いつも隣にいた君
呉根 詩門
第1話
もう、果てしなく過ぎた今までの僕の歩んできた軌跡を思いかえすと必ず僕は、少年時代を思い出す。そして、その思い出の中の隣には必ず君がいた。
そう、春の穏やかな日差しと、草花の香り。夏の照りつく陽射しと、蒸せ返るアスファルトの熱。秋の色とりどり紅葉舞う山々。シンと静まった世界に音もなく落ちる粉雪。永遠に続くと思っていた少年時代の僕は、この繰り返しは、当たり前だと思っていた。そして、隣には君。本当は、かけがえのないとても大切にしなくてはならないことなのに、その時の僕には、わからなかった。本当にごく当然の事だと思っていた。あの時が来るまでは。
ちょっと、ここ最近、僕は、君のことを思い出す事が、困難になってきた。それだけ、僕が歳をとったという事だけど、なんだか、僕の一番大事にしまった思い出が錆びつき、年月によって風化してしまった事に、とてもやるせない気持ちになる。そんな時は、少しでもそれらに抗う様にセピア色に褪せた君の写真を見る。それに写し出された君は、いつも、混じり気のない笑顔で僕に語りかけている。
「健くんは大丈夫。私がいるよ。」
朱里とは、幼稚園時代からの幼馴染で、家も近い事もあって、家族ぐるみで行き交う仲だった。僕は、昔から、体が弱く小さかったので、事あるごとに、からかわれたり、イジメられたりしたけど、その度に朱里が、例えどんなに相手が大きくて、歳上でも、キッと鋭い目つきで睨んで
「なんて事するのよ、健くんに謝りなさい、そうしないと許さないんだから」
と、僕を庇う様に立ってくれて、その度に僕には、その背中がとても大きく見えた。
だから、僕の中では、朱里は、ヒーローだった。
「健くんも、黙ってないで言い返せばいいのに」
朱里が相手と取っ組み合いの喧嘩をした後、2人並んで帰宅する時は、必ずそう言った。その頃の朱里は、幼さが感じられるおかっぱ頭で、身長は、当時の僕より頭一つ高かった。そして、朱里は必ず話す時にはどこまでも澄んだ瞳で相手の瞳を見つめるのが常だった。
僕は、そんな朱里を心の底から尊敬した。どこまでもまっすぐで、物怖じしない澄んだ瞳の朱里を。
僕が朱里を思い出した後はいつも心なしかあの頃の雨の匂いがする。それは、小学五年生の夏の部活動の事だった。
僕は、部活動に入る気は全くなかったけど、朱里が
「健くん、私と一緒にブラスバンド部に入ろう、ねっ」
と言われて、音楽のおの字もわからない僕は朱里の勧められるまま、ブラスバンド部に入った。楽器や楽譜も何もかもわからないけど親鳥の後ろをついていく雛鳥の様に一緒にトロンボーンの担当になった。物覚えの良い朱里は、まるで乾いた大地に降る雨の様に先輩の教えを十二分に吸収して、そしてその大地から色とりどり音色を奏でる様になった。一方僕は使い込まれた硬いスポンジの様に先輩から教わったことを聞いたら忘れるを繰り返し、一向に上達しない使えない奏者だった。合奏でトロンボーンが全員同じメロディーを吹く時には、僕だけ、ポジションが違っているから誰から見ても一目瞭然だった。朱里は、そんな僕を軽蔑したり馬鹿にしたりせずに噛み砕く様に手取り足取り教えてくれた。あれから半世紀以上過ぎた今の僕がトロンボーンを続けられたのは、朱里のお陰で、口をマウスピースに当てて、スライドを動かすと、不思議と隣に朱里が微笑んで褒めて見守ってくれている気が今でもしている。
そしてそんな僕が思い出す小学生5年の夏は、地域の小学校のブラスバンド部が集まり、山間の大型の宿泊施設を貸し切ってセミナーを
三泊四日で行う事になった。
その山間の施設は、個々の寝室があり、大型の食堂と浴場があると言う、小学生頃の僕から見てもよく貸し切りにできたなぁと、感心してしまうくらい立派な建物だった。セミナーにしても、わざわざ東京の有名楽団のプロ奏者を複数招待しての指導と、随分お金のかかった催しだった。日程としては、1日目は、自由行動。2日目は、各々講師の先生による練習方法などの指導。3日目は、全員で合奏が中心となった練習と言った内容だった。
送迎のバスから降りると、山間とはいえ蒸せ返る様な熱気と、焼き付ける様な陽射しが僕たちを出迎えてくれた。そんな中でも僕は木々の間から、セミの喧騒や深緑の匂いを身体全体に感じて完全に別天地に来たのだとしみじみと思った。
朱里は、水色のワンピースに赤いリボンが付いた麦わら帽子を被って、薄く目を細めながら
「健くん、やっと着いたね。山の中でも暑いね。でも、私本当は、海に行きたかったなぁ。健くん見たかったでしょ、わたしの水着姿。」
僕が返答に戸惑っている姿を朱里は、太陽の日差しに負けない様な明るい笑顔で
「うふふ、冗談。練習頑張ろうね。さぁ、行こう。」
と言って、僕の手を引いて、宿泊施設へと一緒に駆けて行った。施設内は、ちょっと寒いくらいにエアコンが効いていて、僕は、ブルブルと寒がっていると朱里は
「健くん、寒いの?私もエアコン寒さは苦手なの。自然の風は、とっても好きなんだけどね、、、そうだ、ここの山の中腹に洞窟があるみたいで、とっても涼しくて気持ちいいんだって、行ってみよう。」
と再び、朱里は、僕の返事を聞かずに走り出して、僕もつられる様に後を追って行った。
朱里は、山道の不安定な獣道も難なく乗り越えて駆けていった。後を追う僕は躓き、よろけながら何とか見失わない様に必死について行くので精一杯だった。
いくらくらい走ったのだろう15分か20分なのかもしれない、朱里は僕が体力的に限界が近くなっているのに気づいてか、急に立ち止まって
「健くん、一旦休もうか。ほら、見て。とってもいい景色だよ。」
僕は、息を切らせながら朱里に追いつくと、朱里の指す方へと視線を向けた。
そこには、今まで僕の住んでいた世界とは、全く違う、深い緑の木々と鮮やかな色をした川が流れいてそんな自然豊かな世界に孤立するかの様に僕達が利用している宿泊施設がポツンとまるで自然に対して人の存在の小ささを感じられる光景だった。
朱里は、にっこりと笑うと
「健くん、記念にここで写真を撮ろうよ。」
と言って、バックからインスタントカメラを取り出して、僕に手渡すと
「ここの思い出を忘れないように互いの写真を持っておこう、健くんが私を撮って、私が健くんを撮るの、いい考えでしょ。」
と言って、朱里は、大自然のパノラマを背景に満面の笑顔でピースサインを決めて、カメラを構えた僕を眩しそうに見つめてきた。
僕は、太陽の様に輝く朱里を暫く見惚れていたけど、ふと正気に戻ってシャッターを押した。そしてインスタントカメラを朱里に返すと満足そうに
「どんな風に写っているのか楽しみ。今度、健くんの番だよ。」
と言って僕は、大自然をバックにできるだけの笑顔を作ったけど
「健くん、表情が硬いよ、リラックス、リラックス。」
と言われて僕は、なるべく自然な笑顔を作ったつもりだけど、朱理は
「あは、変な顔。」
と言って パシャリ と言ってシャッターを切った。その時、ポツリポツリと空から雨が降り始めた。朱里は
「え?こんなにいい天気なのに雨なの?健くん、雨足が早くなる前に洞窟に急ごう。」
と、言って僕と朱里は洞窟へと急いだ。走っている途中徐々に雨が激しくなり、最後は、本当に豪雨となって、びしょびしょになりながら洞窟へと着いた。
洞窟の中は、体が濡れている上に寒いので、僕はガクガク身を震えていると朱里は、
「健くん、大丈夫?顔色悪いよ?え!すごい熱!ちょっと待って先生呼んでくる!」
と言って、朱里は、バックを置いて身一つで洞窟を出て行った。僕は、大丈夫だよと言いたかったけど、うまく声が出なかった。朱里が飛び出して間をおかずに、地鳴りの様な音が辺一面に聞こえた。僕は、フラフラしながら洞窟から顔を出すと、大きな土石流が木々を飲み込み薙ぎ倒していく光景が展開していた。僕は、朱里と叫びたかったけど声はでず、朦朧とする感覚の中意識を失った。
気がつくと、僕は、無機質な病院のベッドの上にいた。何でも、僕たちが洞窟へ向かった後、土石流が起きた事で、捜索隊が組まれ僕だけは、洞窟の前で倒れているのを発見して保護できたが朱里は、どこを探しても見つからなかった。
数日後、朱里の遺体が山の麓で発見された。その時の朱里のお父さんとお母さんの気持ちを想うと今でも心が張り裂けそうな気持ちになる。あまりにも遺体の損傷が激しく、子供の僕を気遣ってか、次に朱里と会ったのは火葬されて遺骨となった姿だった。あまりにも突然の出来事と、非現実的でその時の僕にはうまく飲み込めなかった。ただ、朱里の遺品を整理していると、その中から山の中で撮影したインスタントカメラが出てきたので、朱里のお父さんとお母さんが思い出として現像した写真が、今僕が手にしている物だった。
もう、この世界で朱里の事を今でも確かに覚えているのは、僕だけかもしれない。朱里のお父さんとお母さんは、亡くなり、朱里は、一人っ子だったので他にも兄弟はいなかった。
今年の夏も僕は独り災害があった山の麓にきて、朱里が発見された場所に朱里の好きだった向日葵の花束を捧げた。
黙祷を捧げた後、僕の人生でここに来るのは、今回が最後だと何となくだけど感じていた。帰り道、僕は脇を流れる透き通った川を覗き込むとそこには、白髪の深い皺が刻まれた老人が難しい顔をしていた。
朱里、僕もそろそろ君のところに行くと思う。その時には僕がおじいちゃんだって笑わないで欲しいな。だって僕は、姿は違うけど心はあの頃から全然変わってない健くんなんだから。
いつも隣にいた君 呉根 詩門 @emile_dead
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