「つないだ手」の主題による二つの変容
湾多珠巳
1 つないだ手
「はなしてっ! は、な、し、てっ!」
航太が繋いだ手を離せと暴れる。だが、離すわけにはいかない。数日前もこのスーパーで迷子にしたばかりだ。
こんな体格の子が人混みの中を駆け出すと、私の足では追いつけない。敵は素早く小さいから人と人の隙間を上手に駆け抜けて行く。私はたちまち見失う。
迷子になるだけならまだいい。迷子センターの人達は親切だ。たとえ心の中で『また貴方ですか』と思っていても。
それより怖いのは連れ去りや誘拐。ケガや事故。一人でスーパーを出て車道に出たらと思うとゾッとする。
もしも今、航太が死んでしまったら私は生きていけない、きっと。
「ねえ、あっち行きたい! はなしてっ、ちょっと見てくる!」
「だめったらだめっ。ちゃんとお母さんの手、握ってなさい!」
子供用カートにおとなしく乗っててくれたら良いのだが、航太はどうも他の子に比べて好奇心旺盛な人間のようだ。気になるものを見つけると直ぐに走り出す。
とにかく繋いだ手を離さないようにするしかない。これは航太の命綱だ。
だが、航太はその手から逃れたい。自由に走り回って見て触って納得したい。それは分るし、そうさせてやりたい。けど……。
「ねえ、ちょっと疲れた! そこですわってる! だからはなしてっ!」
「がまんしてっ。家でゆっくり寝っ転がったらいいでしょ。だから早く帰んなきゃ。ね?」
「やだあ、はなして、は、な、し、て!」
他のお母さんたちはどうしてるのだろう? 一時的な辛抱だってよく言われるけど、もうここのところ、ずっと毎日、こんなことをしてるような気がする。ここ三ヶ月……半年……あれ、もしかしたら一年以上?
いつまで続くのだろうか? このまま一年後もこうだろうか? 奪われる体力もさることながら、いつどんなひどいことが起きるかとヒヤヒヤし通しなのが、本当につらい。私はこれからもずっとこの子の手を握り続けて……ずっと……
「ねえ、はなしてっ、はなしてよー!」
* * * * *
「ほら、手、放しちゃだめよ。ちゃんとついてきなさい」
「ああ、わかってるよ」
温かい大きな手を引きつつ、私はゆっくりと庭園の小川をわたった。少し先の木立で小鳥が鳴き交わしているのが聞こえる。傍らの植え込みに、いい感じで春の小花が咲きそろっていた。
静かな、平和なところ。でも、母親の心配は一生ものだ。どれだけ時間が過ぎても、子供の手を取らないではいられない。
「そこ、段差があるのよ。気をつけて」
「うん」
航太が後ろの嫁や孫たち、看護師に目配せしてるのがわかる。声を潜めて、孫が航太に笑いかけた。
「気をつけるのはおばあちゃんの方だよね?」
「だめだよ、そういうこと言っちゃ」
「お父さんにつかまってるの、おばあちゃんの方じゃん」
「本人がリードしてる気分になっるんだから、いいんだよ」
「でもさあ」
全部聞こえてるのよ。ほんとに、半ボケしてると思って好き放題。
あんたたちも、あと六十年もすれば解るわ。ずっと子供の心配して心配して……いまさらやめろって言われてもね。
ああ、でももちろんこれも解ってる。あの身を削るような不安と畏れ、それはさすがにもうない。
ないけど、でも手をつながないではいられない。だって、わかるでしょ? あんだけ苦労した毎日だったんだから。ほんとに、それはもう大変だったんだから。
今ここで、その分幸せな気分もらっても、バチは当たらないわよね?
「ほら、遅れないで……ちゃんとお母さんの手、握ってなさい」
「ああ、わかってるよ」
航太は苦笑混じりに、それでも優しさを湛えた声で、私にしっかり応えてくれる。
「放さないよ」
<了>
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