19 異変
案内された応接室のソファーに座って、ロレッタはクララが戻ってくるのを待っていた。応接室には他にも気分が優れない客人たちが集まっている。
(クララ……どうしたのかしら……)
暖炉の上の時計に目をやると、もう三十分は経っている。
周りの客人たちの会話が聞こえてきた。どうやら、いっせいに客が帰ろうとしているため、混乱しているようだ。大勢の客が一度に馬車を呼べば、門の前が混雑するのは当然だろう。御者や使用人たちも右往左往しているはずだ。
この様子では、しばらくは帰れそうにないのかもしれない。ロレッタはクララが困っているのではないかと心配になり、立ち上がって応接室を出た。廊下では、客人が使用人を呼び止めて文句を言っていたり、怒鳴ったりしている。
使用人たちは忙しそうに走り回っているため、声もかけられない。クララの居場所をきいても、おそらくわからないだろう。自力で探すしかない。だが、自分が歩き回れば、またなにか起こりそうな気がした。
(どうしよう……待っているべきかしら……)
応接室にいても無事とは限らない。一刻も早くこの屋敷を離れるべきだ。それができないのなら、できるだけ人が少ない場所にいる方がいい。そう思い、ふらつきそうになりながら歩き出す。
伯爵家の屋敷は広く、三階に移動すると客人の姿もなかった。
外は雨になっているようで、大きな窓ガラスを滴が流れ落ちている。三階はギャラリーになっているようで、薄暗い廊下に歴代の伯爵の肖像画や、領地の風景画などが、壁に飾られていた。甲冑の影が、絨毯に伸びている。
勝手に屋敷の中を歩き回るのはよくないことだとわかっているが、今はとにかく人のいない場所に移動したかった。
壁に手をついて、一息吐く。その時、窓の外が光ってハッとした。落雷の音がすぐ近くに聞こえた。一瞬だけ窓の外を――黒い翼が過ったような気がする。だが、よく瞬きしても、もうその姿は映ってはいない。
不安感のせいで、あらぬものを見たような気がしているだけなのか。
(クララが探してるかも……)
応接室に戻るべきだろうか。
不意に廊下の先で悲鳴が聞こえ、ビクッとする。
恐る恐る足を踏み出し、途中からドレスの裾を上げながら走る。
角を曲がったところで足が止まったのは、女の子が倒れていたからだ。それも一人ではない。先の方で、もう一人倒れている。エミリーと一緒にいた取り巻きの令嬢の二人だ。
あたりを見回してから、ロレッタは彼女たちに駆け寄る。
「今、人を呼んできます。しっかりして!」
そう声をかけて、呼吸を確かめる。大丈夫、無事だ。そのことにホッとした。
怪我もしていないようだ。気を失っているだけなのだろう。だが、その首を見て、ハッとする。二人の首には蛇が巻き付いたような痕がくっきりとついていた。
「これ……なに?」
ロレッタは当惑して呟く。周囲を見回したが歩いている使用人もいない。誰かを呼びに行かなければ。そう思って足の向きを変えようとした時、部屋の中からも悲鳴が聞こえてビクッとする。
(今の……エミリーの声……よね?)
二人がこの場にいるということは、彼女も一緒にいたはずだ。
急いで声がした部屋に向かい、躊躇してから思い切って扉を開いた。
「エミリー?」
恐る恐る声をかけながら中に足を踏み入れた瞬間、窓の外に稲光が走る。驚いて後退りしたのは、窓のそばに宙に浮いている脚が見えたからだ。
あげそうになった悲鳴を呑み込み、動かない足を無理矢理前に出した。
宙に浮いているエミリーは、苦しそうに首を押さえて、必死に足をばたつかせていた。まだ意識はある。
「い、今助けるわ!」
ロレッタはそう声をかけ、エミリーの脚を抱えるようにしてその体を引きずり下ろす。エミリーは悲鳴を迸らせると、気を失ってしまった。彼女を抱えるようにして絨毯の上に倒れたロレッタは、すぐに起き上がった。
「エミリーっ!」
頬を叩いて呼ぶが、彼女は青くなった顔で目を伏せている。息を確かめる手が震えてしまった。だが、エミリーもやはり息はある。首を見れば、かきむしったような爪痕と、廊下に倒れていた二人と同じ、蛇のような模様が浮かんでいる。
どうすればいいのかわからなくて、ロレッタは泣きそうになりながら、手を伸ばして彼女の首に触れた。その瞬間、腕の刻印がズキッと痛む。
『愚かな娘だ……』
不意に声がして、窓の方を見る。その瞬間、図書室のベランダに通じる大きなガラス戸が砕けた。そのガラスの破片からエミリーの体を庇いながら、ロレッタは悲鳴を上げる。目に映ったのは、あの大きな黒い翼を持つ悪魔の姿だった。
恐怖で動けなくなり、ロレッタは目を見開く。口を開いても、荒い呼吸しかできない。
エミリーを引きずるようにして、窓のそばから離れようとしたが、脚がもつれて絨毯の上に倒れてしまう。
『その娘を見捨てて逃げ出せばよいではないか。なぜ助けようとする……その娘はお前を呪おうとした娘だ。他の二人もそうだ……お前を呪い、不幸に陥れようとした……』
悪魔は図書室に入ってくると、ロレッターとエミリーを見下ろしてくる。犬かオオカミのような顔だが、目がいくつもついていて、それがヌルッと動く。大きな翼を持ち、その頭には角が生えていた。
「呪いをかけたのが……エミリーたちだと言うの?」
震える声で尋ねると、悪魔は目を細める。牙のある口がニタッと笑みを浮かていた。
『愚かな娘どもは、お前が気に食わぬと見える……この世界から消してくれとワタシに願ったのさ。その契約を果たすまで、ワタシはこの地上に留まらねばならぬ。悪く思うなよ、娘……抗わねば、せいぜい苦しまぬようその体、喰らってやろう』
悪魔は舌なめずりしながら、一歩ずつ近付いてくる。
腕に刻まれた呪いの刻印は三人のものだと、ディランが話していた。
エミリーとあの二人がかけたものだったのだろう。
「エミリーたちは……あ、あなたの契約主でしょう。それなのに、なぜ……危害を加えるのですか?」
グレネル先生から借りた悪魔の契約について書かれた本には、悪魔は自分を召喚した契約主に危害を加えることができないと書かれていた。危害を加えるのは、契約主が契約の代償を払わなかった時だけだ。
『いいとも、教えてやろう。お前の首を、その胴体から引きちぎった後でな』
爪の生えた赤黒い腕が伸びてきて、ロレッタは「ひっ!」と悲鳴を迸らせて握り締めていたラピスラズリの石を向ける。その瞬間、悪魔の右腕がちぎれて弾け飛んでいた。それが血をまき散らしながらボタッと絨毯の上に落ちる。
ロレッタの頬にピシャッと赤黒い血が飛んだ。
悪魔は絶叫を上げて飛び退き、『おのれ……人間の娘如きが……っ!!』と唸るような憎しみの声を上げた。全身に黒い煙のようなものがまとわりついていて、見開かれた目が殺気と怒気を帯びていた。
恐怖で顔を引きつり、全身が震えて動かない。
逃げなければ殺されると思うのに、立ち上がることができなかった。それに、気を失っているエミリーを一人ここに残してはおけない。残しておけば、彼女はこの悪魔に全身をズタズタに裂かれて死んでしまうだろう。悪魔はおそらく、自分も彼女も、残りの二人もそうやって殺すつもりなのだ。
叫んだところで誰かに聞こえるとは思えない。それに、駆けつけてきた者も、この悪魔の餌食になる。
「近付かないで……消えてちょうだい!!」
ロレッタは勇気を奮い立たせ、必死に叫んだ。
(助けて……お婆ちゃん……お願い……っ!!)
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