Train to rain ~雨、蒸気、重力、グラン・トレーンの車窓より~
人生
プロローグ
分水嶺、兆し
黒と白。
線と図形。
それらが織り成す、"下書き"のように密度の薄い世界。
耳を澄まして神経を張り巡らせ、そうしてようやく質量を感じとれる、立体感という現実感を当然のようには感受できない世界。
その大部分を"白"が占有するなかで、一面に広がる"黒"のうろ。
距離感がおかしくなるような平面的にも見える線形の世界のなかで、それだけが三次元的に、まるで光を吸い込むかのように――
◆
――"姫"が眼鏡をはずすと、そこにはどこまでも続きそうな世界が広がっていた。
薄く雪が積もった見晴らしの良い平原を、夕日が朱く染めている。
「…………」
ふう、と息をつき、車椅子の彼女は眼鏡を仕舞う。
彼女の目の前には、風景を描いたラフスケッチ――画用紙を留めた木の画板があり、その向こうには当然、スケッチのモデルであり、彼女の絵により現実感を肉付けしたものが実在している。
しかしその風景は、あまりにも現実離れしたものだった。
それは底の知れない、巨大な闇。
夕日に照らされ、よりいっそう不気味に、大地に口を開いている。
それは"湖"だ。
正確には、湖だったもの。
かつて"ウァテルシェドの大塩湖"の名で親しまれたその場所は、"内陸にある海"とも呼ばれ、海水のような塩分濃度をもち、また、月のない夜には潮が引くように、その水位が大きく変動することで有名だった。
一説ではどこかで"外海"と繋がっているのではないかと囁かれるも、ほとんど底の見えない湖の調査は極めて困難であり、未だに実証されていない。底なし沼ならぬ、底なしの湖なのである。
しかし近年、その水位は低下の一途を辿っており、時期によっては完全に湖面が見えなくなることもあったという。
そんな、ある種の観光地のように扱われ、
今や完全に、消え失せている。
湖面が見えない、水が涸れた程度の話ではない。湖のあった一帯だけでなく、今やその周辺、それこそ停車駅の一部までも飲み込んで――地面が、陥没している。
そして残されたのは、底の見えない闇ばかり。湖底はどこにも見当たらず、地底も知れない深い穴、小石でも放ればどこまでも落ちていき、その終わりは窺えない。
「たとえば、人を殺して、その死体をここに投げ入れたりしたら……」
村一つぶんの面積があったであろう湖がなくなると、そこには地面に開いた巨大な虚空が顔を覗かせるようになった。それはそれで人々の興味をそそるものであり、毎日のように観光客が訪れてはその底知れない闇を覗き込む。
「証拠隠滅! 完全犯罪ってやつっすね!」
ここにも、二人。有名な景勝地、"ウァテルシェドの大塩湖跡"を訪れた観光客がいる。
「…………」
一人は、"姫"と呼ばれる、車椅子に座った少女だ。腰まで伸びた銀白色の髪を覆うように、すみれ色のマフラーを巻いていた。金色の瞳は暗い穴へ向けられ、白い頬はほのかに上気している。
「というか、みんなよくもまあ、こんなおっかないところを見にきますよねえ」
周囲には断続的に柵がつくられ、その淵によっぽど近付かない限り誤って転落するようなことはないだろうが、
「誰かが急に突き飛ばしてきたら、などと考えて疑心暗鬼ですよ」
……それとなく、"姫"は車椅子の車輪にロックを掛ける。
「てか、万が一にでも落っこちたら……おぉ、コワっ。ちょっとジブン、今夜これ夢に見そうっすわ」
「……自殺願望?」
「そっちの"
そしてもう一人は、全身黒づくめの人物だ。闇がにじみ出してきたように真っ黒な作務衣に、徹底的に素肌を隠そうとするように靴下や手袋、果てはフードに加えて顔面を黒い布で覆い隠している。いわゆる"
首からはストラップを下げていて、そこにはレンズのついた四角い物体。背にはリュックと筒状のケースを負っている。
「……酔生夢死」
「え? ん?」
「……暗中模索」
空は曇り、まだ日は沈んでいないはずだが、周囲はすっかり薄暗かった。
「えっと……もしかして、これって?」
「四苦八苦」
「!」
点々と設置されたガス灯がひとりでに点り始めるも、目の前に広がる巨大な深淵の前ではどうも頼りなかった。
「あ、あっ、えーっと……あーっと……」
「……わたしの勝ち」
「やっぱり! なんかよく分からないうちに負けていた! でもここまでロクに口もきいてくれなかった"姫"のお茶目な一面を見れたので全然
「……
「!!」
その時、汽笛の音が聞こえた。
振り返れば、薄闇に白く浮かび上がる鋼鉄の塊がある。
一見無骨ながらもシンプルに洗練されたデザインを持つ、サイドタンク式の蒸気機関車である。ボディ側面には「GT-SL E01」の文字。機関車を含めて四両編成で、客車は三等から個室付きの二等車までの三両あり、大陸中の人々の主な移動手段となっている。
先刻、大陸中に張り巡らされていた鉄路を日々の運行表通り、人々を乗せて進んでいた"エコー1"であったが、"ウァテルシェドの大塩湖跡"で一時停止を余儀なくされた。
というのも、大地の陥没が停車駅のみならず、鉄路のある地盤にも及んでいたためである。幸いにも"鉄路自体"は残っていたが、その道の下は底の見えない虚空。車両を走らせることは出来るだろうが、その重量に鉄路が耐えられるかは分からない。
そのため、一時的に乗客を降ろし、鉄道車両のみを通過させようという試みがとられたのである。安全性を考えるなら、引き返して別の路線を進むべきなのだろうが、陥没した大地は数メートルほど、鉄路はその間隙に架かる橋のようになっていて、これならばなんとかなると関係者らは考えたのかもしれない。
そして実際、車両は無事に鉄路を乗り越えた。先の汽笛は運行再開を告げる合図だ。
車両の通過を待つため下りていたものや、あるいは本来この地が目的だったものたちも、運行の再開を告げる鉄道へと次々乗り込み始める。それは移動のためというよりむしろ、この現実感の欠如した光景から逃げ出そうとするかのようだった。
停車駅はなくなり、周囲の地面も欠けている。大地の崩壊、底なしの闇。この異変はこの場所だけの問題なのか――そんな不安が、人々の心を侵し始めていた。
「…………」
"姫"は車椅子の車輪のロックを外すと、画板をかき抱くようにしながら、片腕で車輪を回し器用に方向を転換、"大穴"に背を向ける。
「な、何かもう一つ、もういっこ出せれば……! そんなにバリエーションはないはず……!」
言いながら、"
「……不必要」
車椅子を押して、鉄道のもとへ向かう。
「……わたしの勝ち」
「またいつの間にか負けていた!?」
「…………」
はあ、と吐息を漏らす。"姫"の手の中で、吐いた呼気がこの世界に白くわだかまる。
「……"世界の終わり"が始まった。でも、"これ"は悪い兆しじゃない」
「っすかねえ……。でも、相手は"世界"っすよ?」
「そのために……わたしたち『調査室』がいる」
「…………」
その言葉に応えず、"黒衣"は何処吹く風といったように遠くへ視線をやった。
はるか彼方の空に、まるで天を支える柱のように、あるいは世界を貫く槍のように、塔のようにそびえる巨大な黒影が見える。
大陸に五つ存在する、"世界樹"の一つだ。
約束された世界の終わりを見届ける、物言わぬ傍観者。
沈みゆく夕日を浴びたそれらは、あらゆる希望を呑み込もうとするように、黒々とした威容でもって世界に影を落としている。夜が来るより先に、人々を闇の中へと覆い隠す。
そう遠くない空には早くも宇宙が顔を覗かせ、微かながらも力強い輝きが一つ瞬いている。
美の神の名を冠する、宵の明星。落ちた暁の子、あるいは希望告げる明けの明星。
いちばん星。
――雲をつかむような……いや、星に手を伸ばそうとするかのような、そんな途方もない夢物語。
あるかどうかも分からない希望を探す、終わりと常に隣り合わせの旅。
「…………」
"黒衣"は懐から取り出した手帳に、今の心境をしたためる。
――それでも、
そうしているあいだに、"姫"は手ずから車輪を動かし、人々が集まる鉄道へと向かっていた。
その進みは頼りなく、しかし力強く、雪道に残す轍は泥と混ざって決してきれいなものではなく、春を待つ芽を、草花を踏みにじり、それでも前へ進み続ける。
"黒衣"はその背を追いかけた。
「一生懸命!」
「……何、急に」
「それはだいたいこちらの台詞!」
たとえ、明日をも知れぬ我が身でも。
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