第2話
『調子はどうだ?』
男の子の足は空を切り、奈落へと落ちていく…なんてことは無く、硬い絨毯を踏みしめるような音がした。
何かに躓くのなんて恐れないで、男の子は部屋の奥へと歩いていく。
『今日な、映画を見てきたよ。母さんと一緒に』
男の子の声が響き渡った。
『混み合うだろうから、朝一番のやつを見てきた。でもやっぱり人が多かったな。斜め後ろに座っていた女子高生が、事あるごとに喋るから、いちいちイライラした』
暗闇で手を動かし、顎にやる。
『何で喋るんだろうな? 映画に夢中になっていれば喋ることなんて忘れるだろうし、そもそも、公共の場だぜ? 周りに迷惑にならないようにするのは当たり前だろう。それともなんだ? みんな一緒に楽しもうってか』
そうさっき見てきた映画についてぶつぶつと語っていると、生ぬるい部屋の空気が揺らめいた気がした。
あ…、と思い、男の子は喋るのをやめる。
次の瞬間、暗闇の奥で、誰かが声を発した。
『何の映画…、観に行ったの?』
主人公である彼に、似た声をしていた。
男の子はため息をつき、言った。
『「Witch's Ring 2」だよ。お前も好きだろう?』
その言葉に、暗闇の奥にいる誰かが息を呑んだ。
『最新作? 続編出てたんだ…』
『出てたんだって…、前に言ったじゃないか。母さんが、一緒に行こうって誘った』
『そうだったっけ?』
『なんで忘れているんだよ』
主人公の口調が強くなった。
『母さん、あの後すごく傷ついていた…。お前に喜んでほしかったって…』
『それで、どうだった? 面白かったの?』
彼の声を遮って、また暗闇から声が聴こえた。
主人公は三秒ほど息を呑んだ後、取り繕うようにして笑い、言った。
『それはお前…、自分で映画館行けよ』
『だったら、僕はレンタルビデオが出るのを待つよ』
ふっと笑い声。主人公の彼だ。
『まあ、ビデオでも良いけどさあ、映画も悪くないよ。一度さ、見に行ってみよう』
『映画でも良いけどさ、ビデオも悪くないよ。一度あんたも、レンタルビデオ屋に行ってみたらどうだ?』
『まあ、どうしても…っていうときは、ビデオ借りるけどさ』
すると、数秒の間があった後、小さなため息が聴こえた。
『僕が外に出られないのは、わかるだろう?』
『ああ…、悪かった』
一体何のことだろうか? 二人の間に気まずい雰囲気が流れた。
『それで…、昨日はどんなビデオを借りたんだ?』
贖罪のつもりか、主人公は、部屋の奥の者に話を振る。
すると、暗闇の向こうで、彼が息を止めるのが分かった。
一秒…、二秒…、三秒…、四秒。
『きっと、見たことがあるよ』
『かもしれないね。でも、気になる』
『じゃあ、ビデオデッキの電源を入れてくれ』
ふと目を動かすと、暗闇の中に、ぽつん…と、『1:25』のデジタル数字が緑色の光を放ちながら浮かんでいるのがわかった。それを見た彼は、煙を掴むように手を伸ばし、その数字の右側の辺りを弄る。指先が何か出っ張りを見つけ、迷うことなく押した。
カチッ! と乾いた音が響いた瞬間、ウイーン…と、どこの何から発せられているのかわからない、機械的な音が耳を掠める。
『この物語は、記憶を失った青年の話だよ』
留守だった主人公の左腕が上がり、彼の声がする方へと伸びた。そして、乾いた指先が、暗闇の中を泳ぐ。
『戦時中、飛行機の墜落事故を起こした主人公は、ある島に流れ着くんだ…』
ビデオデッキの電源ボタンは簡単に見つけられたというのに、彼が差し出しているビデオをなかなか掴むことが出来ない。
『だけど、事故の衝撃で彼は、記憶を失っていた…』
位置が悪いのか? と思ったのか、更に腕を伸ばしてみたが、やはり、主人公の手はビデオに触れることはできなかった。
『海岸沿いには、小さな町があって、そこに住む少女が彼を救助する…』
そうこうしている間にも、彼は映画のあらすじを語っていく。
『その島は敵国の外れにあって、戦火は及んでいなかった。でも、敵国への怨恨感情は浸透していたようで、本来なら、彼は捕まって突き出されるはずだった』
息を吸い込む音。
『でも、少女は、彼を匿った』
次の瞬間、熱を宿した主人公の指先が、冷たく硬い何かを掠めた。はっとした彼は手を大きく広げ、それを掴む。間違いなく、ビデオだった。
軽い抵抗の感触があった後、ビデオは主人公の方に引き寄せられた。
『戦争頃のお話だけど、それはあくまで舞台装置でしかない。ほんの少し添えられているだけ。右も左も、介入する余地はない。この物語で楽しむべきは、主人公と少女の交流。そして、記憶を失った主人公が新たな自分を形成していくことと、蘇った記憶への葛藤…』
彼はまだ話していたから、主人公は慌てて、挿入口にビデオを当てた。軽く押してやると、ぎこちない音を立てながら吸い込まれていく。
テープが最後まで巻かれて止まっていたので、すぐに撒き戻しボタンを押した。
鈍い鉄の塊の中で、黒い帯が回転するとともに、表示された数字がみるみる若くなっていく。
その間に、主人公は指を這わせ、ビデオデッキの上にあったテレビの電源を入れた。そして、入力切替。ビデオが最後まで巻き戻ったタイミングで、再生ボタンを押す。
薄暗かった画面がぱっと明るくなり、多少のノイズとともに表示されたのは、青い空だった。
子どもが絵の具をぶちまけたみたいに、青い空。
画面から発せられるその光は、墨汁に浸されたみたいに黒かった部屋を淡くなぞった。
『それで…、この映画のタイトルは?』
主人公はうっすらと浮かび上がった本棚を見てから、彼の方を振り返る。
彼は、パイプ椅子に腰を掛けていた。
もうずっとまともな食事を摂っていないせいか、ハーフパンツの裾からは枝のような脚が伸び、だぼだぼのTシャツの襟もとには黒い鎖骨が浮いている。
そして、その顔は…、真っ黒だった。墨を塗りたくった…というよりも、そこの部分にだけ、モザイク処理をしたかのような、無機質な色。
その異様な光景を目の当たりにしても、主人公は驚かなかった。
腰に手をやり、笑みを洩らすとともにため息をつく。
『この映画の、タイトルは?』
真っ黒な顔をした彼は、少し身を屈めると、言った。
『この映画のタイトルは…』
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