公女の行方①

 話は、亡命の日にさかのぼる。


「俺は二階に行く。先に下りて」

 シュッツェの変装を見届け、ウルフは部屋を出た。


 公女の部屋には、香水の匂いが充満している。

 鼻に襲いかかる刺激に耐えつつ、ビエール兵に声をかけた。


「いた?」


「どこにもいない」


「シュッツェが外で目撃されたなら、合流するかもね。ここは俺が残るから捜しに行くといい」


「悪いな。任せるよ」

 疑いもせず、兵士は部屋を出て行った。


 扉を閉め、ウルフは暖炉へ歩み寄る。ダンパーを叩くも、反応がない。


 今度は炉室ろしつに上半身を突っ込み、ダンパーを押し上げた。

 見上げれば闇が広がっている。ただ、それだけだった。


 隠れると宣言したはずの、公女がいない。予想外の展開に、ウルフは瞠目した。

 

『森へ走る、シュッツェを見た』

 脳裏に、無線の声が蘇る。


 なぜ。と違和感を覚えた瞬間、ウルフはきびすを返した。


「マクシム」

 二階へ下りたシキを、偽名で呼ぶ。


「どうした?」


「いなかった」


「え?」とシキの口が、半開きで止まった。


「残って調べるよ。待たなくていい」

 ウルフはブロマイドを差し出す。怪しまれるような物は、持ちたくないらしい。


「気をつけろよ」

 シキは神妙そうに、ブロマイドを受け取る。

 これがアウルなら「ざまーみろ」と笑うだろう。

 

 ウルフは、公女の部屋へ戻った。

 年頃の娘相応に、化粧品や香水に手を出している。

 香水は、有名ブランドのオードトワレ。

 隣には正方形の化粧箱。見た目は、かなり年季が入っている。


 何気なく、引き出しを開けた。

 入っていたのは、装飾が施された折り畳み式のナイフ。

 さらに、足元のゴミ箱を漁る。


 中には黒い糸の束──と思いきや髪の毛だ。

 刃物で切ったらしく、切り口は揃っている。よく見ると、ダークブロンドだ。


 ナイフを使い、髪を切り落とす光景が、容易に想像できる。

 後ろ姿は、シュッツェに酷似するだろう。

 やはり、城外で目撃されたのは公女。とウルフは確信した。


 さらに、家探しを続ける。

 ベッド脇のテーブルに一冊の本。とある冒険家の旅行記だ。


 本を手に取ると、中心辺りのページが自然に開く。

 挟んであったのは、ちぎり取ったメモ用紙。

 元のページに戻したあと、ウルフは懐にしまった。


 そろそろ公女を追わなければ。と裏庭へ。

 清流が城外の森へ続き、しゃれた橋が架かっている。

 あちこちでビエール兵が、捜索に当たっていた。


「聞いたか?」と、雑談が聞こえた。


「広域用の無線が故障したらしい」


「嘘だろ。なんでこんな時に……」


 無線は、兵士たちの詰所にある。常に人目があるため、破壊など不可能だ。


 IMO隊員以外の、何者かに破壊された。

 その上、公女一人で逃げ切れるわけがない。

 やはり、IMOとは違う何者かがいる。ウルフは、その答えを導き出した。


 裏庭の隅に、森へ出られる扉があった。

 何人もの兵士が飛び出して行ったのだろう。

 ぬかるんだ地面に、無数の足跡が残っている。


 裏口から一歩出れば、トウヒが立ち並ぶ国有林だ。

 方角を見失えば、遭難は確実。


 川沿いに下り、ウルフは沢を歩いた。

 間伐されたトウヒが際限なく広がり、方向感覚を狂わせる。


 立ち止まり、耳を澄ませた。

 聞こえるのは車のエンジン音。どうやら、林道があるらしい。


 たとえ潜入に長けたウルフでも、森に踏み込むのは気が引けた。

 森には、危険生物がたくさんいる。

 神経毒を持つクサリヘビに、コブラ以上の毒を持つクロゴケグモ。

 そして、狼と熊。


 狂犬病に感染した狼に襲われれば、死は確実。

 その苦しむさま、死にざまは惨たらしいものだ。


 熊は、ウルフは最も恐れる生き物だ。

 体重は三百キロを越え、時速四十キロで走る。

 巨体に似合わず、音もなく獲物の背後に迫るという。


 しかし、野生動物に遭遇することも、公女を見つけることもできなかった。


 日没前に城へ戻ると、撤収した兵士たちが花壇に座り込んでいる。

 どの顔にも、疲労困憊ひろうこんぱいの色が浮かんでいた。


「聞いたか? 新兵が侵入者に襲われたらしいぞ」

 裏門をくぐるなり、そんな会話が聞こえた。


「何かの薬を打たれたって話だ。無事だといいけどな」


 ウルフは、シキの顔を思い浮かべた。

 麻酔薬を打ったのだろうと、結論を出すのは早かった。


 日没が迫っているが、敵とは雑魚寝ざこねできない。

 まさか、今日も野営になるとは。

 赤い空を見上げ、ウルフはため息を吐いた。

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