僕の名は。~my name~
バーニー
プロローグ【誰かの夢】
第1話
あまりにも生々し光景だったために、僕は最初、それが夢であることに気づかなかった。
僕はある何も停まっていない駐車場を横切って歩いている。アスファルトは所々砕けて、踏み出すたびに、足の裏に小石が刺さるような感覚があった。見上げると、子どもが塗ったみたいな青空。風が吹いていて、鼻の奥が冷えるような、乾いた匂いがした。
立ち止まる。見ると、そこにはショッピングモールがあった。もう随分と月日が経ったのか、外壁はくすみ、亀裂が走っている。
僕はそのショッピングモールに近づくと、ガラス戸を押して中に入る。百メートル、いや、二百メートルはあるだろう広い通路には、沢山の店が軒を並べていたけれど、誰の姿も見ることはなかった。誰ともすれ違わなかった。でも床は綺麗に磨かれていて、スニーカーを履いた足で踏み出すたびに、きゅっ! と音が鳴った。天井の照明が煌々としていた。
エスカレーターは駆動していない。だから仕方なく、自分の足を使って二階に上る。それから、少し入り組んだ通路を進み、隣接された映画館に入った。
来る途中誰ともすれ違わなかったように、薄暗い映画館の中にも誰もいなかった。もちろん、ポップコーン売り場にも誰も立っていない。絨毯の柔らかい感触に微笑みながら、僕は券売機に向かった。何の映画を観ようと思ったのかはわからない。そもそも、券売機の画面は真っ白だった。でも僕は手を勝手に動かし、白く光るだけの画面の右上に触れた。
すると、ガシャンッ! と、お金も払っていないのに券が出てくる。僕は手を伸ばして、それを摘まむ。
「………」
『譛晄律螂亥、乗ィケ』
チケットには映画のタイトルが書いているわけだが、何と書いているのかは読めなかった。いや、読めないというよりも、理解ができない。内容が頭に入ってこない。まるで空中に絵を描くかのような、輪郭を伴わない文字がそのチケットには綴られていたのだ。もしかしたら、タイトルなんて無いのかもしれない。そう思えた。
そんな得体の知れない映画だというのに、僕は嬉々として踏み出した。誰も立っていないもぎりの前を通り過ぎ、一番手前にあった扉を押す。中に入ると、薄暗い通路を進み、スクリーンが一番よく見える中央の座席に腰を掛けた。
まるで一仕事を終えたかのように息を吐き、スクリーンを見上げる。
すると、五秒と経たないうちに映画が始まった。
そこで僕は、これが夢だと気づいたわけである。
車が一台も停まっていない駐車場とか、誰ともすれ違わない店内とか、誰もいない映画館、勝手に動く券売機、奇妙な点はいくらでもあったが、スクリーンに移された映像で、僕はそれが夢だと理解したのだ。本能的な気づきだった。
スクリーンに映し出された映像…それは、誰かの視点だった。そして、それが誰であるか。この時も僕は、本能的に「男」、しかも、小学生か中学生くらいの若い奴だと気づいた。
なんでわかったんだろう…。
とにかく、映像は続く。ざっざっざ…と、彼はサンダルをアスファルトに擦りながら歩いている。両端に雑草が生え散らかした道を抜け、ある家に辿り着いた。二階建ての、萎びた家だ。塀は外側に傾き、外壁は雨風によって黒く汚れ、屋根瓦が落ちて砕けている。玄関までのアプローチには雑草が生えて、そのシロツメクサを目当てに、蝶々が飛び交っていた。
一見廃屋と見紛う民家だったが、映像の中の男の子は、迷うことなく門を潜って入り、アプローチを抜けると、玄関の戸に触れた。
鍵は掛かっていなかった。横に力を込めれば、カラカラ…と開く。
「ただいま」
男の声でそう言う。そこで、僕の本能的な確信は正しかったのだと気づく。
サンダルを脱いだ彼は、上がり框に足を掛けて、踏み入れた。木目の美しい床が、みしっと軋む。
見ると、短い廊下が続いていた。両端に何処かの部屋へと通じる扉がある。右奥には、二階に通じる階段があった。その左奥には扉があって、半開きの隙間から、台所の様子が見えた。もちろん、誰も立っていない。
男の子は歩き出すと、階段を昇り始めた。急な階段だったが、慣れているのか、怖気づくことのない堂々とした足取りで階段を昇りきる。その先にも、当然廊下があった。短くて狭い廊下だ。奥に、扉がある。
ため息をついたあと、男の子はその扉に向かって歩き出した。しかし、途中立ち止まり、左を向く。そこにもまた、扉があったのだ。物寂しい扉だ。小窓は無く、吊るし札も無い。木目が無機質に刻まれ、ドアノブのネジが緩み、外れかかっていた。
「入るぞ」
男の子はそう言ってドアノブを掴んだ。そして、横にスライドして開ける。
扉の先には、闇があった。床の模様も、壁の張り紙も、その奥にある何かも見ることは叶わない、まるでバケツ一杯の墨汁をぶちまけたかのような、漆黒の闇が広がる部屋だ。
男の子は鼻を擦ると、日の光一片たりとも侵入を許さない、黒い海へと足を踏み出していた。
『調子はどうだ?』
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