっていた。

 今日提出の課題のことで、お互いに相談したいことがあったのだ。

 待ち合わせ時間は午前10時。それで祐也は、その時間の少し前に、誠二の部屋に行ってみた。インターフォンを押してみると、

「あいているよ」

という返事。

 それでドアを開け、部屋の中に入ってみると、1DKの部屋の食卓に、すでに誠二がついていた。きれいな水色の陶器のマグカップを抱え込むようにしながら、食卓にぺたんと頬をつけている。

 マグカップからは、ほのかな湯気が上がっていた。

 部屋に広がっている香りから察するに、どうやらコーヒーであるらしい。湯気が見えているところからして、中身はまだ、ほとんど飲まれていないのだろう。


「………冷めますよ、それ」


 祐也がそう言いながら靴を脱ぎ、部屋に上がった。誠二ははっとしたように身体を起こした。それからほんの少しだけ面映ゆそうな顔で笑って祐也を見る。


「おはよう、祐也」


祐也も笑って挨拶を返し、キッチンのシンクを借りて手を洗ってから、誠二の向かいの椅子に座った。誠二が思いだしたように祐也に聞く。


「あ、何か飲むかい?」

「ありがとうございます。ですが、すぐ終わるので大丈夫です」

「そう?紅茶ならすぐに入るけど」

「………紅茶ですか?それは、……コーヒーですよね?」

「うん、これはコーヒー。ああでも、最初の一杯というか、最後の一杯だから。いや、また豆から挽けば入れられるんだけど、……」


 しどろもどろにそう言った誠二が、無意識にだろう、自分のカップをほんの少しだけ引き寄せる。まるで祐也に取られまいとしているようだ。そんな子どもっぽい無意識のしぐさに、祐也は思わず笑ってしまった。

 誠二がコーヒーを飲まずにいた理由に、うっすらと察しがついたからだ。

 祐也はからかうように笑って誠二を見る。


「もしかして、そのコーヒーを入れたのは麻里さんですか?」

「…………」


 誠二がどことなく気まずげに視線をそらせた。図星のようだ。祐也が微笑ましげに笑って目を細めると、誠二は眉を寄せて祐也を見返し


「………なんでわかったの?」


と聞いてきた。祐也は笑って、持っていたペンをくるりと回す。


「そのコーヒー豆って、これくらいの小さな麻袋に入っているものでしょう」

「うん」

「私がおすそ分けしたんですよ。麻里さんが興味津々のようだったので」

「え、」

「でも、たしか麻里さんって、そこまでコーヒーが好きってわけでもないでしょう。だから嗜好が変わったのかなって思ってたんですけど……。あなたに飲ませるためでしたか。いや、うすうすとそんな気はしていましたが」

「…………」


 祐也の言葉に、誠二が額を抑えて視線をそらせる。その指の隙間から見える頬が、うっすらと赤い。その微笑ましさに祐也がもう一度相好を崩すと、誠二は困ったようにコーヒーを飲み、それから小さく息をはいた。


「あ~、もう聞いてよ、祐也」

「いいですよ。何をです?」

「今日さ~、朝から色々とすごかったんだよ。いや、すごいっていうか、そこまでのことでもないんだけどさ。………朝、なんか不思議な音がして目を覚ましたら、いつの間にか部屋に来てた麻里が、一生懸命に豆をひいててさ。どうしたのって聞いたら、コーヒーを淹れるんだっていうんだよ。豆からだよ!?あんな、ドリップコーヒーすらあまり淹れたことのない奴が。それでひやひやしながら見てたんだけど、なんか説明書きを読みながらすっごく一生懸命に淹れててさ。………オレは、そこまでしてコーヒーが飲みたいのか、なんて呑気なことを考えてたわけ。キッチンで。そしたらやっと一杯分だけコーヒーができたんだけど。………」


 そこで一度言葉を切った誠二は、ちらりと手元の水色のマグカップに視線を落とした。ちなみにここにはないが、麻里は同じタイプの薄橙色のマグカップを愛用している。

 今、ちょうど、シンク横の洗い場に、伏せて置いてあるやつだ。


「あいつ、そのコーヒーをどうしたと思う?」

「どうしたもなにも………。その水色のカップに入ってそこにある時点で……」

「そう!あいつさ、その苦労して入れた入れたてのコーヒーをこっちの色のカップに入れて、オレに寄こすんだよ。おいしいから飲んでみろって。すっごい嬉しそうな顔で」

「…………」

「もう、オレはそれで朝から撃沈しちゃってさ。コーヒーも飲んでみたんだけど、味なんてよくわからなくなるし。でももったいなくて飲めないし、気づいたら麻里はいなくなってるし、祐也が来る時間になるし」

「…………あなた、何時間ここにいたんですか。私、一時間以上前に、大学で麻里さんとすれ違ったんですけど」

「……多分、二、三時間は前だと思う」

「その割にはコーヒーに湯気が……」

「ああ、何度か飲もうと決意してレンジであっためたんだけど……。もったいなくて」

「……………」


 祐也は沈黙した。誠二がコーヒー入りのマグカップを握りながら、もう片方の手で額を抑える。


「もう重症すぎて自分がこわい。………朝からこんなたった一杯のコーヒーだけで、自分がここまで幸せになれると思わなかった。オレって、ここまで麻里のこと好きだっけ」


 誠二があまりにも深刻そうな顔でそう言ったので、祐也はついにたまりかね、声をたてて笑ってしまった。

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幸せのコーヒー なぎ @asagi-maki

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