天使の椅子

堕なの。

天使の椅子

 その教室は学校の端の方にあった。片付けられていない、物置として使われている場所。嘗て、生徒数が多かった頃の名残。そこが私のお気に入りの場所だった。お気に入りと言っても、数週間に一度訪れる程度の距離感で、私はその教室と共に居た。いつ来ても姿の変わらない教室、成長の見えない自分。そんな所を重ねて見て、息のしやすさばかりを感じていた。

 今日も、久しぶりに教室に行った。ドアを開ければ、日のよく当たる机の上に何かの絵が書かれていた。近づいてみてみれば『天使の椅子』という題名だけがあって、その隣には、机の上の絵を描いたであろうボールペンが置かれていた。どうやらこの教室は、私が来なかった間に他のお客さんを招いていたらしかった。

 天使の椅子は綺麗に描かれていた。椅子の背面についた大きな翼と、座り心地の良さそうなクッション。見た目からして豪華で、でもどこか消えてしまいそうな儚さも持ち合わせていた。カーテンの隙間から入り込んだ光が、天使の頭上から降り注ぐ神々しい光に見えた。尤も、その絵の中に天使は描かれていなかったが、私にはそこで寛ぐ天使の姿がありありと想像できた。

 だから気分で、その絵の隣に感想を書いてみることにした。

「言葉にし難い美しさで、そこで寛ぐ天使の姿が想像できました」

 私は気分の良いまま、その教室を去った。いつも適当に時間を潰すだけのお気に入りの教室を誰かと共有して、嬉しくなってしまったのかもしれない。人通りの少ない廊下をスキップしながら進む。窓の外では蝉が鳴き始めていた。

 次にその教室に私が訪れたのは、一週間後のことだった。机の上を見れば、「ありがとうございます。今、絵を練習中なのであなたに褒めてもらえて嬉しかったです」と綺麗な字で書かれていた。そして天使の椅子の絵の足元には、天使の抜け落ちた羽が数枚描き足されていた。それを見れば、絵の持つ儚さが一気に引き立てられた気がして、私はまた感想を書いていた。

「天使の羽が儚くて、この絵の良さをぐっと引き立てているような気がしました」

 ボールペンを置いて窓を開ければ、蒸し暑い風が入ってくる。だが、部屋の空気も相当暑かったため、特別不快感を与えるような風ではなかった。いよいよ来週から、夏休みが始まる。夏休み前はあと三日間しか学校に来れないが、それが終わればまたこの絵の作者と話すことが出来る。天使の椅子の絵を撫でて、窓を閉めた。机の全体を眺めてみてみれば、机の傷の傍らで見守るように椅子が描かれていて、本当に美しいなと思った。

 私は教室を後にした。開けたシャツの第一ボタンが風に揺れて、もう取れかけになっていたことを知る。これも夏休みのうちに買い替えなきゃと、頭の中でやらなければならないことを整理する。そのうちに、私の意識はあの美しい絵から、これからの楽しい夏休みに向かっていた。


 夏休みが終わって一番に、その教室に向かう。するとあの絵も、書いた言葉も消えていた。机が変えられたわけじゃない。机の傷は全く同じものだった。ただ、絵と交わした言葉だけが忽然と消えてしまっていたのだ。

「なんで? 消えるはずないじゃん。なんで消えたの?」

 迷子の子どもを彷彿とさせるような声だと思った。自分の意識が浮いていて、色んなものが客観的に見えた。良い意味ではないけれど、そのお陰で頭の中が少しづつ整理されてきた。どうやら、あの絵と言葉は私の前から姿を消すべくして消したらしかった。机に横たわったボールペンだけが、現実であったことを証明している。

「会う気ないんだよね。じゃあ、貰うね」

 ボールペンをポケットにしまった。インクはなくなりかけで、擦れるくらい何度もインクを入れ替えて愛用されていたことが分かる。

 私はそのかすれたボールペンで力強く机に文字を刻んだ。

「待ってるよ。ボールペン返して欲しかったら来てね。三年二組の書道好きより」

 相手はもうここには来ないかもしれないし、私も二度と訪れるつもりはなかった。だが、雨垂れ石を穿つという言葉のように、彼女がこの言葉を何度も見て少しづつ心が解かれれば良いと思った。

 でも案外、訪れることをキッパリと辞めれば、受験の慌ただしさにその部屋の記憶は少しずつ薄れていって、十二月頃にはもう思い出さなくなっていた。


 二月の雪の降る日、ふと思い出したように私はあの教室に足を運んだ。相変わらずその教室は寂れていて、誰かが入った形跡はなかった。思いでの机に目を向ければ、消えていたはずのものが戻っていた。そこには、彼女の転校するというメッセージと、椅子の上でしゃがみこんで、羽で全身を覆い隠す天使が描き足された絵だった。そして、机の端っこには私への謝罪が書かれていた。

「ごめんなさい。フリクションペンで書いたんです。虐められてて、転校を伝えるのが怖くて。だから、うっかり陽の光で消えてしまったことにしよう、って。絵を褒められたこと、嬉しかったんです。ずっと否定ばっかりで。でも、もう少し頑張ってみようかなって。先輩、書道で賞を取ってたから誰か分かってて、私だけが分かってるのって不公平だよなって、だから、ずるいけど、ここに名前と電話番号書いたんです。多分、伝わらないけど。だけどもし先輩がこれを見たら、電話してください。待ってます」

 そろそろ卒業だねと言われて買ってもらったスマホを校内で出して、その電話番号にかけた。ありえないだろうけれど番号が変わっている可能性もあったし、なるべく早く本人の声が聞きたかった。直接話してみたかった。

「もしもし、あ、あの、誰ですか?」

 警戒心の籠もった声で電話に出た少女に、私はこう返した。

「久しぶり、天使の椅子の君」

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天使の椅子 堕なの。 @danano

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