第6の章「痴女と、彼と、一生の恋」 3

 誰もお見舞いに来ない病室に、彼女だけが来るようになった。面会時間外でも、窓から入ってくる。つらくて、ひどいせきをしている時に現れては、背中をさすってくれた。いつものことすぎて、もう、誰にも助けを求める気なんてなかったのに。

「ユズさん、僕のどこが好きなの?」

「全部」

 あっさりと言ってくれる。なにがいいんだ、こんなガリガリの男。まあ、顔立ちだけは、いいほうだとは思う。母親似でいつもそれを揶揄やゆされたことは多かったが、顔だけでも良くて、よかったと、安堵した。たくさんの荷物を持つ彼女の横に並ぶのは、おこがましいけれど、それでもこうして自分のところに必ず来てくれるのだから。

 能力だけが目当てだと最初は思っていた。だから、彼女をめちゃくちゃにしてしまおうと自棄やけになった時も、考えたこともあったけれど、彼女に会うとそんなものは霧散むさんしてしまった。本当に、悩みなどなかったように、目の前の霧が晴れるような感覚に陥るのだ。

 広い病室を占拠していることを感謝する日がくるなんて思いもしなかった。肩身のせまい思いを勝手にいだいていたのに、今や真反対のことを思っている。他人が聞いたら憤慨ふんがいものだろうが、知ったことではない。余命の少ない自分にとっては彼女がすべてになりつつあったからだ。

 好きでたまらなくて、踏みつぶしたい凶暴な気分になっても、彼女はあっさりと「いいよ」とか、「そう」とか、なんともいえない気持ちにさせる言葉を返してきた。結果として、なにも、楽しくなかった。なにも満たされなかった。そのことに愕然がくぜんとし、泣いてびたが、彼女はいつものように「べつに」と言う。だからこうして、抱きしめているだけで心が満ちるのがたまらなく愛おしい。

 うーん……やっぱり。

「ユズさん、僕のこういうところは怒ったほうがいいよ」

「……おまえ、マゾだったのか?」

「違うけど……手癖てくせが悪いみたいで」

 彼女にしかこんなこと、しないけど。

「いいんだよ。わたしのほうが、おまえにひどいことをするんだから」

「ユズさんになら、なにされてもいいよ」

「おまえこそ、そういうところ直せ」

 薄暗い室内は心地よかった。まったく怒っていないし、直させる気もない声にちょっと笑ってしまう。

 笑うのと同時に、なぜかいつも涙が出る。腕の中に彼女がいるのに、いなくなってしまうこの不安は消えない。いくら自分を刻んでも、手の届かないところに行ってしまいそうで、本当に嫌になる。仲間の、四号に密かに嫉妬しては歯痒はがゆくなり、狭量きょうりょうさに苦い気持ちになる。……彼女の恋人であっても、仲間ではないことが、嫌でたまらない。

 本当になぜ、彼女は自分を選んだのだろう。治癒能力が目当てだとしても、いま思えば、出会いの時の彼女の行動はおかしかった。選ばれたことにいま、幸せをめていても不安になるから考えてしまう。健康になれば、一緒に戦えるだろうか? 隣に立てなくても、その荷物を少しでもあずけてくれるだろうか? 時々彼女は不思議なことを言う。こちらのくせを知り尽くしたような言動や、予知しているような行動も。

「好きだからだよ、おまえのこと」

 その言葉で、こちらは簡単に舞い上がってしまうのに。助けたいという申し出を、彼女はかたくなに拒むから、無理やり奪った。そう、奪ったのは……。ん?

「…………」

「泣き虫だな、清史郎せいしろうは」

 僕のことだけ、名前で呼んでくれることを知っている。特別扱いをしてくれる。

「そ、そういう、ところも、好き……?」

 しゃくり上げながら問うと、予想よりも柔らかい声が戻ってきた。

「全部好きって言っただろ」

 ああ、すきだ。

 たまらなく、すきだ。

 助けたい。彼女を助けたい。そのためなら、この命を差し出そう。いくらでも利用してくれていい。こんな重たい僕を、背負わなくていい。

「ユズさんは僕をすぐ泣かせるんだから……」

「いや、なにもしてない。してるのはおまえだ」

辛辣しんらつ……。そういうところも、好きだよ」

「……本当に変わってる」

「ユズさん、信じてくれないから」

 この気持ちを、きっと信じてくれない。彼女は責任で恋人になっただけかもしれない。重たいことを言ってしまう自分を、そのたびに嫌いになる。

「信じてないのは、おまえだ」

 その、初めての言葉に目を見開く。肩越しに見える彼女の瞳が、暗闇の中で琥珀こはく色に一瞬輝く。

「いくら与えても、おまえは信じない。絶対を、信じない。なにをしたって、おまえは満足しない」

「ユズさ……」

「おまえはわたしを欲しがるくせに、全部手に入れても不安なままだ。だからおまえは自分を犠牲にする。わたしのためと言って、免罪符のようにあっさりとな」

「し、してない!」

 心でも読まれたのかと硬直してしまう。

「してないよ、ユズさん!」

「……そうか?」

「ほんとのほんとに、してない! そもそも、その、こういう行為も、ユズさんには必要ないじゃないか。実験だって言い訳くれてるのもわかってるよ?」

 半眼になる彼女を前に、狼狽ろうばいしてしまう。なんだか物凄く怒っている気がする。

「いいって、いってるだろうが」

 こ、こわい……!

「余計なことばっかり考えるから、悪いことばかりに考えがいくんだ。どうせ自分を卑下ひげして、足りないって、ないものねだりしてるんだろ」

「うっ」

「わたしだって、聖人じゃないんだから足りないものばかりで気分は悪くなる。お気に入りのワイヤレスは力加減を間違えて何回も壊したし、おまえはいっつもすぐ泣く。わたしは男が望むようなものをそなえてないし、暴力的だって思う」

「…………」

「なんでおまえがわたしのことを好きなのかさっぱりわからないし」

 なんだって! あれだけ伝えてるのにやはり伝わってなかったというのかと、驚愕してしまう。


「ユズさんのこと、好き、で」

 懸命に伝えた時、唖然あぜんとしている彼女の表情に、振られると思った。

「せっかく元気になったんだから、おまえ、モテるだろうに」

「嫌だ! ユズさんがいい! ぜ、全部最初は、好きな人って決めてる。こんな顔してるけど、一途だよ。アピールするところ、あんまりないけど、欲しいのはユズさんだけだから、あ、え、と言い方おかしいよね。どうしよう、言い訳みたいになった……」

「おい……なにも泣くことないだろ」

「だ、だってユズさんモテるから……僕なんか、こんなに好きなのに」

「モテたことない。わたしを好きとか、勘違いとかじゃないのか?」

 怪訝けげんそうにする彼女の両手首をつかみ、見下ろす。

「ど、どれだけすれば本気だってわかってもらえるの、ユズさん。ほかの人にモテても意味なんてないよ。欲しいのはユズさんだけなんだから」

「お、おい……泣きめ」

「ご、ごめ……なんか、本当に男としてやっぱり見られてなくて……情けな……。ぐすっ」

「……そんなに好きなのか? わたしなんかが」

「好き。大好きだよ。好きすぎておかしくなりそう。わたしなんかって、言っちゃだめだよ」

「えぇ? どうすればいいんだ……? すごい泣くんだな、おまえ」

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