第22話

 バチンッ! と、背中に痺れるような痛みが走った。

「うわ…」

 唐突だったために、変な声が洩れる。それから、叩かれたのだと気づいた。

 背中が痺れるのを感じながら、恐る恐る振り返る。

「うわ…」

 そしてまた、間抜けな声をあげた。

 そこに立っていたのは、がたいのいい男だった。

 耳のピアスをぎらつかせ、真冬だというのに、今にはち切れそうなTシャツを身に纏っている。目は三日月のように歪んでいて、ひび割れた唇の隙間から、黄色い歯が覗いていた。

「え…」

 誰だ…こいつ?

 心臓が逸るのを感じながら記憶を辿る。だが、該当するものはなかった。

「あの…」

 誰ですか?

 そう聞こうとした瞬間、粉を吹いた手が、僕の肩の上に乗った。

 指が皮膚に食い込み、鈍い痛みが走る。

「よお、最近どうよ」

 男は、僕が待ち望んでいた言葉を、低い声で言い切った。

「心配したぞ、二週間も音沙汰無しで」

 その言葉を耳から脳ミソに押し込み、何度も掻きまわして考えた僕は、ある結論に至った。

 つまり、こいつは、僕の友達…というわけか。

「ああ、うん」

 でも何だろう? この感覚。この男からは、あまり善意を感じることができない。むしろ、貶めてやろう…とでも言うような、悪意のような…。

 とにかく、友達なら友達として、それなりに接して見るか…。

 腹を括った僕は、にこっと笑い、肩手を挙げた。

「久しぶり。悪かったな、二週間も」

 音沙汰無しで…。

 そう言おうとした瞬間、男が放った拳が、僕の腹にめり込んだ。

 大した力じゃない。でも、僕の言葉を途切れさせるには十分だった。

「うっ…」

 呻いた僕は、身を捩らせ、危うく椅子から落ちそうになる。

 男の腕が伸びてきて、僕の手首を掴んだ。

「舐めやがって…」

 本性を現したように、男の顔から笑みが消えた。

 真っ黒な目が僕を睨み、臭い息が顔に吹きかけられる。

 男は気に入らない…とでも言うように鼻を鳴らすと、言った。

「お前さ、地域企画論の発表資料は用意したのか?」

 何のことだ? と思ったのだが、すぐに、こめかみの辺りにピリリ…と電気が走った。

「あ…」

 思い出した。いや、完全に思い出したわけじゃない。でもなんとなく、それが嫌な記憶であるということはわかった。そして、思い出さない方が幸せであると、気づいた。

「いや…、用意は…」

 しどろもどろになる。そして、観念したように俯き、絞り出した。

「…ごめん」

「いや、俺に言うなよ」

 男は舌打ちをする。

「謝るなら、綾瀬に謝れ。お前とペアになったあいつ、お前の分も働いて資料作ってるんだぞ? 他の授業のレポートも作らなくちゃならないのに」

「う、うん…、そうだね、あの人には、迷惑をかけたから…」

 僕は軽く腰を上げ、部屋を見渡した。

「ええと、あ、綾瀬さんは…」

「馬鹿野郎が」

 ゴツン! と、後頭部を拳で殴られる。

「綾瀬がこの授業にいるわけないだろ」

「あ、そ、そっか。別の教室か…」

 僕はおどけたように笑い、後頭部を掻いた。

「ま、また謝っておくね」

「だから馬鹿かってんだよ」

 男はうんざりしたように声を荒げ、僕の腹を殴った。

 さっきよりも強い力だ。息が詰まる。

 内臓が蕩けているような気持ちの悪さが全身に広がり、目に涙が滲んだ。

 そんな僕の頭を、男は埃を掃うかのように叩く。

「謝るだけで済むと思うなよ。お前も手伝うんだよ」

「そ、そうだよね。うん、わかってる…」

 くそ、いちいち殴りやがって…。

「この講義が終わったら、綾瀬さんのところに…、手伝いに…」

「だから馬鹿かっつってんだよ!」

 ついには、部屋全体に響き渡る声で言い、僕の脛を蹴りつけた。

 さすが弁慶の泣き所。骨が砕けたんじゃないか? ってくらいの痛みが広がり、僕は声を出す余裕も無く見悶えた。

 そんなことお構いなしで、男は僕の頭を掴む。

「発表は明日だ。綾瀬は、今図書館に籠って作ってんだよ。もし間に合わなくて、あいつが単位落としたらお前、責任取れんのか?」

「そ、それは…」

 言い淀むと、男は僕の腕を掴み、引っ張った。

「おら、資料完成させに行くぞ」

 そして、足が痛む状態で無理やり立たせる。

「ちょ、ちょっと待ってよ、この授業は…」

「お前が単位落としたところで知ったこっちゃないんだよ。むしろ落としてくれた方が清々するわ」

 僕の制止を一蹴した男は、有無を言わせず扉へと引っ張っていく。講義室の外へ出るまでの間、沢山の奇異の目が僕の首筋に突き刺さった。

 今すぐ砕けて消えてしまいたい気持ちに駆られながら、僕は図書館へと連行されたのだった。

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