第3話 芽生える恋心

 昼休み、俺は誰に言われることもなく、屋上に向かった。


 そこに行けば彼女――自称屋上の主――に会える気がしたからだ。


「……」


 案の定、美里花は、いた。

 美里花は屋上の柵の手前で、ぼうっと空を眺めているようだった。


「……あのさ」


 俺は、何から言おうと戸惑いながら、そんな切り出し方で話しかける。


「……なに? もう話しかけないつもりだったんだけど」


 美里花は振り返らず、そんな事を言って振り返らないまま空を見つめていた。


「……その、あのさ、ごめん!」


 俺は、思いのままに、叫んだ。

 今はそれしか出来ないと思った。


「お前の詩、読んだよ! 正直、すごかった。すごい滑らかで綺麗な文章だと思った。なんていうか、リズムがいいよな。内容も、幼い頃の詩の瑞々しさが伝わってきたり、その後の少女の苦しみが伝わってきたりで、すごく、心が動いたよ。俺、ライトノベルばっか読んでて詩とか詳しくないんだけどさ。詩もいいなって、お前の詩を読んで初めて思ったよ。すごかった!」


 恥ずかしさを無視して、素直に思った感想を伝え続ける。


「こんなすごい詩を書いた奴に向かって、酷い事いって、馬鹿にして、本当に思いを踏みにじる有り得ない行為だったと思ってる。マジで、ごめん!」


 一通り伝え終わると、俺は、じっと祈るように美里花を見つめる。


「うっ……ううっ……」


 美里花は、ぷるぷると震えて、背中を向けて顔を下に向けたまま、顔を上げようとしない。


「……その、どうした?」


 俺は恐る恐るそう聞く。


 ――またしても、俺は彼女を泣かせてしまったのか……?


 ――また彼女を悲しませてしまったのか……?


 そう思い、絶望しそうになったとき、美里花は、突然がばりと振り返って、真っ直ぐに俺を見た。


 その表情は、ぼろぼろに泣き崩れていながらも、美しい笑顔だった。


「う、うう、嬉しい! 嬉しいよ、東雲くん! 良かった! 読んでくれて、ありがとう! 感想をくれて、ありがとう! わたし、嬉しいんだ! 本当に、嬉しい!」


 美里花は、喜んでくれていた。

 俺なんかの拙い感想を、これ以上ないくらい、喜んでくれていた。


「……ありがと! 本当ありがと! ……なんか、このままだと、何言っちゃうか分かんないから! それじゃ!」


 やっとの事でそれだけ言うと、美里花はたったった、と足音を立てて走り去っていってしまった。


「……なんなんだあいつは」


 呟きながらも、俺はまったく彼女を責める気にはなっていなかった。


「……綺麗な涙、だったな」


 俺は、今の美里花の涙が、途方もなく尊い、とんでもなく美しいものに思えていた。


 美里花の可憐な表情が、深く脳裏に焼き付いてしまっていた。


 どくん、どくんと心臓が熱く鼓動するのを感じる。


 ああ、本当になんなんだ、あいつは。


 ――気づけば俺は、美里花の事ばかり考えていた。

 




 *****





 午後の授業は、まったく頭に入ってこなかった。

 かなり自由な校風のこの学校では、授業を聞かず自習しているような者も珍しくない。

 俺もその仲間入りをしているように見えたのか、幸い先生に突っ込まれることは無かった。

 俺は、立てた教科書に隠して、美里花から貰ったルーズリーフをずっと見つめていた。

 

 遠く幼いあの日、わたしは詩の天才だった

 

 ――ああ、そうなんだろうな。お前はきっと、本当に天才だったんだろう。


 瑞々しい若葉に一匹のかたつむりが這うのを見ては、

 その静謐さの中で確かに物事が動いている喜びを詠む

 池に蓮の花が開いているのを眺めては、

 幾重にも重なった美しい花びらが、わたしの心に神秘への畏敬を生み出す不思議を詠む


 ――この部分だって、なんともいえない美しさ、幼い感性への感動がある。

 

 日々のあらゆる遊びが、あらゆる出会いが、あらゆる冒険が、詩の源泉となって、無数のわたしだけの詩が生まれた


 ――お前の幼い頃の詩も、見てみたいよ。


 嬉しい

 嬉しいよ

 嬉しい

 嬉しくてたまらない

 自然の美しさが嬉しかった。

 美しさへの感動を真っ直ぐに表現する事が、嬉しかった。

 わたしは生きている事が嬉しくてたまらなかった

 遠く幼いあの日、生は喜びに満ちていたのだ


 ――読んでいる俺まで嬉しくなってくる、この躍動感。本当によくできている。


 だが、学校に入ると、そこは灰色に満ちていた

 みんなは詩を詠んだりはしておらず、つまらない寓話、つまらない計算、つまらない知識を身に着ける事に必死になっている

 ににんがし、にさんがろく、にしがはち

 そんな無機質な詩を一年かけて暗記するのは、子供たちの頭をおかしくするための闇の陰謀としか思えなかった


 ――そうだよな。学校って、つまらなくて、どこかおかしいよな。俺も、ずっとそう思ってたよ。


 わたしはその陰謀に抵抗すべく、詩を詠み、そしてそれを歌にして歌う事にした。

 花の美しさ、草木の瑞々しさ、小鳥の生命の輝きを、清らかな子供の歌声で歌う

 それは天使の芸術とでも呼ぶべきものだったはずなのに

 大人たちはわたしを、悪魔の子と呼び、隔離した


 ――精一杯幼い心で頑張ったんだろうな。なのに、大人たちは残酷で無機質な対応をしたんだろうな。ありありと想像できる。


 ねぇ知ってる?

 翼をもがれた鳥が一生をかけて味わい続ける苦しみを

 ねぇ知ってる?

 邪悪な敵意に晒され続けた天使の心は、いつまでも純粋ではいられないという事を


 ――痛い。美里花という少女をすでに見知って、そして心惹かれていた俺は、彼女の痛みを自分の事のように感じていた。

 

 わたしはもがいた

 もがき続けた

 息ができない陸で泳ぎ続けた魚の死体

 あるいは、からからに乾いた砂漠で干からびていった旅人のミイラ

 そんな生命のなれの果てがわたし

 気づけば、詩を詠む事もできなくなっていた


 ――悲しいと、素直に思った。詩に愛された少女が、詩を詠めなくなった時の絶望は、いったいどれほどだったろう。


 いやだ

 いやだよ

 こんなのいやだよ

 詩を詠む喜びのエネルギーは、すべてわたしを傷つける濁流へと転じて、わたしの心をぼろぼろにした

 わたしはすべてを封印して、押し込めて、ぎゅうぎゅう詰めにして、固く閉ざした


 ――それは一つのバッドエンドだ。この現代にありふれた、一人の少女のバッドエンド。


 それから幾年が経ち

 わたしは高校生とよばれる身分になった

 ここに救いは無く

 日々は静かな絶望に満ちていて

 わたしはただ待っている

 救いの王子様が、キスをして、わたしを救い出してくれる事を

 そんな王子様がいないってことを、わたしが一番よく分かっているのにね


 ――そしてこの、もの悲しい読後感の締め方。素直にいいなと思う。

 ――しかし、キス、か。作者のとんでもない美少女っぷりを知ってると、思わず想像してしまうな。


 俺は、美里花のあの思わず守りたくなってしまうような可憐な相貌に、そっと口づけする所を幻視した。


 美里花は眠っていて、だが少し頬が紅に染まっていて――

 あのぷるぷるとした小さな桃色の唇に、唇を触れ合わせる。


 それは奇跡的な瞬間だろう。


 唇を通して、俺は真の美とはなんなのかを理解するのだ。


 そして美里花は目覚め、微笑む――


 美里花――


 ああ、美里花――


 語彙が、足りないと思った。

 俺の陳腐な語彙では、この複雑な感情を到底表現しきれない。


 そう思った俺は、小説執筆用に鞄に入っている辞書を取り出し、残りの授業時間を本当に辞書を読んで過ごした。


 さらに、それでも衝動が抑えきれず、気づいたらへたくそなポエムを書いていた。


 ――俺はどこかおかしくなっているのかもしれない。

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