繭
空乃 夕
第1話
彼女は一人で本を読んでいた。
夕暮れに赤く染まる教室。
夕日と同化した彼女の姿は、神々しくも儚さを帯びている。
光に反射して顔はよく見えない。
泣いているようにも、微笑んでいるようにも感じられる。
グラウンドからは部活に励む生徒の声が響いてくる。
校舎に残っている生徒は少ない。
忘れ物を取りに教室まで戻ってきた雪奈は、彼女のいる神聖な空間に入ることに躊躇いを覚え、廊下からひっそりと覗いていた。
「どうしたの?入らないの?」
雪奈の存在に気づいた彼女は、優しく囁くように言う。
その声は透明で消え入りそうだが、それでいてはっきりと耳まで届く心地よさであった。
「衣川さんの邪魔になっちゃうかなって」
雪奈は緊張のせいで声が震えそうになるのを感じた。
「私だけの教室じゃないんだから、遠慮しなくていいのに」
衣川さんは微笑む。
この春に転校してきたばかりの雪奈にとって、新しい教室はまだ、知らない人の家のような感じがする。
「あまりに熱中してたから」
「そうでもないよ。退屈な本でね。ちょうど切り上げて帰ろうと思ってたんだ」
衣川さんは本を閉じると、カバンにしまった。
何の本を読んでいたのだろうか。
サイズから文庫本だということはわかったが、花柄のお洒落なブックカバーをしていてタイトルまではわからなかった。
何故だか、タイトルを聞くのは憚られた。どうせ聞いたところでわからないだろうし。
「いつも本読んでるの?」
普段の雪奈なら俯き、視線を合わせないようにして退散しただろう。
しかし今日は違った。
私と衣川さんだけの空間。
理性ではなく本能で会話を続けようとした。
「そうだね。他にすることもないし、現実逃避みたいな感じかな」
衣川さんは淡々と答える。
「現実逃避?」
「うん。そういうことってない?無性に現実から逃げたくなる、なんてこと」
「あるかも。私、いつも逃げたい」
これは本心だ。
このどうしようもない現実から逃れたいといつも思っている。
勉強も運動も芸術の才能もない。
人と話すのも苦手だ。
おまけに髪は癖毛でどうにもパサついている気がするし、アゴにはニキビができている。
「いっそ二人で、遠くへ逃げちゃう?」
衣川さんは微笑みながら言う。
夕陽に染まった彼女の表情は美しく、悪魔の囁きのように声が耳元を通り抜けて言った。
それもいいかもしれない。
衣川さんと二人でこの現実から逃げていく。
なんて魅力的なんだろう。
行くとしたらどこがいいだろうか。
北か南か。海外に行くのはどうだろう。
妄想がとめどなく溢れる。
「ごめん。ごめん。ほんの冗談だよ」
「そうだよね」
「あまりに真剣そうな顔をしてたから」
雪奈は顔が赤くなるのを感じた。
本気であるとは思っていない。
けど、少しばかり何かを期待していたのかもしれない。
「悩みがあるなら聞くよ。私で良ければだけど」
衣川さんに見つめられると、心の中を見透かされた気がする。
悩みと言われると、あるようにもないようにも思える。
将来自分が何したいのかわからない。
わからないけど、みんなが大学に行くから私も行く。そのために一応予備校に通っている。
だけどそこには自分の意志などなく、周りに流されているように思えて、勉強に身が入らない。
かと言って、他にやりたいことはなかった。
自分の進む道が正しいとは思えない。
でも、他になをしたらいいか、どうしたらいいかわからなく、途方に暮れるばかりだ。
どうしてみんな、疑うことなく自分の道を決められるのだろう。
私には理解ができない。
そう思いながらも、結局みんなと同じように予備校に通っている自分に嫌気がさす。
これを悩みと言って良いのだろうか。
改めて人に話すほどのことではないだろう。
悩みと言っていいかどうかさえわからない、モヤッとした感情が渦巻き、どうにもできないことが最大の悩みと言えるかもしれない。
「ほら、また深刻そうな顔してる」
衣川さんは優しく微笑む。
その声は悪巧みをしている子供のようにも、不幸の底に沈んだ人を優しく掬い上げる聖母のようにも感じられた。
「冗談、冗談。でもあまり思い詰めない方が良いよ」
「そうだよね。うん、ありがとう」
雪奈は力無く答える。
会話はそこで途切れた。
雪奈は次の一語を探したが見つからず、忘れ物をカバンにしまうと、何も言わず教室を後にした。
転校してから1ヶ月ちょっと経ったが、友達はできていない。
元々人付き合いは得意でないし、その上都会の空気感に馴染めないでいる。
クラスの女子はみんな大人びているように見え、同い年であるはずなのに、上級生のクラスに入ってしまったような居心地の悪さを感じていた。
衣川さんだけは違った。
誰よりも大人っぽいのに、誰よりも無邪気な子供のようである、あどけなさの残る美人だ。
彼女の瞳は、見る者を魅了する宝石のような輝きを持っている。
その一方で、そこはかの知れない暗闇を抱えているようにも映った。
そんな矛盾する性質を備えた彼女に、どことなく親近感を覚えずにはいられなかった。
雪奈はため息をつく。
もう少しちゃんと話をすれば良かった。
せめて、別れの挨拶くらいしておくべきであった。
日が沈んで暗くなった道を歩きながら、さっきのことを思い出していた。
明日は私から挨拶ができたら良いな。
ビルや店の明かりが眩しく輝く虚しい夜がやってきた。
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