つまらない世界の楽しみ方
瑠璃川 希哀
第1話 始まりの世界
朝、教室のドアを開ける。近くにいた人がこちらを見て、おはよう、と挨拶をしてくれる。私はそれに笑顔で返した。誰でも経験したことがあるであろう何気ない朝の日常。私はそのことに飽き始めていた。
いつからだろう。自分が勉強も運動もなにもかも普通だということに気づいたのは。人より少し運動ができたのは小学生まで。人より少し勉強ができたのは中学生まで。高校に上がった途端に私は自分が何にも得意なことがないただの凡人だということに気が付いてしまった。こんな何にもない私なんて
「・・・嫌いだ。」
思わず呟いてしまう。周囲の子に気づかれていないかと少し焦るが、みんな友人とのおしゃべりに夢中で私の声を聴いた人はいなかった。
また、いつものつまらない毎日が始まる。
私、桜坂雫は遠くの方で聞こえる先生の声をBGMに、窓の外を眺めていた。先日の席替えで窓際の一番後ろ、いわゆる主人公席を引き当てた私は、机の上に該当する教科書のページを開いてはいるものの授業は全く聞いていなかった。
ふわふわと浮かんでいる雲を眺めているのも飽きた私は前を向いてみる。どうせなら鳥の一匹ぐらい飛んでくれたらいいのに。
前を向いた途端、一気に授業中の空気が私を包む。私はその空気に流されて書き加えられていた板書を写し始めた。
私の日常はさっき窓から見ていた空に似ている。どこまでも同じ色で果てしなく続いている。そんなつまらないもの。どうしたらこんな日常から抜け出せるのだろうか。そんなことを考えているうちに今日も一日が終わった。
放課後、私は所属している放送部の部室に向かう。部室という名のただの放送室だ。部員はたった5人で同級生はいない。文化祭が終わって三年生が引退したから、二年生である私が部長となった。別に放送が特別うまいわけでもなく、面白いラジオ原稿がかけるわけでもない私が部長になったのは二年生が私だけだったという唯それだけの理由だ。
部室には誰もいなかった。今の一年生はほとんど幽霊部員だ。学校行事とかもろもろ忙しい時にだけ来て、アナウンスをしてくれる。それに対して何も不満はない。むしろ忙しい時に来てくれるのがありがたい。
私は部屋の奥に進み防音のため二重になっている窓を開ける。かすかに吹奏楽部の楽器の音や運動部の掛け声が聞こえてくる。私はその声に背を向けて、部屋の真ん中にあるテーブルについた。
ノートパソコンを立ち上げて電源をつける。いつものようにWordを開いた。片手にスマートフォンを持って明日の日付を検索欄に打ち込む。検索結果の中からラジオのネタになりそうな記事を広げた。猫の日。これは使えそうだ。こんな風に私の放課後はラジオ原稿を作ることになる。作ったラジオ原稿は次の日のお昼休みに放送するのだ。
パソコンに一時間ほど向き合い、原稿を作り終える。あとは適当にラジオの途中に流すはやりの曲を二曲選んで終了する。
窓の外は赤く染まっていた。開けっぱなしにしていた窓から湿気を含んだ風が入ってきて頬を撫でた。時刻は一九時十五分。完全下校時刻まであと十五分だ。
私は軽く口を動かす。あ・え・い・う・え・お・あ・お。そして声にも出してみた。ここまでして私は放送席に座った。原稿を取り出す。学校がある日は毎日読んでいるから染みがあったり、しわが寄っていたりとかなりくたびれている。
そんな原稿を片手に機材のスイッチを入れた。ぶーんと低い音が響く。私はこの音が案外好きだったりする。なんというか気合が入る。読むぞって思える。時計を確認する。一九時二五分を指したところで音楽をかける。ゆったりとしたクラッシックだ。題名は知らない。あるところまで流すと音量を絞り、マイクのスイッチをいれ、私は息を吸った
「完全下校時刻まであと五分です。校内に残っている生徒は速やかに下校してください。繰り返します。完全下校時刻まであと五分です。校内に残っている生徒は速やかに下校してください。それでは皆さん、さようなら。」
読み終えたらマイクのスイッチを切り、音楽の音量を上げる。そしてまた音量を絞っていき、フェードアウトさせた。機材の電源を切ったことを確認した私は無事に放送をし終えたことに安堵し、帰りの準備を始めた。窓の鍵を確認し、照明を消す。最後にドアの鍵を閉めればバッチリだ。
暗くなった廊下を速足で進む。目指すは職員室だ。ドアを開けると、職員室独特の珈琲の匂いが鼻をつく。室内はほとんどの先生が帰宅したらしく、ひっそりとしていた。私は鍵を返すと、パソコンに向かっている顧問のおじいちゃん先生に声をかけた。先生はパソコンから顔を上げると軽く
「お疲れ様。気を付けて帰りなさいよ。」
とだけ言うとまたパソコンに向かう。ちらっと見えたパソコンの画面には、数学の授業で使うのであろう数式がいくつも打ち込まれてた。
私はもう一度軽く頭を下げると職員室から退出した。人のいないひやりとした廊下に出るとふっと息を吐く。小学生の頃から職員室に入るのはどこか緊張する。別に悪いことはしていないのに。
職員室を後にし昇降口へと急ぐ。ローファーに足を入れた瞬間、声をかけられた。
「桜坂?」
「夏目くん・・・?」
振り返ると、同じクラスの夏目圭吾が驚いた顔でそこに立っていた。おそらく独り言で私にまで声が届くと思っていなかったのだろう。あるいは声に出すつもりはなかったかもしれない。夏目くんはクラスの中心的な人で私は必要最低限の会話しかしたことがなかった。お互い気まずい空気が流れる。先にその空気を破ったのは彼だった。
「いや、ごめん、こんな時間に誰かいると思わなかったから。いつも俺が最後なイメージだったし。」
「そっか・・・。でも私放送部だから・・・。」
どんどんと紡いでいく彼の言葉に、私は細々と返すのが精一杯で自分が情けなくなる。胸の鼓動がどんどんと速く、大きくなっていく。そんな私を気にすることもなく、彼は会話を続けていく。
「そうだったんだ。じゃあいつもの帰りの放送も桜坂が?」
「うん。」
「大変だよな。毎日遅くまで残ってるなんて。」
「そんなことないよ。好きだから。」
なんとなくで続いていた会話が私の一言で途切れた。思わずまずいことを言ってしまったのかと夏目君の顔を見る。しかしまずそうな顔をしていたのは彼のほうだった。
「ごめん、そうだよな。好きでやってるもんな。」
どうして彼が謝っているのか、私にはわからなかった。
「好きなことしてるのを大変だって言われるの嫌だよな。」
彼が付け足した言葉によってその疑問が解消された。それと同時にこんなにも人に対して優しく、誠実に対応することにびっくりした。彼のようないわゆる陽キャと呼ばれている人は私のような人にもっと適当に接していると思ってたから。自分がそのような偏見を持っていたことにも不甲斐なくなるけど。
「俺もサッカー好きでやってるのに何にも知らない人から言われたらむかつく。だから、ごめん。」
夏目君のまっすぐな言葉に思わず笑ってしまう。。
「別に大丈夫だよ。気にしてない。」
私の言葉に彼はほっとした表情をしてた。そしてその後彼は少し驚いた顔をした。
「桜坂が笑っているとこ、初めて見た。」
「うそっ」
彼の言葉は意外すぎて私は声を漏らす。彼はその反応に少しからかうように笑った。
「いつも空見てつまらなそうにしてるからさ。桜坂って笑わないのかって思ってた。」
そう言われて、図星だって思った。自分が生きている世界が平凡で退屈していたから。でもそれを今まで仲の良い友人にも、家族にも誰にも指摘されたことがなかった。だから夏目君にばれていたことに恥ずかしくなる。
「そういえば、夏目君はよく笑っているよね。」
恥ずかしくなった私はあわてて話題の矢印を自分から夏目君に向けた。
「だって笑っている方が楽しいじゃん。しんどい時もあるけど、泣いたり怒ったりしてもどうにもならないなら、笑っていた方がいいなって俺は思ってるんだよね。」
彼の言葉に思わず息をのんだ。そんな風に考えたことがなかった。そんな私の様子に気づくことなく、彼は言葉を続けていく。
「だから桜坂もさ、つまんないときも笑ってみたらいいよ。そしたら楽しくなるかもよ。」
「そうなのかな?」
私はそう答えるのが精一杯だった。
「もちろん無理にとは言わないけど、楽しくするのは自分自身じゃん。ってかすごく語っちゃったな、俺。」
恥ずかしそうにはにかむように笑う彼の姿を見ながら、私は彼の言葉を何度も反芻していた。
『楽しくするのは自分自身』
この言葉は分かるような、分からないようなそのどちらでもないような気がするけど。でも今までただただぼやいて、ため息をついて諦めているよりも素敵だと思った。
「ありがとう。」
その一言にすべてを込めた。
「どういたしまして。」
彼も一言だけを返した。
昇降口を出たら、冷たい風が足元を吹き抜けた。空を見上げると星がてんてんと瞬いている。私は少し口角をあげる。作っていることが、まる分かり不器用な笑顔だ。それでもいい。世界を楽しくする第一歩だ。
「また明日。」
私は夏目君にそう声をかける。すると夏目君はぴかりとした笑顔で同じように返してくれた。
明日はどんなふうに笑ってみようか、どんなふうにこの世界を楽しもうか考えながら、私は帰路につく。私の足音はどこか弾んでいた。
つまらない世界の楽しみ方 瑠璃川 希哀 @rio0611
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