怪畏腹 霊璽

 兄は、私の自慢でした。

 眉目秀麗、頭脳明晰、文武両道とは、正に兄の為にあるのでしょう。性格も良く、私は兄に可愛がられ、愛されて育ちました。そんな兄は、近所のみんなの憧れで、恋い慕う女性も少なくありませんでした。縁談が絶え間無く舞い込み、釣書が積み上がっているのが常でした。開かれぬまま、更に上へ上へと釣書が重なり、それはまるで噂に聞く『ミグダル バヴェル』の様で。いつ壊れるのかと冷や冷やしたものです。

 そんな兄にも、届いたのです。なにがって、あれです。赤紙。健康的な若い男を、戦争中の日本國が放って置くわけがなかったのです。

 赤紙が届くなど、分かりきっていたことでございましたが、届いたその日、家は大変な騒ぎで御座いました。なんせ、兄は縁談相手を全て断り、誰とも共になることなく生きていたからです。つまり、跡継ぎがおらぬまま、お国の為に死ぬ事になってしまったわけです。

 家族は、兄に嫁をとらせようと躍起になりましたが、当の本人がそれはそれは手酷く相手を袖にするもんですから、縁談はついに纏まることなく、出征の日を迎えてしまいました。手酷く、そう、手酷くです。あの、兄が、どこで覚えてきたんだという様な罵詈雑言を愛らしい娘さんに浴びせていらっしゃるものだから。私、兄の気が狂ってしまったのかと思いましたわ。でも、私に対しては、いつも通り優しい兄なので、兄が何を考えていたのか、私にはついぞ分かりませんでした。

 ただ、出征のあの日、兄は…笑ったのです。

 元々、よく笑う人でした。大笑い、というわけではないんですよ。穏やかに、微笑みを絶やさないような人だったんです。あの日も、微かな笑みでしたが、私が見たことのない笑みでした。嬉しそう、ではありません。悲しそう、でもありません。あの笑みは、あの笑みは、なんだったのでしょうか。寂しさでしょうか。もう、戻れないことを覚悟して戦争に行く。寂しさだったのでしょうか。


 でしたら、帰って来れた時、兄は嬉しかったのでしょうか。

 ええ、兄は帰って来ました。戦争から。生きて戻ってこれた、数少ない人の一人でした。

 しかし、無傷とまではいきません。

 兄は、誰かに肩を貸されて、漸く歩きながら故郷へと帰って来ました。その顔には包帯がぐるぐると何重にも巻かれ、声を一言も発しません。私は、兄が生きているのかさえ分かりませんでした。生きている、というのは、肩を貸してくださった誰かなのですから。

 その人は、兄と同じ隊に所属していた者だと言いました。兄と同じく、傷だらけで、包帯が顔や手足に巻かれておりまして、兄よりも血や泥で薄汚れ、包帯の隙間から千切れた右耳が見えました。

 兄は、その人と共に敵からの砲撃を受けたそうです。生きているのが奇跡だと、その人は仰いました。仲が良かったらしく、兄から故郷の場所を聞いておりましたので、態々連れ帰って下さったのだと。

 私は、深く頭を下げ、感謝しました。そして、その人に「どうか、上がってくださいまし。御礼をさせてほしいのです」と、願い出ましたが、その人は「私も故郷へと向かう途中ですので。早く行かねば。今日中に、辿り着きたいのです」と、断られてしまいました。ならば、せめて途中まで送らせてほしいとも伝えましたが、「貴女は、御兄様の側に。いつ、容態が変わるか分かりませんから」とまで言われてしまえば、それ以上引き留める事も叶いませんでした。

 その人が、頭を下げると、兄の頭も下がりました。そして、兄の包帯の、丁度目玉があるであろう場所の隙間から、ずるりと何かが零れ落ち、地面に叩きつけられました。

 蛆です。

 私は、その人から兄の身体を受け取り、もう一度礼を述べながら、ぷちりっと蛆を踏み潰したので御座います。


 私は、兄の世話役を命じられました。

 誰も彼もが、兄を悍ましいものとして扱ったからです。母に至っては、鼻をつまみ、汚物でも見るかの様な目で兄を見ておりました。戦争に行く前は、あんなに愛していたというのに。

 隣の娘さんも、お向かいの老夫婦も、あんなに縁談を臨んでいたお嬢さん方も、従姉妹でさえも。皆、兄に近寄ろうとはしませんでした。

 腫れ物のように扱われた兄は、本邸ではなく、離れへと追いやられました。静養するようにと。誰でも建前だと分かる理由を言われて。

 兄の包帯の下を知るのは、私だけでした。

 砲撃を受けて砕けた顎も、削げてしまった形の良かった鼻も、目の失われた虚から湧き出る蛆も。全て、唯一人、私だけが知る、兄の新しい顔でした。

 兄の世話役として、私も離れで暮らす事になり、静かに兄と過ごしていきました。離れには、決まった時間に食事を離れの入口まで運ぶ時と、私が欲しいと求めた物を持ってきて下さる時に使用人達が訪れるだけです。

 それを、寂しいとは思いませんでした。

 私には、兄が居りましたから。

 包帯を変え、身体を清め、どろどろに溶かした食事を与える日々が続きます。兄は話せませんでしたが、私は兄に話しかけ、呻き声から勝手に返答を想像しておりました。


 兄の身体が、良くなることはありませんでした。

 あの人が仰っしゃられた通り、生きてる事が奇跡なのです。これ以上望むのは、贅沢ってものでしょう。私に出来ることは、兄の命を一日でも延ばし、苦しみを長引かせるだけでした。

 日に日に腐る兄の身体に、蛆はいつしか眼窩に押し込められている事を良しとしなくなりました。替えた包帯の下をもぞもぞと蠢き、時に潰れ、その汁を包帯へと吸わせます。最初は、取り除こうとしたのですよ。ですが、一体どこから湧き出てくるのか。蛆は、兄の身体を食い尽くそうとしているのか、少し目を離した隙に兄の肌を無遠慮に舐め回すのです。

 潰して、潰して、また出て、潰して。その繰り返しでした。それが、終わったのは、突然の事です。

 兄が、消えました。

 あんな身体で、どうやって。私は、兄を急いで探しました。庭や床下、箪笥の裏まで。慌ただしく、ばたばたと探しているとですね。畳が、ぐじゅりと。沈んだのです。

 ええ、兄は消えたのではありません。ずぅっと、居たのです。そこに。畳の中に。

 人の形をした、染みでした。何故、最初に気付かなかったのかと思える程にくっきりと、人の形をしていたのです。ぐずぐずに腐った畳の隙間から、蛆が顔を出しておりました。


 兄の葬儀では、空の棺を燃やしました。畳を棺に納めるわけにもいきませんからね。空の棺に縋り付いて泣く家族を私は冷めた目で見ておりました。

 離れは、取り壊そうという話が出ましたが、私がそれを止めてほしいと願うと、渋々ながら話が取り下げられ、条件として私が離れの管理をするよう言い渡されました。願ってもないことです。兄との思い出の詰まったこの離れに、死ぬまで居ろと言うのですから。

 私は、兄の部屋へと行きました。兄の部屋の畳は、未だに兄が染み込んだままになっております。

 その兄の上に、兄の形と重なる様に横たわりました。自重で、畳に少し己の身体が沈みます。それが、兄に抱きしめられているようだと感じられました。

 そうして、横になりながら、私は声を上げて笑いました。

 嗚呼!笑いが止まりません!だってそうでしょう?兄が!あの、兄が!全て、私の物になったのですから!!

 美しかった兄。気高かった兄。私が手にすることの出来ぬものと諦めていた兄。あの、兄を。

 戦争から戻ってきた兄は、戦争に行く前よりも美しく見えました。溢れる血は、珊瑚のように。抉れた肉は、柘榴のように。彩る蛆は、真珠のように。美しかったのです。腐りゆく姿すら。いえ、その身が腐ってゆくほどに。

 あの美しい兄が、私を包みこんでいる。なんと、なんと素晴らしい事でしょうか!

 畳から這い出た蛆を、私は優しく撫でて、摘み上げ、口へと放り込んだ。

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