エスカレーター

クロネコ太郎

エスカレーター


 私は電車の乗り継ぎの途中にある、エスカレーターに乗っていた。眠い目を擦りながら、地上を待つ。


 相変わらず人が多く、左斜線では割って入る余裕のないくらい、常に人が登っていた。

 目の前には、50代を過ぎたであろう白髪のやさぐれたサラリーマンが、陰鬱そうな雰囲気でスマートフォンを眺めている。


 いつもと同じような光景、それはずっと変わることがない筈だった。

 

 私はふと、違和感に気がついた。普段なら、もうとっくにエスカレーターを上り詰めている時間だ。しかし、一向に辿り着く気配がない。


 周囲の景色を眺めても、中央辺りから進んでいないように見えた。

 働き詰めで、頭が可笑しくなってしまったのだろうか。

 

 人は幻覚を見るようになる前、永遠に電車が、走り抜けているよう見えるらしい。それは、幻覚症の前兆だとも言われている。


 私も同じような、幻覚症の初期症状を体験しているのかもしれない。


 私は、一度、心を落ち着かせようと深呼吸をした。大切なプレゼンの前にも、緊張を大きく解すことができていたのだ。きっと効果はある。


(……)


 状況は変わらなかった。これは本当に幻覚なのだろうか。


 相変わらず左斜線には人が絶え間なく流れ続け、二段前にはやさぐれた白髪サラリーマンがいる。


(仕方がない……)

 

 私は左斜線から登っていくことにした。


 何とか人波の中を割り込み、進み始める。


 しかし、自分の足で歩いてもなお、変化は訪れない。


 冷汗が絶え間なく滴って、悪寒がした。この明らかな異常事態に、私は動揺している。


 (なんだよこの状況……。)


 それでも、進むしかなかった。進む以外にどうすることもできなかった。


 そうして、長い時間上り続ける。そして上って上って上り続けて、いよいよ変化が現れた。

  

 先の方から何か大きな地鳴りのような音が聞こえる。


 電車が通過している音だろうか。


 ゴオオオォォォ


 その音は登るにつれ徐々に大きくなっていく。


 (本当に電車の音か……?)


 いつまでたってもその音は鳴りやまない。まるで海鳴りや山なりの音であるかの如く、壮大な煩さだった。


 相も変わらず、周囲の人々は板を見つめるか階段を上るだけで、その音を気にかけようともしない。彼らにとっては、駅内を流れる音楽程度のものであるかのようだ。


 (本当にこのまま進み続けて良いのだろうか。)


 とても嫌な予感がしていた。だが、どうにかなるだろうと楽観視もしていた。生存性バイアスがかかっていたのかもしれない。


(他にどうしようも無いしな……)


 私は、そのまま上った。鼓膜が潰れそうになるぐらいの大きな騒音は耳をふさいで抑えた。そして、登って、そこを見た。


「あ」


 暗かった、ひたすら暗闇が続いていた。エスカレーターを上った先には、暗い空間があった。


「わああああああ」


 私は、理解してしまった。

 

 そこは、この世ではない。エスカレーターを降りた先には、魑魅魍魎質の住処か、はたまたあの世であるのか、それとも別のなにかであるのか、とにかく私の生きている世界とは違う、別の場所であることは間違いなかった。


 そこは恐ろしい気配と騒音に支配されており、全身の鳥肌が逆立ち、心がそこへ降り立つことを拒絶した。


 そして、もう一つ直感で理解する。


 エスカレーターの先へ足を踏み入れれば、恐らく二度と元の世界に戻ることができない。


 私は、振り返り、エスカレーターを遡った。


 人々の合間を抜け、必死で下った。登ってくる人々が、邪魔になるかと思ったが、彼らは少し手で触れると、何故か人形のように倒れる。


 普段ならそういう行為に対して、罪悪感を覚えていたかもしれないが、今はそれ所ではなかった。

 ひたすら人込みを文字通りにかき分けながら、転がるように下り続ける。


 気が付いた時には、エスカレーターを下り終え、駅内で棒立ちしていた。


☆☆☆☆☆


 私はその後、階段を使用して電車に乗り込んだ。何事も起こらないまま、会社へと辿り着く。


 そして、会社のオフィスにどっしりと座る重量級中年課長は今朝の私の話を聞いて、大笑いした。


「っはっはっは。君、冗談にしてはなかなか面白い。」


「冗談なんかじゃありません!今朝、本当にあった出来事なんです。とても信じてもらえないかもしれませんけど、信じてください!」


 私は真剣な眼差しでそう訴えかける。


 すると、課長は少し考え込むような姿勢になった。


「まあ、真面目に考えてみるとだな、駅というの場所は、とても不思議なんだ。毎日、毎日数万、数十万、下手したらそれ以上の人々が行きかっている。長い間、それだけ多くの人間の感情が渦巻いているんだ。そんな場所なんて、そうそうないだろ?」


「そう、ですね……。」


(課長はいったい何を話そうとしているのだろうか。)


「そうして人間の感情が降り積もるうちに、駅には一つの意思が生まれたのかもしれない。ほら、言うじゃないか。人間が人形やら何かものに対して愛情、または憎しみをぶつければ形となって現れると。」


「つまり、駅自体が、多くの人達によって形造られた、呪い人形のようなものだってことですか?」


「ああ。駅は、意識を得てしまったんだ。そして、偶に君のような運の悪い人間を引きずりこんで、悪さをする。」


「なるほど。何となくですけど、理解できたような気がします。ところで、その話に根拠みたいなものってあるんですか?」


「根拠?そんなものは無い。適当だよ。たかだか一介のサラリーマンが、超常現象を憶測以外で語れるわけが無い。」


「えぇ……。」


「もしかすると、全部君の幻覚だったてこともあり得るわけだ。だったら、そう真面目に考えることでも無いだろう。」


「そうでしょうかね?私はやっぱり本当にあった出来事だと思えてならないんです。」


「仮に本当だったとしたら、君はかなり興味深い体験ができたじゃ無いか。なんなら、羨ましいくらいだ。」


「はぁ……。」


 あれを羨ましいだなんて、実際にあの場を体感すれば、到底そんなことは言えないだろう。


 結局、何故あの出来事は何だったのかは全くつかめずにいる。


 もしかしたら課長が言っていた話が、意外に核心をついているのだろうか。


 本当に駅という場所は、不思議だ。

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