第18話 【二〇一八年 一月十九日】

 皆月を出迎える準備は済ませておこう…と思い、夜が明ける前に目を覚ました。

 布団から抜け出した僕は、白い息を吐きながらジャージを着ると、冷凍してあった食パンをトースターに放り込み、ダイヤルを捻った。

 薄暗い台所に、ぼんやりと浮かび上がるトースターの赤い光。それを見ると、なんだか心臓の鼓動が逸った。悪い感覚じゃなかった。

 それから顔を洗うべく、蛇口を捻り、水を出した。

 猫に触れるみたいに、流れ出る水に手を近づけて見たが、一向に温かくなる様子はない。

 別に急ぐ必要なんて無いのに、なんだか背中を蹴られたような気がして、僕は水を手に汲んだ。そして、割れるような冷たさに悲鳴をあげつつ、それを顔に掛ける。途端に、毛穴という毛穴が驚いて、引き締まるのが分かった。脳みその皺にこびり付いた眠気…というやつも、シンクに流れ落ちる。

 再び流れ出る水を手に汲む。その瞬間、給湯器が己の役割を思い出したかのように、温い水を吐き出し始めた。

 指先に、体温が戻る。

 もう少し待てばよかった…と後悔しつつ、僕は温かい水で顔を洗った。

 その時だった。

「ナナシさん、来たよ」

 玄関の扉の向こうから皆月舞子の声がして、僕は濡れた顔のまま振り返った。

「…あれ」

 まだ六時半…来てないよな…? と思った瞬間、扉が激しく叩かれる。

 僕は、顔と手が濡れたまま玄関に駆け寄り、開けた。

 次の瞬間には、頬を赤くし、白い息を吐きながら、皆月が顔を出す。

「おはよー。寒いね」

 僕を見た瞬間、眉間に皺を寄せた。

「なんで顔、濡れてるの?」

「顔、洗っている途中だったんだ」

「ああ、そう」

 まるでどうでもいい…とでも言うように、皆月は部屋に入ってくると、ローファーを脱いだ。

「じゃあ、今日も早速、復元作業やっていきますか」

「ああ、そのことなんだけど…」

 居間に入っていこうとする皆月を呼び止める。

「外に行くのは、ありなのか?」

「外に行く?」

 皆月は首だけで振り返り、怪訝な顔をする。

 何か不味いことを言ってしまったのか? と思った僕は、慌てて発言を撤回しようとした。

「ああ、いや、その…」

「外に行かなくて、どうやって復元をするわけ? 道路の補修が家にいてできるわけ?」

 それより先に、皆月から放たれた言葉が僕の心臓を掠めた。

 拍動が早くなるのがわかる。

「ああ、いや…、そりゃわかってるけど…。君の様子を見ていたら、外に出るのは面倒になるのかな…? って思ったんだ」

「私が仕事で手を抜くと思ってんの?」

 皆月は、心外だ…とでも言いたげな顔をして、鞄を机の上に置いた。

「私はいつだって一生懸命にやるわ」

 昨日の彼女の様子を思い出し、僕は首を横に振る。

「いや、仕事に真面目に取り組んでいる人間とは思えない」

「誰だって仕事は嫌いでしょう? でも、やらなきゃならないからやるの。もちろん、顔では渋るわ」

 やはり説得力の無いことを言うと、鞄の金具に触れ、開けた。

 パソコンを取り出しながら言う。

「それで? 外に行くってことを提案してきたってことは、何か手がかりでも見つけたの?」

「ああ、そうだ…」

 気を取り直し、僕は居間に入ると、机の一段目の引き出しを開けた。

 通帳の上に置いてあった学生証を取り出し、皆月のノートパソコンの横に置く。

 それを見た瞬間、皆月は「お…」と声を上げ、にやりと笑った。

「…どうやら、僕は大学生らしい」

「へえ、なるほどね。なかなかいい情報源見つけたじゃない」

「そう…かな?」

 褒められたわけではないのに、なんだか嬉しい。

「大学に行けば、否応でも人の目に触れるからね。ナナシさんがどんな人間か知る手掛かりになるね」

 皆月は開きかけていたノートパソコンを閉じた。

「それじゃあ、早速大学に行こうか」

 言うが早いか、ノートパソコンを鞄に詰め、右手に握る。

「ああ、待てよ」

 玄関に歩いていこうとする彼女の手首を、僕は掴んだ。

「まだ授業の時間じゃない」

「は?」

 皆月は眉間に皺を寄せて振り返った。

「何言ってんの?」

「いや、今何時だと思ってんだよ。六時だぞ…」

 そう言って時計の方を振り返る。

「前言撤回。五時五十六分だ」

「ほぼ六時じゃない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る