改 ハリガネムシ

@miura

第1話

 もうどうでもよかった。この世に未練など何もなかった。

 そう思ってアスファルトに舗装された道をただ歩いている道田作造はあるものに目が止まった。

 世間で言う“スマホ”が道の上に横たわっている。

 月五万円の年金生活、スマホを買う金どころか月々の契約料金すら払う余裕などなかった。

 近づくとそのスマホはぶるぶると痙攣するかのように震えていた。

 道田はそっとスマホを拾った。

“ママ”という文字がディスプレイに浮かんでいる。

 やがて痙攣が収まったスマホを道田は道の上に戻した。

 これからどうしようか、いつも自宅アパートを出るときに考える。もう死のう、今日で死のう、これから死のうと思うのだが結局そんな勇気はなく、街をぶらついてまたおんぼろアパートに戻ってくるだけだった。

 今日も類に漏れず、死ぬことはできず、腹が減ったので十玉入って二百九十八円の冷凍うどんを買いに業務スーパーへと向かう。

 途中、すごい数のパトカーと救急車が追い越していったかと思うと、ペンシル型の十階建てくらいのマンションの前にそれらの車両は集結していた。ブルーシートで覆われたエントランスの手前にはトラテープが張られ警察官が二人立っていた。

 何かあったのかなと道田は思いながら前を通り過ぎ、見えてきた業務スーパーに急いだ。

 セールで冷凍そばも売っていたので併せて買い、プライベートブランドの缶ビールのロング缶六本と一緒にレジ袋に入れて来た道を戻る。

 ペンシル型のマンションのブルーシートはそのままで野次馬がたくさん集まっていた。

 暫くすると、さっきスマホが落ちていたところに差し掛かった。

「あっ」と道田は思わず声を上げた。

 スマホがまだそのままの状態で道の上に横たわっていた。

 道田はもう一度拾い上げた。

 今度は痙攣はしていなかった。

 周りをきょろきょろと見回すと道田はそのスマホをジーンズの後ろポケットに忍ばせた。


       ②

 馬場勲はおじいちゃん子だった。

 共働きの両親に代わっていつも一緒にそばにいてくれ、休みの日には遊園地とかに連れて行ってくれ、両親に叱られ泣いているときは「いさちゃんは悪ないからなぁ」と言って頭をなでてくれた。

 そんなおじいちゃんは長く痔で苦しんでいた。

 子供ながらに、トイレから出てきて悶絶の表情を浮かべているおじいちゃんを何とかしてあげたいと思った。

 ある日父に「どうしておじいちゃんはトイレから出てくるときにいつもあんな苦しい顔をしているの?」と聞いた。

 父は「おじいちゃんはお尻の穴が病気なんだ」と言って少し微笑んだ。

 人が苦しんでいるのに笑っていた父の顔は今でも記憶に残っている。

 そんなことから、おじいちゃんをお尻の穴の病気からなんとか助けてあげたいと思った馬場は小さい頃から医者を目指すこととなった。

 一年の浪人生活を経たのちに地方の国立大学の医学部に無事入学を果たした馬場だったが、残念なことに、入学式前日に大好きだったおじいちゃんが他界してしまった。

 それでも馬場の志がかわることはなかった。

 同級生のみんなはほとんどの親が医者で、サラリーマンの親などは数ええるほどしかいなかった。

 それに専攻は内科だ外科だ脳神経外科だと肛門科を目指す人間は少数派だった。

 同級生の中には「ババが肛門科ってできすぎやろ」と言う口の悪い関西人もいた。

 そんなこんなで齢四十にして馬場は開業医となった。

 自己資金でまかなえ切れない分は、子供のころ共働きであまりかまってもらえなかった両親が出してくれた。

 開業後は順調で、十五年経った今でも、猫の手が借りたいほど忙しいこともなかったが、院内の待合室に閑古鳥が鳴くこともなかった。

 大学時代の恩師に「馬場、お前が目指すところは、派手さはないがすごく堅実なところなんだぞ。この国には痔主が三千万人以上、人口の三分の一が痔予備軍なんだ。それにこれからは食生活の欧米化できっと大腸の疾患が増えてくるはずだから患者数は必ず右肩上がりになるから」と言われ、確かにわずかずつではあったが病院を訪れる人の数は毎年増えていった。

 そして、特にここ数年のことだが若い患者が急速に増えてきていた。男性、女性問わずだった。

 診察をすると症状がほぼ皆同じで、ひどい肛門裂傷になっており、明らかに外部から何か異物の挿入があることがわかった。

 三十年ほど前の恩師の言葉をさらに馬場は思い出す。

「食生活もそうだが、性生活の欧米化、あと、性の多様化もどんどん進んでいくんだろうな」


      ③

 さっきまであれだけ痙攣を繰り返していたスマホが諦めたかのようにおとなしくなった。

 チンした冷凍うどんを丼に入れ、卵を割って醤油をかけて今日の晩御飯とする。

 道田は地元の工業高校を卒業して板金工場で五年勤めた後、仕事帰りによく行っていた居酒屋の大将が体を壊し、跡継ぎを探していたところに手を上げた。

 料理学校に行くお金がなかったので、小さな割烹料理屋に頭を下げてアルバイトで雇ってもらい、五年の歳月を経て調理師免許を取得し晴れて大将の居酒屋の跡継ぎとなった。

 時はバブル景気に向かう絶好調の日本、何もしなくてもいくらでも客が入った。

 今みたいにチェーン店が過剰競争を繰り広げ生ビールが百八十円や二百円で売られることはなく、世間相場は五百円で、半分以上が儲けとなった。

 そして、稼いだ以上に散財を続ける姿に、店を持って二年目で一緒になった妻が、貯蓄をするように強く勧めたが道田は意に介さず、国民年金だけでは将来が不安なので妻は国民年金基金に加入することも勧めたが、うちは子供がいないから大丈夫だとやはり道田は意に介さず、やがてバブルが弾け、平成大不況が押し寄せ、ダメ押しのコロナ禍で道田は店を手放した。

 妻は店を手放す一年前に出て行き、すべてを失った道田は家賃二万五千円の風呂なしトイレ共同のおんぼろアパートを終の棲家として、月五万円の年金でただ生きているだけだった。

 うどんを食べ終えるとプライベートブランドの缶ビールを傾け、木製のテーブルに横たわっているスマホに手を伸ばす。

 ディスプレイに指が当たると“着信”という文字と“15件”という文字が浮かび上がってきた。

 誰かがこの持ち主と連絡をとりたがっていたのか・・だけど、痙攣をおこさなくなったということは無事に連絡が取れたということなのだろうか。

 生まれて初めて触るスマホ、これで電話もできて写真も撮れて何でもできるらしい。

 一度、滅多に利用しない地下鉄に乗った時、乗客のほとんどがスマホに興じている姿を見て驚いたことがあった。皆、一心不乱にスマホのディスプレイに喰らいついている、いや、憑りつかれている、と言った方が正解だった。

「おわっ!」

 いきなりスマホが痙攣を起こした。

“なつみ”とディスプレイに出る。その“なつみ”の文字の後にになぜかドクロマークがついていた。

 三十秒ほどでその痙攣は収まった。

 なつみという女性がこのスマホの持ち主と連絡を取りたがっているのか。

 相次ぐ痙攣が気になるので電源を切りたかったが、そもそもスマホにスイッチのような電源なるものがあるのか道田にはわからなかった。

 しかたがないので、万年床の枕の下にいったん避難させた。

 缶ビールが空になると、少し眠くなってきたので、テレビを点け、部屋の明かりを落とす。銭湯は週に二回で今日はその日ではなかった。

 相変わらず、テレビはくだらないバラエティー番組のオンパレードで、唯一毎週見ている不思議な昆虫にスポットを当てたNHKの番組にチャンネルを合わせる。

 今日の主人公は“ハリガネムシ”だった。

 今でも道田は覚えていた。小学生の時、祖母のお葬式で、お寺の駐車場の地面の上で一匹のカマキリが潰れて死んでいた。おそらく、車に引かれたのだろう。

 あっカマキリだ、と思った瞬間、気持ち悪い黒くて糸のような生き物がカマキリの体内から出てきた。

 そして、炎天下で焼けた地面の上をすべるようにして、あっという間に駐車場の後ろに控える草むらに消えていった。

 そのハリガネムシの全貌が目の前で語られている。

 簡単に言うと寄生虫の一種なのだが、一つ興味ある行動があった。

 ハリガネムシは寄生した宿主をコントロールすることができるというのだ。

 昔、ヨーロッパのある国で、コオロギやカマキリが川に飛び込む、人間で言うところの入水自殺をする事象が見られた。

 研究の結果、寄生したハリガネムシが、宿主が水に反射する光を見ると近寄りたくなるようにコントロールをしているというのだ。では、どうして、水に飛び込ませるのか?

水に落ちた宿主の体内から脱出して、水の中で交尾をするためだそうだ。

 難しい遺伝子の話が続き、道田は眠くなってきたのでテレビを消そうとした時、ナレーターは「どんな生き物にも必ず一匹以上の寄生虫が宿っているのです」とサラリと言った。

「昔は衛生的な問題で蟯虫とか持っている人がいたけど今のこの国にそんな人間はいないだろう」と道田は独り言を言ってテレビを消し万年床に体を沈めた。

その瞬間、枕の下からスマホが痙攣する音が聞こえてきた。


 翌朝、道田は朝早くおんぼろアパートを出た。

 昨日行った業務スーパーで、今日は卵の特売があるのだ。先着百名、なんとしてでもその百人に入らなければならなかった。なにせ、支給される国民年金からおんぼろアパートの家賃と光熱費を引くと二万ばかりしか残らない。プライベートブランドのロング缶ビール(一本二百円弱)はどうしても一日一本は吞みたい。そうなると残るお金は一万五千円。これを三十で割ると、そう、道田が使えるお金は一日五百円なのだ。もちろん食費込みだ、と言ってもこれでは食べること以外のことは何もできない。もう生きながらえることしかできない。生きるために生きているようなものだ、こんな事をいつまで続けるんだ、歳をとって歩けなくなるとどうなるんだ。貯金など一円もなくホームに入る金もなく頼れる親戚もいない。孤独死確定、そんなことなら今自ら命を絶った方がいいのではないか、といつもと同じことを考えながら業務スーパーに向かう。

 途中、昨日ブルーシートで覆われていたペンシル型のマンションが見えてきた。

 まだブルーシートは取り払われてはいなかったが、同じ制服を着た中学生くらいの女の子数人が手を合わせ、中には目を真っ赤にはらしている子もいた。そして、ブルーシートの周りにはたくさんのお花やお菓子やジュースが置かれていたというか供えられていた

 誰かクラスメートが亡くなったのだろうか。不慮の事故にでも遭ったのだろうか。

 そう思いながら通り過ぎ、しばらく歩くと道田は業務スーパーに到着した。

“たまご特売日”とかかれたのぼりの前にはまだ十人程度の人しか並んでいなかった。

 十分ほどして店が開店し、道田はおひとり様三パックまでの卵をゲットすることができた。一パックに十個入って百円。感謝以外の言葉が道田には思い浮かばなかった。

 業務スーパーを離れアパートに向かう途中チェーン店の牛丼屋の前を過ぎる。

“朝定食 290円”ののぼりが風に揺れる。

 外食にはもう何年も行っていなかった。

 たまには人に供されて食事がしたいと道田はごくりと喉を鳴らす。

 自宅アパートに着くと、買ってきたばかりの卵を茹で、インスタントコーヒーと十本入って三百円のスティックパンを朝食として道田は摂った。

 その後はやることなどもちろん無かったし、出かけるとお金を使ってしまうので、部屋の明かりを消し万年床に体を滑らせる。

 スマホを思い出し、体を起こし枕の下に手を伸ばす。

 ない。

 そんなはずはないと道田は枕を取り上げた。

 そこには敷布団の白いシーツがあるだけだった。

 確かに、昨日の夜、寝ようとしたときに枕の下で震えていた。その後、寝ているときに痙攣を起こされたらいやなのでどこか他の場所へ移したのか。そんなに酔っていたわけでもないので記憶が飛ぶことはない。それとも寝ぼけて無意識のうちにどこかへ移動させたのだろうか。

 使っていない押し入れを開けるが何もない。木製のテーブルの裏側を見るが貼りついてもいない。冷蔵庫を開けるが、ほとんど何も入ってないのでスマホが入っていればすぐにわかる。

 どこにいったのかなと思った道田の目に、畳の部屋の隅に積まれている下着や靴下やタオルの山が映った。

 まさかと思い山をかき分けていくと、スマホが出てきた。何かありました?と言っているように道田には見えた。

 手に取ると“着信1件”と“なつみ”の文字がディスプレイに貼られ、もちろん“なつみ”の文字の後ろにはドクロマークがあった。

 昨日、寝る間際にかかってきたやつだろう。

 しかし、このなつみという女性はまだこの持ち主と連絡が取れずにいるのだろうか、と道田は思いながら、もう一度万年床に体を滑らせ枕元にスマホを置いた。


 目が覚めると道田は部屋の明かりをつけ、水道水を煮沸して冷やしてある水を喉に流し込んだ。

 空腹感が全くなかったので、朝に茹でた卵に塩を掛けて食し、昼食とした。

 元々食が細いうえに、家でいることが多くなり体を動かすことが減ったので、毎日の食事はこんなものだった。

 やることが無かったので、しょうがなくテレビを点け、NHKのニュースを見る。

 子供の自殺者が年々増えていることを伝えている。SNSの普及による陰湿ないじめの増加や、コロナにより人との接点が減ったことによる孤独化などが原因であるとキャスターは述べている。

 今の若い子たちはこれからたいへんだなぁと自分のことを高い棚に上げて道田が思っていると部屋の呼び鈴が鳴った。

 また、新聞の勧誘かと意に介さなかったが、少し間をおいてまた鳴った。そして、暫く静かになったので諦めて帰ったかと思ったら今度は薄いドアがノックされた。

 息を殺していると「すいません、スマホを落としたんですけど」と若い女性の声がドア越しに飛んできた。

 道田はそーっとドアに近づき覗き穴から外を見る。

 学校の制服を着た中学生くらいの女の子がいる。その制服を道田は思い出した。今朝、ブルーシートで囲まれたペンシル型のマンションの周りにいた女の子たちが着ていた制服と同じ制服だった。

 息を殺す。

「すいませーん、スマホを拾われなかったですか」とさっきより女の子の声が少し大きくなる。

 しかたなく道田は錠を解くとゆっくりと薄いドアを押し開けた。

「すいません」と女の子が頭を垂れる。一人だった。

「スマホなんか拾っていないけど、どうしてこんな汚いアパートなんかに来たの?」

「スマホに位置情報を知らせるアプリがあってそれで調べるとこの場所がどうもそうらしくて。それで順番に聞いて回っているんです」

「ここは俺みたいな年寄りばかりだから、スマホが落ちていても興味がないから拾わないと思うよ。財布だったら拾うかもしれないけどね」と言って道田は薄い笑みを浮かべた。

「わかりました、どうもありがとうございました」と女の子はもう一度頭を垂れると隣の扉の前に移り、同じセリフを吐いた。

 道田はドアを閉めると万年床の枕元に置いてあるスマホを手に取った。

 位置情報だのアプリだの彼女の言っていることはさっぱりわからなかったが、とにかく彼女が落とした自分のスマホが今この辺りにあるということを掴んでいるということは紛れもない事実だった。

 確か、道で拾ったものを黙って持ったままでいると拾得物なんとかで罪になるはずだ。

 道田はジーンズとペラペラのジャンパーに着替えるとおんぼろアパートを出た。

 さっきの女の子がいないか辺りを警戒して近くの大きな公園に向かう。

 あいにく平日で週末のように犬の散歩をしている人もそれほどおらず、家族連れに限っては皆無だった。

 小さな池が見えてきた。

 ジーンズのポケットに手を伸ばしスマホの存在を確認する。

 池の周りには自分と同じく暇を持て余している初老の男性が一人佇んでいるだけだった。

 スマホを手にしてもう一度辺りに目を配らせる。そして、軽く振りかぶった時、自転車に乗った制服警官の姿が視野に入った。

 スマホを握った右手をわざとらしくプルプルと震わせ、顔に近づけると、ディスプレイで何かを見ているふりをする。

 制服警官が横を通り過ぎていく。

 無線機で何かを話している。

 まさか、自分のことではないだろうなと道田はかまえたが、警官が戻ってきて職質を受けることはなかった。

 鳩の糞がこびりついたベンチに腰を下ろす。

 よくよく考えてみると、池になんか捨ててしまうとあの女の子が可哀そうだ。拾った場所の周辺に“戻す”方がいいだろうと道田は思い、池を離れた。


 ペンシル型のマンションはまだブルーシートで包まれていた。マスコミ関係の人なのか、カメラやマイクを持った人が大勢いて、供えられているお花やお菓子やジュースの数は朝に置かれていた時より倍以上に膨れ上がっていた。

 ただし、あの女の子が着ていた制服姿の女の子は一人もいなかった。

 道田は辺りを伺ったが、とにかくいつもより人が多かったので、今朝、卵を買った業務スーパーのある方向へゆっくりと歩を進める。

 途中、細い脇道を何度か見かけたが、スマホを手放すタイミングを得ることができなかった。

 諦めて、来た道を戻り、ペンシル型のマンションの前に再び戻る。

 マイクを持った女性が、男性が持つカメラに向かって唾を飛ばしている。

“いじめ”という言葉を道田は何度も聞いた。


       ⑤

セレモニーホールはたくさんの人で溢れかえっていた。

そこらじゅうから嗚咽が聞こえる。

 若い、まだ未来のある女性が亡くなったのだ。当たり前のことだった。

「どうだった?」

「だめ。年寄りだから、スマホなんか落ちていても拾わないって」

「本当にそのジジイで間違いないの?」

「間違いないよ。汚ねぇ格好して、擦り切れたジーンズの後ろポケットに間違いなく入れたところを見たから」

「て言うか、どうして、あいつがお前に投げつけた時にすぐに拾いに行かなかったんだよ」

「だって、すごい勢いであのマンションの中に駆けていったんでまさか“飛ぶん”じゃないかと思ったら本当に飛んじゃって」

「どうする? あいつの親が学校を訴えて、警察が出てきたらヤバいよ」

「もう一度あのジジイのところに行ってみるよ」

「なんなら私も一緒に行ってもいいから」

「うん、あっ、始まるよ、坊さんが出てきたよ、泣かないとね」

「あんたは本当にそういう演技がうまいよね。

 今度こそ、そのジジイをちゃんと落としてよ、頼むよっ、ねっ、なつみ・・」


       ⑥

 目が覚めると道田はすぐに枕元のスマホの存在を確認した。

 ディスプレイを見るが“着信”の文字は無かった。

 万年床から滑り出ると、いつものスティックパンをインスタントコーヒーで流し込む。

 そういえば、と昨夜見た夢を思い出した。

 確か枕元に置いたスマホが見当たらない。いくら探しても見つからない。一体どこへ行ったんだと思いながらおんぼろアパートにはない革張りのソファに腰を下ろすとお尻に違和感を感じた。

 立ち上がり見るとソファの上にスマホがあった。そして、手に取るとまたお尻に違和感が。よく見るとスマホからは細い紐のようなものが伸びていた。その紐をたどっていくとなんとお尻にたどり着いた。そう、お尻からしっぽが伸びていてその先にスマホがぶら下がっていたのだ。とうとうスマホが人間の体の一部になったんだと納得したところで、その夢は終わった。

 朝食を終えると道田はスマホをジーンズの後ろポケットに入れおんぼろアパートを出る。

 土曜日とあって公園は犬を連れた見るからにリタイア後悠々自適組の人で溢れていて、池の周りにもたくさんの人が朝の柔らかい日差しを浴びていた。とても、スマホを投げ入れられる環境ではなかった。

 諦めて道田は踵を返した。

 と言っても、金がないのでおんぼろアパートに戻る道をたどるだけだった。

 こんなことを一体いつまで続けるんだ。好転することはゼロに近しい。生きるために生きている、毎日浮かぶ言葉だ。

ペンシル型のマンションが見えてきた。

ブルーシートが取り払われていたがエントランスの周りにはまだすごい数のお花とジュースやお菓子が置かれていた。

吸い寄せられるようにエントランスホールに入りエレベーターの釦を押す。

暫くすると降りてきたエレベーターの扉が開いて道田はぎょっとした。

制服警官が二人出てきたのだ。

思わず視線を落とし、エレベーターに乗り込むと自然と最上階の12の釦を押下する。

背中に掻いた汗が引き切らないうちにエレベーターは停止する。

降りると両側に狭い廊下が伸びている。

右側に二戸左側に二戸、右側の廊下をそっと進み、一戸目の玄関扉に背を向けて壁に手を付け下界を見下ろす。汗が渇いた背中に今度は寒気を感じる。

もういいか・・足を上げ壁を乗り越えようとした時、後ろの玄関扉から人の声が聞こえ慌てて足を下ろし、エレベーターに戻る。

しかし、籠が他の階に呼ばれていて二度三度あせって釦を押下していると、玄関扉から住人が出てきた。

道田はぺこりと一礼して、いかにもこのフロアーの友人の家に用事がありましてといった顔をした。

マンションを出るとアパートに戻り、やけに喉が渇いたので、昼間からプライベートブランドの缶ビールを開ける。

どうして、さっき、ペンシルマンションから飛ぼうとしたのだろう。

もういいか・・自分で絞り出した言葉ではなく、どこからか運ばれてきた言葉に道田は感じた。

茹でた玉子に塩を掛けかぶりつく。旨い。たった十円のこの幸せを、死んでしまうと享受することができなくなるのだ。

テレビを点ける。

土曜日の昼間に昔で言うワイドショーが流れていた。出演者は全員がお笑い芸人だった。

「それでは次のテーマです」と品のない短いスカートを履いた女性キャスターが言葉を垂れると“女子中学生 自殺 イジメが原因か”というテロップがテレビ画面を占拠した。

 と、突然、あのペンシル型のマンションがテロップの消えた画面に現れた。

 一昨日の木曜日、一人の女子中学生がマンションから飛び降り命を落とした。遺族が学校でのいじめが原因だと訴えた。母に送った最後のラインは“ママ 今まで ありがとう”だった。

「若いのになぁ・・」と呟き道田はチャンネルを変え茹でた玉子にかぶりつく。

 そして、二つの玉子を食し、缶ビールが空になった時、便意を催し共同のトイレに向かう。

 ちょうど利用者はおらず、今時珍しい和式便所をまたぐ。

「痛てっ!」

 道田は思わず声を発した。

 排出された便に血がまとわりついている。

 酒ばかり呑んできた人生だったので、成人になってからはほぼ軟便だった。よって、慢性の痔持ちだったが、激しく痛んだり出血することはなかった。今感じた痛みは本当に“裂ける”ような痛みだった。

 肛門に残る痛みを感じながら便所を出た道田がそろそろと廊下を歩いていると目の前にこの間部屋を訪ねてきた女の子が現れた。学校の制服を着ていた。

「あっ、どうかしたの?」と道田が声を掛ける。

「まだスマホが見つからないんです。おじさん、ニュースみましたか?私の友達が自殺したんです」

「そうなんだ、同じ学校の、それもお友達だったんだ」

「そうなんです。あの子とのラインだとか一緒に撮った写真とかが一杯入っているんで、どうしても見つけたくって・・」と言って女の子は目に指をあてた。

「可哀そうにね、そうだ、おじさん暇だから、今からこの近所を探してきてあげるよ。もし見つかったら学校に持って行ってあげるよ。神社を少し行ったところにある第三中学だろ」

「いえ、また、聞きに来ます」

「そう、もし見つかったら早く教えてあげたいんだけど、それでいいんならそうするよ」

 道田が言うと女の子は去っていった。

 

       ⑦

 馬場勲が午前の診察を終えて一息つこうとした時電話が鳴った。

「痔なのか排便のたびに痛くて血が出てるんです。一度見ていただきたいのですが、幾分お金があまりないもので、一度の診察でどれくらいかかりますかね」

 初老の男性の声だった。

「三千円もあれば十分です。もし、何なら、お薬は出さずに診るだけでも結構ですよ」

 男性は道田と名乗り、午後から行きますと言って電話を切った。歳は六十五と言った。

 そして、その男性は今日最後の受診者としてやって来た。

「これまではこのようなことはございましたか?」

「酒ばっかり吞んできたんで、ずっと軟便でしたから軽い切れ痔はずっと持ってきました」

「そうですか」と言いながら患部を見るとなかなかの裂け方だった。まさか、あっちの方かと思った。性癖に年齢は関係ない。

「すごい痛みがあって、出血もあったんです」

「そうですか。結構な感じで切れてますので、今日は塗り薬を出しておきます。それで暫く様子を見てください」

「わかりました。診察代はどれくらいになります?」

「通常、二週間分のお薬をお出しするんですけど、とりあえず、一週間分だけ出しておきます。それなら二千円程度で済みますので」

「ありがとうございます」

 頭を垂れると男性は診察室を辞した。

「ふーっ」と大きな息を吐く。

目を瞑ると、今日診察したいくつもの肛門が次から次へと脳裏を駆け巡る。

「そうだ」と言って馬場は机の引き出しからスマホを取り出す。

 何度かスワイプをした後、ディスプレイをタップする。

「久しぶりだな」と漏らして馬場はスマホを耳に当てる。

 暫く同じ姿勢のまま動かなかったが「どうしたのかな」と言葉を吐くと、スマホを耳から離しディスプレイを何度かスワイプした後、ゆっくりとタップした。


        ⑧

昨日の二千円の出費は痛かった。

もらってきた軟膏を患部に塗りながら「痛っ」と道田は言葉を吐いた。

あてられた方も痛いが、あてたほうはもっと痛い、と野球のデッドボールのシーンがあると必ず実況の人が吐く言葉を道田は思い出した。尻も痛いが出費はもっと痛い・・。

少し早かったが夕食とする。

二千円の出費があったので、昨日同様、冷凍うどんを解凍して出来合いのかつおだしをかけて食す。体のいい“ぶっかけうどん”だった。

風呂屋に行く日だったがそれも我慢をしてプライベートブランドの缶ビールを舐めながらテレビを見る。

相変わらず、くだらないバラエティー番組ばかりだったので、NHKの日本の山を紹介する番組を黙ってみることにする。

暫くすると睡魔がそーっと忍び寄って来たので残っていたビールを喉に流し込み、部屋の灯りを消し、万年床に滑り入ろうとした時、枕元のスマホが痙攣を始めた。

ディスプレイを見ると“パパ”という文字が浮かんでいた。

あの女の子は、スマホを落としたことをママには言ったけど、パパにはまだ伝えていないのだろうか。

とにかく、そろそろあの女の子に返してあげないとな、と思いながら道田は眠りに落ちた。


翌朝、目が覚め、反射的に枕元のスマホに道田は手を伸ばした。

見ると、ディスプレイが真っ暗になっていた。どこを触っても、ゆすっても、叩いても状況は変わらなかった。電池が切れたのだろうと道田は思ったが、それ以上は考えず、いつものインスタントコーヒーとスティックパンの朝食を摂った。

そして相変わらず何もやることが無かったので、部屋の灯りを消し、さっきはい出てきたばかりの万年床にまた潜り込んだ。

スマホを手に取るが、ディスプレイは真っ暗なままだった。

本当にこんなことをいつまで俺は続けているのだろうと思い眠りに落ちる。


今日二度目の目覚めを迎えた道田は何気なく、壁に画鋲で張り付けた、毎年年末になると銀行でただでもらってくる小さなカレンダーを見た。

赤い丸で囲まれた15の数字に目が止まる。

忘れていた、今日は二か月に一度の年金支給日だった。

よれよれのジーンズに足を通すと道田はアパートを出た。

いつもなら、冷凍うどんを買う業務スーパーの中にあるATMで金をおろしていたが、今日は気晴らしというか気分転換に二つ向こうの駅へ行くことにした。

久しぶりに乗り込んだ地下鉄の車内、道田は目が点になった。

以前見た光景より、乗客のスマホ使用率がさらに上がっていた。

特に、女性に限っては年齢問わず皆食い入るようにスマホを見ている。

手にしていないのは自分たち高齢者の男たちだけだった。

電車に乗り込んでくると、つり革を掴む前にスマホを手にする若い女性、ベビーカーを手にする女性は子供の顔よりスマホのディスプレイを優先、並んで座る女子校生たちは会話など一切せずに一心不乱にスマホを見入っている。

道田は彼らは何かに“憑りつかれている”いや何かに“操られている”と言った方が正解だろうなと思いながら電車を降りる。

年金支給日なのかどうか、都市銀行のATMには長い列ができていた。そして、ここでも、待っている人たちは猫背になりずっとスマホのディスプレイを食い入るように見つめていた。たかだか五分、十分の間も、手放すこと、離れることが出来ないのだ。

ATMを出ると、一瞬だけだが万札が十枚入った財布をジーンズの後ろポケット、スマホが入ってない方のポケットの上から撫で、たまには人に供してもらって飲食がしたいと思ったが、肛門科での出費もあったので諦め、さらにアパートに戻るために乗る電車賃ももったいなく感じたので、ふらふらと駅から離れる。

暫く歩き“ほろ酔い街道”と書かれたアーケードをくぐると通りの両脇に大小の呑み屋がひしめき合っていた。

“ハッピーアワー”と書かれたスタンド看板の文字に目が止まる。

“十八時まで 生ビール他サワー類180円  日本酒 250円”

 道田は目を疑った。

 生ビールが180円だと?日本酒が250円だと?

 自分の商売全盛時は生ビールは500円と相場が決まっていた。日本酒に限っては一合で五百円二合で八百円はとれた。食べ物ではあまり儲からなかったが、吞み物でしこたま儲けることができた。

 いったいぜんたい、どうなっているんだ?

 ビールなど自宅アパートで呑んでいるプライベートブランドの缶ビールより安いではないか。日本のデフレはここまでひどくなってしまったのか。

 道田は入店しようかどうか迷ったが、思い切って自動扉の細長い釦を押した。

「いらっしゃいませっ」

 威勢のいい声が迎えてくれる。

「おひとり様ですか?」と出てきた若い女性店員の声に頷くと「どうぞこちらに」とカウンター席に案内された。

 店内は十席ほどのL字型カウンターと四人掛けテーブルが二つだけあるこぢんまりとしたお店だった。

 すぐにさっきの若い女性店員がおしぼりと小皿、お箸をもってやって来た。

「お飲み物は何にされますか?」

「あの表に書いてあった180円の生ビールで・・」

「かしこまりました。この後のご注文はQRコードオーダーでお願いいたします」

「はぁ?」

「スマホはお持ちですか?」

「はい」と言って道田はスマホを女性店員に差し出した。

 女性店員は何度かディスプレイをタップした後「充電が切れてますね」と言った。

「乾電池を取り替えたらいいんですか?」

「いえ、充電器で充電をしないと・・」

「その充電器はどこで買えるんですか?」

「家電ショップで売っています」

「どれくらいするんですか?」

「安いのですと千円くらいのものもあります」

「そうなんですか。じゃあ、その何とかコードができないと注文はできないんですか」

「いえ、大丈夫です。ご注文の品を言って頂ければ結構ですので」

「そうですか。じゃあ」と言って道田は店の壁に貼られている短冊を見た。

 安い! 一体どうなっているんだ。

 冷奴が100円だとっ、俺の店は350円だったぞと思い、出し巻き250円! 玉子三個を焼くだけで600円はとっていたのに・・。

「冷奴と出し巻きをください。あ、あと、表の250円の日本酒もお願いします」

「日本酒は常温ですか、それとも燗にされますか」

「熱燗でお願いします」

 女性店員がカウンターから離れていくと道田はカウンターに置かれた白いプラスチックの札に描かれている変な黒い模様で構成された正方形を見る。

 これがさっきの何とかコードなのか?

 これをいったいどうすれば吞み物や食べ物の注文ができるというのか、そもそもここは日本なのか、いや地球なのか、いや現実なのか?

 自問自答の渦に飲み込まれていると生ビールがやってきた。180円だがちゃんとした生ビールだった。

 続いて冷奴がきた。一丁の四分の一程度の大きさだったが十分だった。なんといっても100円なのだ。

 ちゃんと乗っかった生姜の上から醤油を垂らしていると出し巻きがやってきた。

 二切れだったが、ちゃんと今しがた焼いてきたというのが明らかにわかった。

 道田は久しぶりに心が躍った。

 人に供してもらう酒をくらい、美味しいあてを頂く。こんな単純なことにこんなに感動するとは思わなかった。

 まだまだ生きていたい。

 熱燗は少し熱すぎたがそんなことはどうでもよかった。久しぶりの宴、それも、最高の宴だった。

 一時間ほどで、供されたすべての吞み物、食べ物を胃袋に収めお勘定をすると780円だった。

 これなら、毎週とはいかないが、月に1,2度は来ることができる。道田は希望を得ることができた。生きる動機を獲得することができた。

 帰りはさすがにもったいないと思い、そのまま駅には戻らず徒歩でアパートまで戻った。

 昼酒を喰らった後の適度な運動で道田はかなり酔っ払い、あの何とかコードも一度やってみたいなと思いながら、今日二度目の眠りに落ちた。


      ⑨

 ツーコール目で彼女は出てきた。

「久しぶり、元気にしてた?」

「はい、なんとか・・」

「急で悪いんだけど、今日の夜とか行けるかな?」

「は、はい、私は大丈夫です」

「そう。じゃあ、この間のファミレスに六時でいいかな?」

「わかりました」

「この間いっしょに来てくれたさやちゃんだっけ、いくら電話しても出てくれないんだ。おじさん嫌われちゃったのかと思って・・」

「さやは頭がよくって、今度、進学校を受験するから、たぶん勉強が忙しいんだと思います」

「そうなんだ。それはしょうがないよね」

「あのう、一人友達も一緒に連れて行ってもいいですか。同じクラスの子なんですけど」

「大歓迎だよ。じゃあ、なつみちゃん、楽しみにしてるよ」と言うと馬場勲は電話を切った。

       ⑩

お尻の痛みが嘘のように消えた。

軟膏が効いたのだろうと道田は思い、出かける準備をする。

この間行ったあの居酒屋へまた今日も行くのだ。

なにせ、家で吞むより安いわけで、昨日、そして一昨日と夜のプライベートブランドの缶ビールを我慢したので今日は何の罪悪感もなく行けるのである。

電源が切れたままのスマホをジーンズの後ろポケットにしまい、部屋の灯りを消そうとした時インターホンが鳴った。

土曜日だから新聞の勧誘かとドアの覗き穴から外を見るとあの中学生の女の子だった。

そーっと扉を開けると、もう一人、別の女の子が隣にいた。

「おじさん、私のスマホ見つかりましたか?」と女の子が聞く。

「いや、近くを探したけどなかったよ」と道田は嘘をつく。

「そうなんですか。たぶん充電が切れちゃったから位置確認が出来なくなって・・」

「そうなんだ。警察には届けたの?」

「いえ」と女の子が言うともう一人の別の女の子が一歩前に出てきた。

「警察って充電が切れても位置確認ができるって言ってましたよ」

「そうなんだ。それなら一層、警察に届け出ればいいんじゃないの」

 二人の女の子は声を合わせて「そうですよね」と言って頭を下げると道田の前から去っていった。

 そろそろ手放さないといけないなと思い、道田は居酒屋へ向かう前に家電量販店へと向かうことにした。

 土曜日とあって店内は結構な人で賑わっていた。

「すいません、スマホの充電器が欲しいんですけど」と道田は若い男性の店員に声を掛けた。

 案内してもらった売り場の前に立つ。

「一番安いのでいいんですけど」

「じゃあ、こちらなんかは」と店員がフックから商品を取り、差し出してくれる。

 千円を超えていた。

「友達と昨日呑んでいたら酔って私の自宅に忘れて行って。車で取りに行きたいんだけどと住所を言ってやったんですけどもう一つ場所がよくわからない。位置情報を使おうと思ったら充電が切れててできない、すぐに充電してくれって、面倒くさい話なんです」

「それでしたら、有料ですけどレンタルできる充電器があります。税込みで330円で、使い終わればコンビニとかで返却できるんです。ただし、料金がこのスマホの所有者の方のご負担になりますけど」

「あ、それでお願いします。やり方がわからないんでお願いしてもいいですか」

「承知しました。では、スマホをお借りしてもよろしいですか」

 道田がスマホを差し出すと店員は「しばらくお待ちくださいませ」と言ってその場を離れた。

 フックに吊り下げられている色んな商品を見るがいったい何に使うものなのか道田には全く分からなかった。

 店員が戻ってきた。

 スマホがピンク色の線で充電器と思われるものとつながっている。

「すぐに使えるようになりますので」

「ありがとうございます。助かりました」

 頭を垂れると道田は量販店を出て居酒屋へと歩いて向かう。

 真っ暗になっていたスマホのディスプレイに明かりが戻る。

 

店に到着するとハッピーアワーのスタンド看板が店前に掲げられている。

 自動扉の長細い釦を押す。

「いらっしゃいませ」の声に迎えられ、この前と同じ女性の店員がこの前と同じL字型のカウンターの席に案内してくれる。

「表の看板の180円の生ビールをお願いします」

「かしこまりました。この後のご注文は・・」と言って女性の店員は道田の顔を覗き込んだ。

「スマホ、充電してきたんですよ」

「そうなんですか、じゃあ、一度、QRコードされてみます?」

「ええ、やり方わからないんで、教えてもらっていいですか」

「いいですよ、ではスマホをお借りします」

 道田はおとなしくスマホを女性店員に差し出し操作を見ていた。

 そして、カシャっというシャッター音が聞かれ店員がディスプレイを一回タップすると「はい、これで大丈夫です。一度やってみますので、何かご注文の品はございますか」

「冷奴をお願いします」と道田が、初めて駄菓子屋さんのおばちゃんに注文する幼稚園児のように畏まって言った。

「まず“TOP”の釦をタップ、指で軽く触れてください」

 言われたままにすると画面が変わった。

「そうしましたら、次にそこの“一品料理”の釦をタップしてください。

 また画面が変わった。

「そうしましたら、ディスプレイをゆっくりと上にスワイプ、掃くように滑らせてください」

 言われるがままに道田は“スワイプ”した。

「そうです、お上手です」

 完全に幼稚園児である。

「おっ」と道田は突然声を上げた。

 ディスプレイに“冷奴”が現れたのだ。

「それをタップしてください」

 言われるがままに道田はタップする。

「そうしましたら“カートに入れる”というボタンをタップしてください。そうすると冷奴がレジ籠に入ったことになるんです」

「なるほど」と道田はディスプレイを睨んで頷く。

「あとは“注文を確定する”の釦をタップしてください。それでご注文は完了です」

 道田がディスプレイをタップすると店の奥から「ご注文有難うございます」と電子音声が聞こえた。

今の自分の注文に対するものなんだろうと道田は思った。

「それではまたわからないことがございましたらお呼びください」と言って女性の店員はカウンター席から離れていった。

 面白いじゃないか、と道田は何十年かぶりに心の底から思った。

 生ビールを半分空けたところで熱燗の注文を試みる。

“飲み物”の釦をタップする。生ビールが一番先頭に登場した。そして、ゆっくりとディスプレイをスワイプすると日本酒が登場した。わざわざ、常温、ぬる燗、熱燗と三種類もある。ぬる燗をタップしお猪口の数は?の質問に“1”を入れ注文を確定させた。

「ご注文ありがとうございます」と店の奥から電子音声が聞こえる。道田はわけのわからない達成感に浸る。

 

あまりの楽しさに道田は予算を五百円オーバーして店を出た。

自分でも顔が火照っているのがわかる。

本当はこの後、もう二駅向こうに行ったところにある大きな商業施設のごみ箱にでもスマホを放とうと思っていたが、もう少し一緒にいたい気持ちになった。

 居酒屋で予算をオーバーしたので歩いてアパートに帰ろうと歩き出した道田だったがあいにく雨が落ちてきた。それも結構な降り方だった。

 酒にも酔っていたのでしょうがないかと、最寄りの駅に向かい切符を買った。

 階段を降りホームに降り立つと、まもなく電車が到着するというアナウンスが流れた。

 ラッキーと思った瞬間、道田の体が勝手に動き始めホーム側の二重扉を掴んだ。

 そして、電車が警笛を鳴らし、道田が二重扉を乗り越えようとした時、間一髪、ホームにいた若い男性が道田の体を掴み、二重扉から引きはがした。

「おじさんっ、何やってんだよっ」と若い男性が血相を変えて道田に言う。

「い、いや、か、からだが勝手に・・」

「だめだよ、命は大切にしないと、おじさん、大丈夫? 駅員呼ぼうか?」

「いや、すまない、もう大丈夫です・・」

 道田の声に若い男性はほんとうかよ?と言った顔でその場から離れていった。

 たまたま土曜日で利用客が少なかったからよかったが、平日だと多くの乗降客を迎えるこのホームはパニックになっているところだった。

 ホームのベンチに腰を掛け、嫌な脂汗を拭っていると道田は「すいません」と言って肩を軽く叩かれた。

 顔を向けるとあの中学生の女の子だった。

「おじさん、たいへんだったね」と言って彼女は嫌な笑みを浮かべた。

「見てたの?」

「今日はずっと見てました、おじさんのこと」

「ずっと?」

「おじさん、もう怒んないから私のスマホ、返してくれない」

「え、え・・」

「もうわかってるんだから。警察に言ったりはしないからさぁ・・」

「す、すまない、悪気はなかったんだ、道を歩いていたら落ちていて何気なく拾ってしまって、早く届けなきゃと思いながら時間が過ぎちゃって・・」と言って道田はジーンズの後ろポケットからスマホを取り出し彼女に差し出した。

「何も変なことはしていないから。というか使い方が全然わかんないから。ただ、さっき、充電器のレンタルをしたんで330円だけ請求がいくから。あと、居酒屋でお酒と料理を注文するのに使ったんだけど、お金はちゃんと自分で払ったから。あっ、そうだ、これレンタルの充電器、どこでも返せるらしいから」

「知っているよ、何回も使ったことがあるから」

「そうなんだ」

「じゃあ、おじさん、バイバイね。

行こう、ルリカ」

 この間アパートに一緒に来ていた女の子だ。ルリカと言うのかと道田は思った。


 スマホを手放し少しほっとした気分になり、次にホームに入ってきた電車に道田は乗り込んだ。

 しかし、この間のペンシル型のマンションの件といい、今しがたの件といい、一体どうなっているんだろう。毎日、今日で死のう、今日で死のうと思ってきたのが積み重なって、何かの拍子に火がついて、あんな行動を取ってしまったのだろうか。とにかく、そこには自分の意思は全くなかった。

 アパートの最寄り駅に着くと雨は小降りになっていた。

 いつも通る道を少し足早で通り過ぎる。

 ペンシル型のマンションが見えてきた。

 今日は何事もなくのんびりと空に向かってそびえ立っている。

 アパートに着くと、道田は短い時間の間に起ったたくさんのことに疲れ、また昼間の酒の手伝いもあってか、万年床に潜り込んだ。

 しかし、よほど疲れが溜まっていたのか道田は金縛りにあい、無茶苦茶恐ろしい夢をみた。

 動かない体を誰かに両腕と両足を抑えられ、お尻の穴からスマホを突っ込まれたのだ。

「ギャーッ」と声を発したつもりになって目が覚めた。

 手首と足首には掴まれていた感触がはっきりと残っていた。そして、そーっとお尻の穴に指を揃える。しかし、痛みは一切なかった。

 起き上がると冷蔵庫から、水道水を煮沸して冷やした水をごくごくと飲む。

 嫌な汗を感じたので、今日はお風呂の日ではなかったが道田は銭湯に行く支度をする。

 そして、部屋の灯りを落とし、外に出ようとした時、インターホンが鳴った。

 誰だ、もうあの女の子たちではないだろう、覗き穴から外を見ると、目つきの鋭い中年男性が二人立っていた。

「道田さん、警察ですっ」

 背中にすーっと電気が走る。

 道田は恐る恐るドアを開ける。

「すいません、お休みのところ、道田さん、少しだけお時間いいですか?」

「は、はい・・」

 二人の男に連れられ道田はアパートを出て、すぐ目の前に止まっている車の後部座席に乗せられた。

 赤い無地のネクタイをたらした男が助手席に座り体を後部座席に向け、お世辞にもセンスがいいとは言えないペイズリー柄のネクタイを垂らした男が道田の隣に座った。

「道田さん、早速ですがこのスマホを見たことがないですか?」とペイズリーが一枚の写真を差し出した。

 さっきまで所有していたスマホだ。

「今日、充電器のレンタルをされましたよね。

 我々が探しているこの携帯に請求があったもので」

 そんなとこまで調べているのかと思い、道田は素直に認め、拾った経緯をすべて正直に話した。

「遺失物横領になるんですよ」と無地の赤が言った。

「スマホをご提出いただけますか?」とペイズリーが続けて言う。

「いえ、実はもう持ち主に返したんです」

「返した?」とペイズリーが目を丸くして言う。

「はい、つい数時間前に・・」

「返したってどうやって持ち主に返したんだ?」

「どうやってって、普通に手渡しました」

「手渡したって、持ち主はもうこの世の中にいないんだぞ」

「へ?」と道田はペイズリーに負けないくらい目を丸くした。

「この間、そこのマンションで女子中学生の飛び降り自殺があっただろ、その亡くなった子のスマホなんだ。遺族が学校の中でいじめがあったと訴えていて、そのスマホにいじめられていた証拠があるからって遺失届が出されたんだ。マスコミが騒ぎ始めたからうちも本腰を入れてだな・・」

「そうなんですか・・」 

「今はいくらでもGPSで追いかけられるんだよ。この辺りにあるのはわかっていて、そしたら今日充電器のレンタルの請求が来たんで、該当する店に行って店員に聞くと、道田さん、あなたのことを覚えていて・・」

 女の子たちが言っていたことはまんざら嘘ではなかったのだと道田は思った。

「で、誰に渡したんだよ、そのスマホを」と無地の赤がこれまでと違った強い口調で道田に聞いた。

「名前は聞かなかったんですけど、自分が落としたものだと・・亡くなった女の子と友達だと言って一緒に撮った写真とかラインと言うんですか、よくわかんないんですけどその思い出がどうしてもと言って・・」

「とにかく同じ中学の子に間違いはなさそうなのか?」

「ええ、あのマンションに張られていたブルーシートの周りで泣いていたたくさんの女の子と同じ制服を着ていましたから」

「そうか・・ガキのくせして、考えてやがるな・・」

「あっそうだ、よく電話がかかって来ていて画面に“なつみ”という文字が出ていました。なぜかその後にドクロマークがついていました。それと、もう一人いっしょに来ていた女の子の名前はたしかルリカと言ったはずです」

「そうか、わかったよ、道田さん、とりあえず署に来てくれるか、色々と手続きをふまないといけないんでな」

「私、刑務所に入れられちゃいますか?」

「わかんない、あんたが正直に何でも話してくれたら大丈夫かもしれないけど」

 無地の赤が言うと三人を乗せた車はおんぼろアパートを発った。


      ⑪

「危なかったよねぇ」とルリカが言う。

「ギリギリセーフ、もうちょっとで刑務所に入るところだった」

「そんなんで刑務所なんか入んないでしょ」

「わかんないよ、だって人が一人死んでんだから」

「だけどさぁ、昔仲良かったのに、なんで急に仲が悪くなったのさ」

「これから会うおやじとさぁ、何回か三人で

パパ活してたんだ」

「そうなの?じゃあ今日もそのパパ活?」

「うん。

 言ってなかったけどそうなんだ」

「パパ活って何すんの? よく聞くけどやったことないし・・」

「普通にお茶してだべって五千円もらえるの」

「えーっ、そうなんだっ」

「それをあの子、急に辞めたいって。どうも、お母さんにばれそうになったみたい。お小遣い以上にいろんなもの買ったりするからね」

「そうなんだ。それより、スマホはどうすんのよ。警察も探してるってテレビで言ってたし、あのジジイのところにも絶対に警察は行ってるよ」

「あんなホームレスみたいなジジイのことなんか警察は信用しないよ、顔は見られてるけど名前はばれてないし・・。明日、公園の池にでも捨ててくるよ。

 あっ、あのファミレス、おやじとの待ち合わせの場所よ」

 なつみが指さした先に緑色のネオンを灯すファミレスの看板があった。

「本当にだべるだけで五千円ももらえるの?」

「本当だよ。おやじは確か医者だって言ってたから、五千円くらいなんでもないんじゃないの」

「そうなんだ・・」

 二人が店に入ると男は四人掛けのテーブルでコーヒーを飲んでいた。

「ごめんね、急にお願いしちゃって」

 男は二人の女の子が目の前に立つと、座ったまま言葉を吐いた。

「電話で言ったルリカです」

 なつみがルリカを男に紹介する。

「ルリカちゃん、いい名前だよね。今日はよろしくお願いします。

 さっ、なんでもいいから頼んでね。晩御飯まだだろうからハンバーグでもカレーでもどんどん食べてね」

 なつみとルリカは目玉焼乗せハンバーグ定食とドリンクバーを頼んだ。

「先に今日のお礼を渡しときますね」と男が二人の前に封筒を差し出した。

「中身確認してくれますか」

 男が言うと、なつみは封筒を手に取り、中からお札を取り出した。

「えっ?」

 なつみの親指と人差し指の間には一万円札が三枚挟まれていた。

「お願いがあるんですけど・・」と男が言った。

「エッチはダメよ」とすかさずなつみが声を上げた。

「それは絶対にしません。ただ、少しだけ、協力をお願いしたいだけなんです」

「協力ってなんですか?」となつみが男に聞く。

「それは、これだけたくさんの人がいるところでは話せません」

 なつみとルリカの目玉焼乗せハンバーグ定食がやってきた。

「飲み物取ってきます」となつみが言って二人は席を立った。

「どうすんのよっ」とルリカがジンジャーエ―ルをコップに注ぎながらなつみに聞く。

「エッチはしないって言ってるし、三万円だし、相手は医者だし、いいんじゃないの」

「医者だって、たまにエロいことして捕まってるのいるじゃん」

「大丈夫だよ、もし何かあっても二人だからあんな歳いったおやじならなんとかなるよ」

「そうかなぁ・・」

 なつみがコカ・コーラでコップを満たすと二人はテーブルに戻る。

「これ食べ終わったら、協力してもらいたいことを話すからカラオケボックスにでも行こうか」と男が言う。

「いえ、協力はします」となつみが言う。「だけど、絶対にエッチはダメですから」

「それは約束するよ」

「わかりました」と言ってなつみはハンバーグの上の目玉焼の黄身を割った。


 なつみが目玉焼乗せハンバーグ定食を食べ尽くし、ルリカがその定食の半分以上を残し、男がお代わりした二杯目のコーヒーを飲み干した時、三人はファミレスを出て、流しのタクシーに乗り込みJRの駅前で降り少し歩いた。

 なつみは所謂ラブホテルを想像していたが、男が二人をエスコートしたのは意外にもシティホテルだった。

「先にチェックインしてくるんで、少ししてから、エントランスに入るとすぐ右側にエレベーターがあるんで、それに乗って十九階まで来てくれる。部屋の番号は1919だから」

 言うと男はホテルに入っていった。

「なんなんだろう、協力って?」とルリカがなつみに聞く。

「わかんないよ」

「このまま逃げたらまずいかな」

「私の電話番号がばれてるし・・」

「そうか・・」

「なんとかなるって、ルリカ・・ね」


 1919号室に入ると男は一人用のソファに腰を掛け、またコーヒーを飲んでいた。

「無理を言ってすいません、そこにゆっくりと掛けてください」と手招きした先にはシングルベッドが二つ並んでいた。

「喉が渇いたら冷蔵庫に飲み物が入っていますので好きなのを召し上がってください」と男が言ったが、なつみもルリカも何も言わず二つあるシングルベッドの上にそれぞれ腰を下ろした。

「早速なんですが、以前、なつみちゃんには言ったことがあるかと思うんですけど、私はお医者さんをしています。なんのお医者さんかというと、お尻の医者なんです」

 男の言葉にルリカは「お尻?」と言葉を漏らした。

「肛門科です。私のおじいさんがずっと痔、知ってますよね? その痔でずっと苦しんでいたんで、なんとか助けてあげたいと思って“お尻”の医者になったんです。だから、毎日毎日、たくさんの人の“お尻の穴”を見るんです。さすがに、見飽きると言っていいんでしょうか。たまには、その“手前”にある器官ととことん付き合いたいなぁと思うんです。その思いに是非、協力していただきたいと思うんです」

 ルリカがなつみの顔を見る。

「申し訳ないですけど、スマホをお預かりしていいですか?」

 ルリカはもう一度なつみの顔を見て、なつみはルリカを見て、うん、と頷く。

 二人からスマホを受け取った男は「ルリカちゃん、申し訳ないけど電話番号を教えてくれますか」と言った。

 少し困った顔をしたルリカだったが、しょうがないといった表情で十一桁の数字を男に告げた。

 男はすぐにスマホをシャツの胸ポケットから取り出しデイスプレイをタップした。

 すぐにルリカのスマホが反応したのを確認した男はソファから立ち上がるとスラックスの後ろポケットをまさぐり、おもむろに小さな四角い銀色の包みを取り出した。

「協力をお願いします。これであなたたちのスマホを包んで、私がとことん付き合いたい器官に入れてきてください。最初は痛いでしょうが、案外するりと入りますので。浴室にはいちおうローションも置いてありますので。完了したらまたここに戻ってきてください。下着は付けていただいて結構なので。あっ、あと、マナーモードにしておいてください、バイブレーションはMAXでお願いします」

 

       ⑫

 結局、微罪処分ということで釈放されて署を出た時には日付が変わっていた。

 無地の赤とペイズリーとは別の人間にまた同じことを聞かれ、また同じ回答をして、かなり長い時間待たされた後、最後に身元引受人がいないかと問われたが、子供もいないし妻も死んで身寄りは誰もいないと嘘を言ってやっと解放された。

 タクシーなど乗る身分ではないことはわかっていたのでアパートまでの道のりをよたよたと歩く。

 腹が減った。

 昼間の居酒屋で冷奴と出し巻きを胃に収めたのが最後だった。

 チェーン店の牛丼屋の前を通る。

 いったん通り過ぎたが踵を返した。

 もういいだろう。今度こそ、今度こそ、自分の意思で自分を殺めたら、それでいいんだろ。

 カウンターの席に着くと店員がお茶を出してくれた。

「ご注文はタッチパネルでお願いいたします」と言われた目の前にはそのタッチパネルなのだろうが置かれていた。

 QRコードを体験していたのですぐに操作のやりかたはわかった。

 それにしても牛丼が430円とは安い。ビールを呑むか迷ったが、もういいだろうと久しぶりに瓶ビールを注文した。昼間の居酒屋の生ビールの二倍以上の値段だったが、もうそんなことはどうでもよかった。

 もともと、もう、どうにもならない人生だったのだ、おまけに人生の最後のページで警察の厄介にまでなってしまった。もう、自らの人生という書物は閉じられるべきなのだろう。

 瓶ビールが空くともう一本注文する。本当は久しぶりにというか最後に日本酒を呑みたかったが置いていなかった。

 牛丼が思った以上に量があり、かなり腹が膨れたので、カウンターに置かれた無料の紅ショウガをあてに二本目の瓶ビールを道田は呑んだ。

 周りを見ると客のほとんどは若い人たちでビールを呑んでいるのは自分以外一人もいなかった。

 注文した品をすべて胃袋に収めると道田は店を出てアパートまでの道のりをのらりくらりと歩く。

 ペンシル型のマンションが見えてきた。

芯の先っちょの少し上にとぼけた月がぽっかりと浮かんでいた。


      ⑬

「結局ただの変態じゃんかよ。何が『いやぁ、この歳になって本当にいいものと出会えたよ。スマホは最高だよね。ソフトでも使えるしハードでも使えるし。昔、こんなコマーシャルがあったんだ。ソフトでも♪ハードでも♪コンタクトレンズをつけたまま♪って知らないよね』って知るわけないだろっ、どんだけ歳が離れてるんだよっ」とルリカは毒づいた。

「いいじゃん、三万ももらえたんだから」

「それで『だから今日はハードで使うことに協力をお願いします』って。協力ってなんなんだよっ。『次はどっちにしようかなぁ・・なつみちゃんかなーっ・・て本当はルリカちゃんでしたーっ』て膝を震わせている私らを見て何が嬉しいんだよっ」

「おやじ最後に言ってたじゃん『君たち、性癖ってわかる? 生まれ持った性に関する好みのことなんだけど、それは年齢なんかは関係ないからね』って」

「本当、最悪のおやじだよっ」

「それより、ルリカ、こんな遅くなって大丈夫なの?」

「うん。なつみと試験勉強して、そのまま泊めてもらうからって言ってあるから」

「そうなんだ」と言ってなつみはさっきまで自分の体に入っていたスマホとは別のさやのスマホを手にした。

「あっ! 着信きてるっ、留守電もっ」

「やばいよっ、警察じゃないのっ」とルリカが声を上げ、なつみは前にさやから聞いていたパスワードをタップしてスマホを耳に当てる。そして、みるみる顔色が変わる。

「所持している人はすぐに近くの警察へ届け出てください。ある事案の捜査資料として必要としています・・だって」

「やばいよ、位置情報できっと追跡してるよ」

「ルリカ、悪いけどここで少し待っててくれる。すぐに戻ってくるから」と言ってなつみは自宅マンションのある方向に駆けて行った。


       ⑭

「出てくれないなぁ」

 眼下に広がる街のネオンを見ながら男は言葉を吐いた。

「ルリカちゃんは確かに嫌そうな表情をしていたよな。出て行くときもなつみちゃんは少し笑顔をくれたけど、彼女は目も合わせてくれなかったもんなぁ・・」

 男はテーブルに置いたばかりのスマホをもう一度手にしてディスプレイをタップして耳にあてる。

 暫くすると「出てくれないなぁ」と男は同じ言葉を吐いた。

「しょうがないか、ちょっと協力を求めすぎたかなぁ・・そうだ、明日はまた十代の女性が何人か予約が入っていたから、その辺りであたってみようか」と言葉を垂れた柴田勲は、浴室に行くと、排水溝に重ねて捨てられていたピンク色の薄い透明のゴム状のものを取り上げると鼻を近づけ大きく息を吸った。


       ⑮

 ルリカを起こさないように、なつみはそーっと自室を出る。

 リビングの片隅に置いたビニール袋を手提げの布袋に入れる。

 ビニール袋の中には、ついさっき、人気のない業務スーパーの駐車場でルリカと金づちで粉砕したさやのスマホの欠片が入っている。

 テーブルに置かれた小さなメモ帳の一枚を剥ぎ取ると、なつみは“バカなママは男と旅行に行って夕方まで帰ってこないので。冷蔵庫の中のものは遠慮せずに取ってください。今年遠足で行った、何とかという公園の池に行ってきます。万が一警察が来ても出ないようにね(笑)”と記し、自宅マンションを出た。

 外はまだ薄暗く、とにかく眠かった。

 暫く歩くと、ずっと握ったままだった、体の一部化としたスマホを見る。

 着信履歴があったので、立ち止まり、覗いてみると“パパ”からだった。今は返信する気にはなれなかったので、スルーをして再び歩き始めると、やがて、目の前にあのペンシル型のマンションが現れた。

 

       ⑯

 目を覚ますとすでに時刻は午後で、道田は、いつも通り、スティックパンをインスタントコーヒーで流し込みアパートを出た。

 部屋の鍵はかけてこなかった。

 警察だとか、無いと思うが出て行った妻が万が一来た時のことを思ってのことだった。

 冷蔵庫には冷凍うどんと冷凍そばを残してきた。プライベートブランドの缶ビールは残っていたものを全て吞み切った。だから、今日は何十年ぶりかの二日酔いだ。ちょうど良かった、気が大きくなって自らの意思を保てる、自らの意思で終止符を打てる。

 とりあえず最寄り駅へ行こう。

 暫くすると、傍らをたくさんのパトカーと救急車が疾走していく。

 何日か前のデジャブのようだ。

 やがてペンシル型のマンションが見えてくる。

 デジャブのような、ではなくデジャブだった。

 マンションのエントランスの周りにはブルーシートが張られ、たくさんのパトカーと救急車が周りに停まっている。

 何かが足に当たった。

 見るとスマホが地面に落ちていた。おまけにびっしりと血がこびりついている。

 道田は躊躇したが、血が自分の手に付かないようにスマホを取り上げた。

ディスプレイを見ると着信履歴として“パパ”の文字と“ルリカ”の文字が記されていた。

道田はスマホを地面に戻すと軽く足で蹴った。

 そして、とりあえず、あの居酒屋へ行ってから、これからのことをゆっくりと考えようと思った。

 女性の店員にはスマホを持ってくるのを忘れたと嘘を言って口頭で注文しよう。冷奴と出し巻きと、180円の生ビールを。


        了

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改 ハリガネムシ @miura

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