第15話

「雇用契約書は何処かに無いの?」

 皆月がそう聞いてくるから、僕は「さあ」と肩を竦めた。

「皆目見当がつかない。なんたって記憶が無いから」

「ああそう」

 皆月は乾いた声で頷くと、椅子を回して、机に向かい合った。

 もう何年も使っているのか、ニスが剥げかかって傷だらけの学習机。その手前の引き出しを引っ張る。シャーペンや消しゴム、修正液といった文房具らが、急ブレーキを踏んだかのように滑り出た。奥には鋏やホッチキスなどがあったが、ただそれだけだ。随分とスペースを持て余していると思った。

「まあ、ここはスマホ見つけた時に見たから…」

 次に皆月は、その隣の引き出しに指を掛けた。

 引っ張った瞬間、ガンッ! と、嫌な音。

「あれ?」

 皆月は一度ノブから手を離し、自分の指を見つめた。それから、もう一度引き出しのノブを掴むと、引っ張る。けれど引き出しはびくともせず、彼女の指が滑り抜けた。

 彼女の舌打ちが聴こえた。

「鍵がかかってる」

「鍵?」

「うん」

 皆月は頷くと、右の引き出しを顎でしゃくった。だから僕も、引き出しに触れて引っ張る。なるほど確かに、硬い感触が指先に残り、引き出しは僕らを嘲笑うようにその場に留まっていた。よく見ると、ノブの横に小さな鍵穴が付いている。

「鍵、かかってるな」

「うん」

「じゃあ、その下の引き出しを探ろう」

「何言ってんの?」

 皆月は眉間に皺を寄せると、しなやかな指をこちらに差し出した。

「ほら、鍵、出して。開けるから」

「そうは言われても…」

 僕は気まずさを拭うように笑い、肩を竦めた。

「どこにあるか忘れた」

 また舌打ちが聴こえた。

「鍵を掛けてあるってことは、何か大切なものを仕舞っているってことでしょう? 人の手に渡って欲しくないもの、人に見られたくないもの」

「人に見られたくないもの…ね」

 僕はそれが何であるかを想像した。

 普通に考えるならば、通帳とか、印鑑とか、あとアパートの契約書とかだろうか。後考えられるものと言えば、お金とか、高価なアクセサリーとかだろうか。他には、エッチな…。

「この変態」

 まだ何も言ってないのに、皆月が僕の脇腹を蹴る。

「そういうのは普通ベッドの下に隠すもんだよ」

「ベッド無いし」

「じゃなくて、通帳とか、印鑑とか、あとアパートの契約書とか…、そういう失くしちゃまずいものだよ」

 もちろん、僕も一番先にそれを思い浮かべたのだが。

「ほら、ねえ、早く開けてよ」

 だから、鍵がないから開けられないというのに、皆月は駄々っ子のように言い、引き出しのノブを掴むと、激しく揺さぶった。ガタガタ…と、机全体が揺れて、本棚の小説が数冊落ちて来た。

 下の階に響いてはいけないので、僕は彼女の手首を掴み、止めさせる。すかさず払い除けられた。

「触るな変態」

「わかったよ。鍵はまた探しておくから」

「嫌よ、今すぐ…」

 皆月の言葉を無視して、僕は下の引き出しに指を掛けた。これには鍵は掛かっておらず、するりと開く。真っ先に目に映ったのは、何やら、文字が多く綴られた書類だった。

 僕は「あ…」と洩らし、そいつを手に取る。居酒屋のものではなかったが、一か月前の短期バイトの雇用契約書だった。

「喜べ皆月」

 僕はその契約書を皆月に向かって放る。ひらりと舞ったそれを、彼女が掴むのと同時に、引き出しに手を突っ込み、更に契約書を引っ張り出した。

「重要書類は、全部ここに入れていたらしい」

 確かに、その引き出しは他と比べて底が深いから、書類を仕舞うのにぴったりだと思った。積み上がったそれらを引っ張り出し、一枚一枚確認すると、アパートの契約書、ガスに電気、水道の契約書、さらにはスマホの契約書、バイトの雇用契約書と、出てくる出てくる。

「いいじゃん」

 皆月が僕の手元を覗き込み、にやりと笑った。

「契約書は良い手がかりだよ。何月何日にそれを結んだのか、それはどんな内容だったのか、はっきりわかるからね」

「…ああ」

 あまりにも膨大な数だったから、一つ一つ詳細を確認するのはのんびりと行うこととして、まずは、ミナミと関係している、居酒屋の雇用契約書を探した。すぐに見つかった。

 働き始めたのは、二〇一七年の十一月三日。雇用期間は二週間。ミナミと連絡先を交換したのが、十一月四日で、ちゃんと証言と一致していた。

 僕は肩を竦める。

「そもそも、知り合って一日の男と連絡先を交換するなんてさ、どんだけ尻が軽い女なんだよ。僕は御免だね。もっと人となりを見たいもんだ」

 恥ずかしさと苛立ちからそんな悪態をついてみたが、返事が返ってくることは無かった。

 見ると、皆月はパソコンと向き合って座り、キーボードを叩いていた。

 その目は大きく見開かれ、口は半開きとなり、その端から涎が垂れている。背中は猫のように丸くなり、髪の毛が目元を覆ってもお構いなしだった。

 話しかけただけで舌先が裂けてしまいそうなその威圧感に、僕は立ち尽くした。

 とはいえ、僕のことが眼中にないわけじゃなく、アパートの向かいの自販機で缶コーヒーを買って戻ってみると、何も言わずひったくって、一気に飲み干してしまった。

 そうして皆月は、一度も休みという休みを取ることなくパソコンに向かい続け、四時間という時間を消費した。

 そして、時計の針が十三時を差そうというところで、その手を止めた。

「よし、今日はこんなものかな」

 さっきまでの集中力は何だったのか? と言いたくなるくらい、おどけた口調。

 振り返った彼女の目は、充血して、少し涙が滲んでいた。

「とりあえず、現状で復元可能な奴は復元しておいた」

「ご苦労」

「じゃあ、今日は帰るから。書類は失くさないよう、ちゃんと引き出しに入れておいてよね」

 そっけなく言うと、ノートパソコンの電源を落とし、閉じる。

「あと、引き出しの鍵も見つけておいて」

「わかったよ」

 頷く。

「もう帰るのか?」

「もう…って、私、来てから五時間は働いてるよ。過労死させる気?」

「ああ、そう言えば朝が早かったから」

 それでも、まだ五時間だ。フルタイムには程遠い。

「量より質よ」

 僕の心を読んだかのように、皆月は言った。

「ライフワークバランス。ビバ働きやすい職場」

 彼女は、足元のスクールバッグを取るため前屈みになる。シャツの襟の隙間から、黒い影の浮いた鎖骨が見えた。

 ノートパソコンを鞄に入れると、金具をしっかり留め、右手に持つ。

「それじゃあね。何か思いだしたら、こまめにメモを取ってね。理不尽に働かされる私を少しでも楽にしてちょうだい」

 僕の横を通り過ぎようとしたから、呼び止めた。

「明日は何時に来る?」

「今日と同じくらいの時間。火曜日は行かないよ。レディースデーだから」

「もう少し遅くしてくれないか?」

 火曜日の休みには突っ込まず、僕は言った。

 皆月は案の定、苦虫を噛み潰したかのような顔をした。

「嫌よ。私は、早く来て早く帰りたいんだから」

 働く時間は一緒なんだからどうでもよくないか? と思うのは、僕だけだろうか。

「また明日ね。ばいばい」

 皆月は急いたように手を振ると、玄関の方へと歩いて行った。

 一度鞄を置くと、壁に手をつきつつローファーを履く。コツコツ…とタイルを踏みしめ、折れていたスカートの裾を整える。そして、僕の方をちらっと振り返ったが、何も言わず部屋を出て行ったしまった。

 ばたん…と、不貞腐れたように閉められる扉。古いアパートだから、振動が床を這って足に伝わった。

 取り残された僕は欠伸をかみ殺すと、畳んであった布団を再び広げ、横になるのだった。

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